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そこに城があるから
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大谷瓦窯跡

名称:大谷瓦窯跡
住所:埼玉県東松山市大谷

資料は埼玉県立嵐山史跡の博物館発行の「改訂 歩いて廻る 比企の中世・再発見」です。

現地案内板によれば、「おおや がようせき」と読むようです。
国指定史跡なので、それなりに価値があるかも。

トヨタの純正ナビにも案内表示が出ますが迷いました(笑)

ケーブルカー乗り場のような場所が史跡でした。

案内板は2つあります。
昭和30年に2基発掘され、保存状態の良い1基が昭和33年に国指定史跡になったそうです。
「大谷瓦窯跡
(略)
瓦窯跡は、瓦を専門に焼いた窯のことで、瓦の製造は飛鳥時代(7世紀頃)以降盛んになる寺院建築とともに始まったものです。
この瓦窯跡は、山の斜面を利用した登窯とよばれる半地下式のもので、全長は7.60mあります。
(略)
出土遺物は、軒丸瓦、平瓦、丸瓦があり、こうした瓦から窯跡は、7世紀後半頃と思われます。
(略)」
と記されています。

付近一帯は窯跡群が埋没していて、県選定重要遺跡だそうです。
地図はこちら
# by ckk12850 | 2010-02-09 16:40 | 埼玉県【歴史観光】 | Trackback | Comments(0)
松山宿

名称:松山宿
住所:埼玉県東松山市

資料は埼玉県立嵐山史跡の博物館発行の「改訂 歩いて廻る 比企の中世・再発見」です。

松山城の城下町(松本町、本町、新宿町)を散策です。
戦国時代の城下町形成を知る上で、貴重な町並みであります。
幕末に松山陣屋が置かれた城下町でもあります。

最初は松本町1丁目11番地の妙賢寺。

浄蓮寺文書に見られる「堀之内道場」の推定地になるそうです。
上田氏一族の墓といわれる2基の宝篋印塔も本堂左奥に残るので見学。

市指定文化財、上田朝直寄進の十回曼荼羅の案内板が山門前にありましたが、宝篋印塔や堀之内道場については触れられていませんでした。

寺の北側斜面は、まるで要塞でした。写真撮影を試みましたが、雪が降ってきたので断念。
地図はこちら

続いて城下町。
古いのが松本町。
天正4年(1576年)までに本町が、天正13年に新宿が形成されたそうです。
本町は江戸時代になってからも宿場として栄え、その名残を撮影。
じっくり歩いてみると良い雰囲気のはずですが、寒さのため早々に撤退。
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最後に清正公神社。
「改訂 歩いて廻る 比企の中世・再発見」の地図表示と100m以上違う地点で(汗)
探すこと20分、諦めて帰る途中、国道407号線沿いに神社が見えたので念のために訪問したらアタリでした。

埼玉県指定文化財(史跡)の「上田朝直建立青石塔婆」はどこ?
本殿の右側に丁寧に置かれていました。しかも屋根付きの囲いまであって!

元亀2年(1571年)、松山城主上田朝直が一族の菩提のために建立、「施主上田能登守源朝臣朝直入道暗独斎桑門宗調 生年七八」の記述は判別困難。
現地案内板によれば、法華経一千部を唱えたことを記念して建てられたと記されています。
南無妙法蓮華経と中央に大きく書かれた文字は判別可能。上田氏の日蓮宗に対する信仰の深さが伝わります。
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# by ckk12850 | 2010-02-04 20:50 | 埼玉県【歴史観光】 | Trackback | Comments(2)
香林寺

名称:香林寺
住所:埼玉県東松山市宮鼻144番地

資料は埼玉県立嵐山史跡の博物館発行の「改訂 歩いて廻る 比企の中世・再発見」です。
「高坂台地から岩殿丘陵の一帯には、初期と考えられる古式の図像・種子板碑が分布しています。宮鼻の香林寺には仁治2年銘阿弥陀一尊図像があります。(以下略)」
と記されています。

