「エキサイト公式プラチナブロガー」スタート!
ブログトップ

そこに城があるから

ckk12850.exblog.jp

道しるべ

c0051112_1801640.jpg

名称:道しるべ
住所:埼玉県比企郡嵐山町千手堂

何で「道しるべ」だけのために案内板を設置したのか不明ですが。
幹線道路にあり、嵐山渓谷バーベキュー場も近いから飽きない工夫かな・・・
紅葉が楽しめる嵐山渓谷もありますし、ハイカーも多いです。

案内板があります。
c0051112_180541.jpg

道しるべ
ここは道の交差する四辻で、こうした所に道しるべが建てられた。
ここはまた江戸時代には高札場であった。
高札とは、江戸時代幕府や藩のお觸れを板に書いたもので、それを掲げたのが高札場である。
ここに四角柱で、やや上部がとがった道しるべがある。建てられたのは大正八年(一九一九年)これには「距日本橋元標東京市一六里・距第仲地十四師団宇都宮市三十三里」などと刻まれている。
当時この地方の者が兵役に服するには、宇都宮第十四師団に入隊したという。
その後に馬頭観音と地蔵様が建てられ、この地蔵様には、時々赤い前だれがかけられている。
また、地蔵様のわきには板石塔婆があり、元享三年(一三二三年)の銘と一対の花瓶が刻まれている。
上部は欠損しているが、阿弥陀三尊である。
埼玉県

何度も通っている道なのに、駐車スペースがないため見る機会がありませんでした。
それにしても、この嵐山から宇都宮への兵役とは!
地図はこちら
[PR]
# by ckk12850 | 2016-08-15 07:00 | 街道【歴史観光】

鎌倉街道遺跡(市場・西久保境)

c0051112_1751976.jpg

名称:鎌倉街道遺跡(市場・西久保境)
住所:埼玉県入間郡毛呂山町

毛呂山町の鎌倉街道上道の遺構は、県内屈指です。いや、ナンバー1かも。
毛呂山町歴史民俗資料館が近くにありますので、ここで無料の資料を頂いておくと便利です。資料館を起点に、大類館、苦林野古戦場、大類の鎌倉街道遺構も散策できます。

市場・西久保境の最大の売りは、掘割状遺構の鎌倉街道の遺構を見ることができます。
当時の鎌倉街道の形状が良好に残っています。

標柱があります。
c0051112_17512676.jpg

鎌倉街道遺跡
ここの前を南北に鎌倉街道上道が通っていた。この標識に向って、右手の林道の道を南に行けば、葛川・高麗川を越えて、日高町女影ヶ原古戦場へ行く。左は北方の越辺川に出る。すぐ右手の林道の凹道は、県下でも珍しく良く旧態を残して、昭和五十七年県立歴史資料館によって、試掘調査が行われた。堆積土の下に幅五メートルの旧道面があり両側には排水溝もあった。低湿のため、長い間使用されず、今は旧道に大木が生えている。
昭和六十二年三月
毛呂山町教育委員会

毛呂山町歴史民俗資料館前を通る県道から入れますが、未舗装の道です。オフロード車向けです。標識が多いので迷いませんが。
地図はこちら
[PR]
# by ckk12850 | 2016-08-01 07:00 | 街道【歴史観光】

平野神社(北条氏康陣説)

c0051112_21312154.jpg

名称:平野神社
住所:埼玉県川越市今福

出典は北条五代観光推進協議会が発行した「北条五代外伝 ~ゆかりの地に伝わる逸話~」です。

北条氏康の項で「牛頭天王の霊験」として掲載されています。
川越市にある平野神社の祭神は牛頭天王で北条氏康の建立という。天文年間の合戦中に陣中で病人や使者が続出。氏康が神の御加護を念じて祈った結果、再び活気を取り戻し大勝することができたという。なお、北条の陣はこの神社付近にあったという。

なお、この牛頭天王の霊験は「志村家文書」が根拠とされています。

気になるのは市指定の史跡である砂久保陣場。天文15年(1546年)、川越城攻めの際、上杉憲政、または北条氏康の陣が構えられていたというのですが、距離わずか750m。
c0051112_2133392.jpg


新編武蔵風土記稿には次のように記されています。(意訳)
上杉憲政陣所跡。河越夜戦の陣跡。小田原記の砂窪とは、この場所。しかし、具体的な陣の場所、合戦などすべてについて伝わっていない。もともと広野であって新しい村なので、何も伝わらなかったのだろう。