ほう、これは珍しい。

図像の板碑を博物館以外でゆっくり見たのは初めてでした。参考までに仁治2年は1241年です。

ところで立地条件、小代氏館とそっくりなのです。

高坂台地南端にあり、越辺川を天然の要害としています。また西側は侵食谷となっていて、台地端の角地に建立されていることになります。
周辺には高坂台地より湧き出た水も多数ありますので便利だったことでしょう。

小代氏の一族、または家臣が館を構えたとしても不思議ではありません。
個人的には城館と考えたいところですが、板碑と立地条件だけで城館昇格というのも躊躇する結果となりましたが・・・
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# by ckk12850 | 2010-02-03 13:30 | 埼玉県【歴史観光】 | Trackback | Comments(0)
世明寿寺

名称:世明寿寺
住所:埼玉県東松山市正代755番地1

資料は埼玉県立嵐山史跡の博物館発行の「改訂 歩いて廻る 比企の中世・再発見」です。
小代氏館跡の中核とみられる中形の北東、鬼門の方角にあります。観音堂には南北朝期に建立された木造の千手観音立像、風神像、雷神像、二十八部衆像(市指)が安置されています。(以下略)」
と記されています。

江戸時代に修復がされていますが、現代の修復の浄財募集活動が行われていました。人が見当たらず、線香を購入した浄財入れに・・・少しばかり寄付を。

小代氏館の鬼門ということで、何か関係があるのでしょうか。例えば持仏堂から発展した寺とか・・・

初めて訪問した2006年には風格ある山門、または鐘楼のような建物がありましたが、消滅していました。

少し残念です・・・
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# by ckk12850 | 2010-02-01 18:00 | 埼玉県【歴史観光】 | Trackback | Comments(0)
須賀谷原古戦場(須賀谷原遺跡)

名称:須賀谷原古戦場(須賀谷原遺跡)
住所:埼玉県比企郡嵐山町菅谷

上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦、享徳の乱と続いた関東の内乱は、山内上杉氏、扇谷上杉氏が「両上杉」と称され、実権を握るようになりました。
扇谷上杉定正は、家宰太田道灌の働きで勢力を拡大しました。
しかし、その勢力を牽制したい山内上杉顕定の謀略によって、太田道灌は主家扇谷上杉定正が誘殺してしまうのです。
古河公方足利成氏との戦いで歩調を合わせた両上杉氏が次第に対立するようになったのは太田道灌死後のことです。
長享2年(1488年)正月、扇谷上杉定正が足利成氏と長尾景春と連合し、対立が一気に深まります。
2月5日、相模実撒原で両軍の戦いがありました。山内上杉顕定が扇谷上杉定正の本拠地糟谷を攻めようとしたためです。川越城から出陣した扇谷上杉定正が勝利します。
6月18日、武蔵須賀谷原(比企郡嵐山町菅谷)で戦いがありました。
定正は養子朝良を出陣させ、顕定は養子憲房を出陣させています。
2回目も足利成氏と長尾景春を味方にした扇谷上杉定正が勝利します。
11月15日、高見原(比企郡小川町高見)で戦いがあり、3回目も扇谷上杉定正が勝利します。
長享2年以来、12年の戦いは決着せず、結果的に小田原北条氏(早雲)の関東進出を許す結果となるのでした。

訪問した場所は長享2年(1488年)、6月18日の主戦場推定地です。

資料は埼玉県立嵐山史跡の博物館発行の「改訂 歩いて廻る 比企の中世・再発見」です。
平成12年に発掘調査され、鎌倉時代の道路跡、戦国時代の塚2基、墓壙群が発見されています。出土した五輪塔、土器から15世紀後半から16世紀前半にかけての遺跡と判明しています。
土壙墓群の墓域であった場所を片づけて塚を築き、新たに墓を作っていたそうです。
遺跡の年代が須賀谷原の合戦の時期と重なり、遺跡の位置から合戦との関係が推測できるそうです。
現在、出土した五輪塔が堂の中に置かれています。

堂の位置は周辺の最高地点のようで、菅谷館が眼下に、遠くに平澤寺(太田資康陣跡)が見えました。近い将来、宅地開発により見えなくなってしまうでしょう。

平澤寺には、太田道灌の子、太田源六郎資康が父の仇敵を討つため山内上杉方として布陣しています。

遺跡付近は鎌倉街道推定地でもあり、大きな合戦があったとしても不思議ではありません。
地図はこちら
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# by ckk12850 | 2010-01-23 14:30 | 埼玉県【歴史観光】 | Trackback | Comments(2)
押垂氏館

城名:押垂氏館
別名:―
城主:押垂氏
住所:埼玉県東松山市下押垂227番地・西福寺
遺構:?

情報は、埼玉県立嵐山史跡の博物館発行の「改訂 歩いて廻る 比企の中世・再発見」です。
「押垂(おしだり)氏は、野本基員の子基時を始祖とし、押垂に居住したことから押垂氏と称し、鎌倉幕府の御家人として活躍しています。基時は、笠原親景の子で、野本基員の養子となった人物です。
市内上押垂・下押垂の地は都幾川の氾濫源である低地に立地しており、鎌倉時代に開発され押垂氏の所領となったと思われます。押垂氏の館跡は、都幾川の氾濫によって壊滅してしまったのか、現在のところ発見されていません。」
と記されています。
別項では「時基」と称し、野本次郎、左衛門尉、笠原原左衛門尉親景子としています。「基時」は誤植かな!?

野本氏館でも紹介していますが、藤原氏を祖とし、10世紀の藤原利仁鎮守府将軍・武蔵守の末裔とされています。

寺院で藤原氏関係の家紋を探して、突撃訪問を試みるか・・・
徹底的に聞き込みをするか・・・

まずは都幾川右岸を訪問すると良いでしょう。蛇行した川の跡があり、沼になっています。

続いて対岸の村社天神社(天満宮)へ。古風な板石塔婆がありました。東側に堀もありましたが、何と下青鳥(下郷)818番地を訪問していました。

次は上押垂の泉蔵寺へ。

北と東に用水があります。
西には溝。
市指定文化財もあるのですが、時代が違う・・・
南側の堤防沿いに共同墓地もありました。板石塔婆もありましたが、決定打はないように思われ・・・

場所を移動、下押垂526番地の氷川神社へ。

館跡らしい高台が魅力ですが、移転して現在地に建立されたという石碑があり・・・社殿建立のために高台が設けられたかと思われ・・・

最後に下押垂の西福寺へ。
トタン板壁の建物が本堂(苦笑)

ひとまず墓地の家紋を確認。藤原氏関連の家紋は不明。
昭和55年に建立された石碑も確認。石碑には土葬から火葬の風習に改められ、墓地の全面改修を行った趣旨の記載が。裏面には柴生田、青木、内田、小畑、加藤、神田、沢田、清水、関口、長谷部、山下各氏の銘が刻まれていました。

周辺を歩いたら、墓地の東側約100mに立派な西福寺本堂が見えました。

本堂に入る畑で作業をしているおじいちゃんに話を伺うことができました。
「私も歴史が好きなんだけどな、このへんの人は藤原氏の末裔ってことは何度も聞いたことがあるよ。九州から移り住んできたらしいよ。
都幾川の堤防は終戦後にできたんだけど、このへんは意外と高台でな、周囲より8尺(約2.4m)くらい高いんだよ。2km上流で堤防が決壊して、野本の役場はほぼ丸ごと水浸しになったけど、このあたりじゃ台所まで来たか来ないかぐらいだったよ。だから洪水とはあんまり関係ないんだ。
西福寺の住職は柴生田氏でな、多分一番古い家じゃないかな。
20年くらい前だけど、西本宿の寺に移住したよ。こっちは檀家も少ないしな。
戦時中は庫裡が疎開先になってな、東京の偉い画家さんが一家で寺に住んで、そのお礼に残した石碑があるよ」
とのことです。70年分の貴重な話をありがとうございます。

なるほど、本堂周辺は高台のようで、野本氏館もはっきり見えました。
庫裡も掃除すれば住めるのではないかと思えるほどでした。
遺構は・・・微髙台地!?
いや、都幾川の河岸段丘の自然堤防!?

ここが館跡最有力候補地とします。第2候補地を強いて挙げるなら上押垂の泉蔵寺。
野本氏館から至近距離の下押垂を開発した押垂氏は、上流の上押垂へ進出したと考えるのが自然ではないかと思うのですが・・・
地図はこちら
# by ckk12850 | 2010-01-11 08:50 | 東松山市【城跡】 | Trackback(1) | Comments(0)
石垣山城(石垣山一夜城・太閤の一夜城)

城名:石垣山城
別名:石垣山一夜城・太閤の一夜城
城主:豊臣秀吉
住所:神奈川県小田原市早川(石垣山一夜城歴史公園)
遺構:石垣・天守台・他

国道1号線に案内標識が出ているので迷わないでしょう。JR東海道本線早川駅前あたりから一般道を登ります。
途中、石垣山城に参集した人物の紹介がありますので、ゆっくり読んでも良いでしょう。

あっという間に駐車場に到着です。駐車場前の舗装道は太閤道だそうで、昔は石畳だったそうです。無意識に歩いてしまいました(汗)

入口からは整備されている遊歩道でサンダルでも歩けますが・・・
広い!広すぎる!
石垣の一つ一つが大きい!大きすぎる!

小田原北条攻めのための一時的な陣城という先入観があって、天下人の城を甘く考えていました。

案内板があります。
「国指定史跡 石垣山一夜城
所在地 小田原市早川字梅ヶ窪1383番の11番
指定 昭和34年5月13日
史跡石垣山は、JR早川駅の西方約2.5km、国道1号線から東へ約1kmのところにあります。また小田原城まで僅か3kmのところにあり、標高257mの本丸からは小田原城や城下の様子が一望できます。
石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸15万の大軍を率いて包囲したとき、その本営として総石垣の城を築いてから石垣山と呼ばれるようになりました。この城を秀吉が一夜にして築いたようにみせかけたという伝承から、石垣山一夜城とか太閤一夜城などとも言われています。
秀吉は、この城に滞在していた100日余りの間に天皇の勅使を迎えたり、千利休や能役者、猿楽師らを呼び寄せました。また自ら淀君などの側室を呼び、参陣の諸大名にもこれにならうように勧めたといわれています。この城は単に小田原攻めの本営であるというだけでなく、太閤の威信を示すと共に、長期戦に備えた本格的な城構えであったといえます。
この城は関東で最初につくられた総石垣の城です。石積みは秀吉が連れてきた近江の穴太衆による野面積といわれるもので、小田原藩の管理下におかれていた江戸時代にも、度重なる地震に耐え、今日まで当時の面影を大変よく残している貴重な城跡です。
この石垣山は、土地所有者の松岡氏や関係者の御厚意により昭和62年度に公有地化することができ、現在石垣山歴史公園として一般に公開しています。
平成2年3月
小田原市」
と記されています。

二の丸(馬屋曲輪)には櫓台跡があります。

あとはすべて平場のようですが、中心部分、北へ長方形に張り出した部分及び東の腰曲輪の3部分から構成されているそうです。
本丸寄りには馬洗い場と呼ばれた湧き水もあったようです。

枡形門跡を経て本丸へ。

「史跡 石垣山 小田原市長鈴木十郎書」の碑を見て展望台へ。現在の小田原城天守閣を探すのは至難の業ですが。

案内板があります。
「石垣山一夜城の構造
石垣山一夜城は、最高地点の天守台の標高が261.5mあります。
(略)城の縄張りは南北方向に走る尾根を軸にして、その最高地点に本丸と天守台を設け、南には西曲輪と大堀切を隔てて出城が、また北には二の丸や北曲輪、井戸曲輪等が配置されています。このほか本丸の東には南曲輪等の小規模な曲輪群があります。
(以下略)
平成2年3月
小田原市」
と記されています。

天守台跡もあります。どんな天守だったのかなぁ。

落としたくないポイントは井戸曲輪。遺構の保存状態が最も良好です。
今でも湧き出る水を見られるそうです。淀君化粧井戸、さざゑの井戸とも呼ばれているそうです。

疑問は小田原から見えない側にも石垣が使われていること。
これは、臨時の城というより、小田原北条氏滅亡を前提とした恒久的な新領主の城として築いたのではないかとも思えてしまうのです。

豊臣秀吉が最初に陣を構えた北条氏ゆかりの早雲寺も参考にどうぞ。
地図はこちら
# by ckk12850 | 2010-01-01 08:00 | 日本全国【城跡】 | Trackback | Comments(6)
諏訪北Ⅱ遺跡

城名:諏訪北Ⅱ遺跡
別名:―
城主:?
住所:埼玉県桶川市川田谷字諏訪北6756番地
遺構:大溝跡

存在の情報は「埼玉の遺跡マップ」から。住所は桶川市大字川田谷。種別は集落跡、寺院跡、城館跡。時代は平安、鎌倉、南北朝、室町、戦国、江戸とされ、立地は畑。概要として方形の区画をなす大溝跡等とされています。

財団法人埼玉県埋文事業団のホームページに詳細が掲載されていました。
>(略)調査は首都圏中央連絡自動車道桶川ジャンクションの建設に先立つもので(略)
確認の結果、(略)中世の末ころ(約400年前)に掘削され、近世後半(約200年前)に埋没した深さ3mにもおよぶ深い堀などが発見できました。(略)埋まり土から板碑(いたび)や陶磁器などが見つかっています。

さて、訪問。
何と圏央道の建設コース上になっていました。
財団法人埼玉県埋文事業団により発掘調査が行われていましたが、方形の区画をなす大溝跡は確認できませんでした。

方形区画推定地全域を歩いてみましたが不明・・・

間違いなく消滅する遺構として注目したいところです。

いつの時代の城館と推定されているのか不明ですが、石戸宿堀の内石戸城三ツ木城との関係も疑われます。

遺跡の北側にある普門寺も関係あるのでしょうか。

しだれ桜で有名な寺院です。
地図はこちら
# by ckk12850 | 2009-12-14 21:35 | 桶川市【城跡】 | Trackback | Comments(2)
土肥実平館

城名:土肥実平館
別名:土肥氏館
城主:土肥実平、遠平・土肥氏
住所:神奈川県足柄下郡湯河原町土肥1丁目(湯河原駅前)
遺構:城願寺

JR東海道本線湯河原駅前のロータリーに石碑と像があります。
ロータリーの駐車場は15分間無料。写真を撮り、土産を買う余裕もあります。

石碑には「土肥氏館趾」と記されています。
詳しい内容も記されていますが、難しい字が多くて変換するのに苦労しました(苦笑)
「乾坤一擲
源頼朝が覇業を天下に成したるは治承四年(一一八〇)八月その崛起にあたり湘西における筥根外輪山南麓の嶺渓土肥椙山々中の巌窟など複雑なる地利と此の地の豪族土肥実平等一族並びに行實坊・永實坊・僧純海など志を源家に寄せる人の和と天運に依る
石橋山の挙兵地・山中の合戰場・椙山隠潜の巌窟(源平盛衰記に謂う「しとどの岩屋」)・小道の地藏堂・安房を指して解纜した眞鶴崎などまさに千載画期の史跡である
茲に挙兵七百八十年を記念して土肥氏館址に碑を建立するにあたり文を需めらるに仍って誌す
昭和三十五年八月二十三日
神奈川県文化財専門委員 武柳学園長 石野瑛」
難しければいいってものじゃありませんが、唯一の館跡碑ですから。
もっとも駅前が館跡というのは、観光的意図もあるような・・・

土肥實平公並夫人像があります。

こちらは簡単明瞭。案内板もあります。
湯河原町発行のパンフレット「鎌倉幕府 開運街道」によれば、この銅像は源頼朝旗挙げ800年を記念して建立されたそうです。
地図はこちら

さて、駅前の反対側にある山側の城願寺(湯河原町城堀)へ。

ここから見る真鶴の海は見事。土肥氏の館の推定地はここまでと考えて良いかと。
七騎堂、土肥一族の墓所が見どころ。
七騎堂の前に2つ、墓所入口に1つ案内板があります。湯河原町土肥会、謡曲史跡保存会、湯河原町教育委員会が建てています。
七騎堂の前の案内板には、
「謡曲 七騎落と城願寺
謡曲七騎落は、鎌倉武士社会の忠節と恩愛の境目に立つ親子の情を描いた曲である。石橋山で敗戦し逃げ落ちる源頼朝主従八騎は、船で房総に向かうことになった。頼朝は祖父為義・父義朝の先例を思い、八騎の数を忌んで七騎にするよう土肥実平に命じた。
主君の武運を開くために我が子遠平を犠牲にしようと覚悟して下船させたが、折よく沖合いの和田義盛に救われ、歎喜のあまり酒宴を催して舞となるという史劇的創作曲である。
城願寺は土肥氏の持仏堂跡で、土肥郷主実平、遠平父子がその城館の上の丘に創建し、大鏗禅師の弟子雲林清深が中興開山で、足利時代である。土肥一族の墓地があり、七騎堂には七騎の木像が収められている。
謡曲史跡保存会」
と記されています。

七騎とは、源頼朝、土肥三郎実平、安達藤九郎盛長、岡崎四郎義実、新開次郎忠氏、土屋三郎宗達、田代冠者信綱であり、房総までの御一行様です。
なお、房総に向けて舟出した場所は、岩の浦(岩海岸)とされていますが、真鶴港という説もあります。

土肥氏は、高望王を祖とする中村氏の一族であり、新開、土屋、二宮氏と別れています。実平の子、遠平を祖とする小早川氏はあまりにも有名。
土肥一族の奥州藤原氏征伐後については、定かでないようです。源頼朝を窮地から救い出した功労者としては、どうなんだか・・・

しかし墓所には嘉元2年(1304年)銘の重層塔や、永和元年(1375年)銘のある宝篋印塔が残されていて、必ずしも消えた一族とも思えないのですが・・・
地図はこちら
# by ckk12850 | 2009-12-06 11:35 | 日本全国【城跡】 | Trackback | Comments(2)
源頼朝開帆處

名称:源頼朝開帆處
住所:神奈川県足柄下郡真鶴町岩

小田原から国道135号線を走り、岩の浦の海岸(岩海岸)を目指します。有料道路を走ると岩大橋を渡って通過してしまいますので注意!
夏は穴場の岩海水浴場となり、海の家も1軒だけ営業しています。

ここは、源頼朝が石橋山の合戦に敗れた後、房総方面に向けて舟出した地です。治承4年(1180年)8月23日、石橋山の戦いに敗れた源頼朝一行は、「ししどの岩屋」(土肥椙山岩窟または真鶴港脇の洞窟)で難を逃れ、8月27日に北条時政、義時、岡崎義実、近藤七国平が船出しています。
頼朝は翌28日に出発しています。
相模湾を横断し、翌29日安房国猟島に漂着、その後鎌倉を目指すことになります。

この難コースについては、土肥実平の活躍があったからと伝えられています。

海岸沿いの道路に石碑があります。

「源頼朝開帆處」と記された碑には「源頼朝が父の復讐のため石橋山で義のため兵を挙げ、七騎を連れ開帆した。(超意訳)」
と記されています。
謡曲?漢詩?
何が書かれているのか理解できませんでした(苦笑)
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# by ckk12850 | 2009-12-05 07:15 | 日本全国【歴史観光】 | Trackback | Comments(0)
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