案内板が設置されていました。
天文15年(1546)のいわゆる川越夜戦の時のことである。
上杉憲政は前年の14年9月末からこの砂久保に陣をとり、8万余騎の兵力をもって川越城を攻めさせた。しかし川越城は北条綱成がわずか3千の兵をもって翌15年4月までよく持ちこたえた。やがて援軍にかけつけた北条氏康の8千の兵は、4月20日の夜半に憲政の陣を急襲して敗走させ、まもなく川越城を救援した。この砂久保は川越城の南西4キロのところにあり、正保頃開墾された村で、この合戦の当時は広漠たる原野に過ぎなかった。
平成元年2月 川越市教育委員会

しかし、平成19年8月以降に設置された新しい案内板は、何と北条氏康の陣になってしまいました。
砂久保陣場跡(市指定・史跡)
砂久保陣場跡は、戦国時代に扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方足利氏の連合軍と小田原北条氏が河越城をめぐり戦ったときに陣が張られた場所です。
関東の戦国時代は、享徳3年(1454)、鎌倉公方足利成氏が関東管領山内上杉憲忠を謀殺した享徳の乱から始まります。成氏は、古河に移り古河公方を称し、山内上杉氏と扇谷上杉氏と対立しますが、この三者はその時々敵味方を換えながら合戦を繰り返していきます。明応2年(1493)、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆の堀越公方を滅ぼし、その子氏綱の代には小田原を拠点に相模、武蔵に進出して両上杉氏と敵対するようになります。
河越城を本城とする扇谷上杉家では、天文6年(1537)、朝興が没し、朝定が跡を継ぐと、乳の遺言に従い勢力挽回を掛けて北条氏を攻めますが反撃され、逆に河越城を失うことになります。その後天文10年(1541)北条氏の代替わりに乗じて朝定は、河越城奪還を企てますが失敗します。
単独で北条を追い払うことができないとみた朝定は、山内上杉憲政と手を結び、氏康がするが今川氏との対戦のために駿河国境に出陣中の隙を衝いて、天文14年(1545)9月26日、河越城に向けて侵攻し、同城を包囲します。北条方の河越城では、北条綱成(氏康の義弟)と、同宗哲(氏康の叔父)が守将を努め、籠城戦を展開します。両上杉氏は、戦いを正当化するために古河公方足利晴氏(妻は氏康の妹)に出陣を懇願し、10月27日に上杉軍に迎えます。こうした状況に対し氏康は、河越城の死守を優先し駿河からの全面撤退と引き換えに今川氏と和睦を成立させ、11月初め頃に小田原に帰陣します。河越城は籠城したまま年を越します。
天文15年(1546)に入ると氏康は、足利晴氏に城兵三千人の助命嘆願をしますが拒否されます。しかし、3月初めに扇谷上杉氏の宿老で岩付城の太田全鑑を離反させ味方に引き入れられたことで、氏康は4月17日に出陣に踏み切り、砂窪(砂久保)に着陣しました。そこで足利晴氏に再度城兵の助命を懇願しますが、取次ぎを拒否されると、4月20日、上杉憲政が氏康陣所の砂窪に攻めかかります。氏康は劣勢を跳ね除け、これを迎撃するとともに、城内からは綱成らも撃って出て、両方面で北条方は勝利します。その結果、上杉憲政は平井城に、足利晴氏は古河に敗走し、扇谷上杉氏は当主の朝定とその重臣難波田善銀が戦死し滅びます。
一般には「河越夜戦」と伝えられ、城兵3千と援軍8千の北条軍が、連合軍八万とも六万五千とも云われる大軍を闇夜に乗じて奇襲し破った合戦とされていますが、兵の数には後世の誇張があり、また実際には奇襲戦ではなく迎撃戦であったようです。
いずれにしろ、この時の合戦によって北条氏の関東支配が優位に展開し始めたという意味では、関東の戦国史を語る上で貴重な合戦であったことは間違いありません。
昭和33年3月6日指定

いつの間に迎撃戦になってしまったのでしょうか。奇襲戦だから勝てたという常識的な考えはどこに!?
平野神社は、どちらの陣だか不明になってしまうのですが、簡単に整理してみます。

歴史人2016年3月号(小和田泰経氏監修・文)は、
北条軍・・・河越城(福島綱成)、武蔵府中(北条氏康軍)
山内上杉軍・・・狭山市柏原
扇谷上杉軍・・・砂久保の陣
足利晴氏軍・・・川越市下老袋

新編武蔵風土記稿は、
北条軍・・・河越城(福島綱成)、狭山市下三ツ木(北条氏康援軍)
山内上杉軍・・・砂久保の陣
扇谷上杉軍・・・河越城の北の方の陣
足利晴氏軍・・・北条氏康の軍勢が小勢と判断できた場所

関東古戦録(関八州古戦録)は、
北条軍・・・河越城(福島綱成)、砂久保(北条氏康援軍)、寺尾(寺尾の住人、諏訪右馬介)
山内上杉軍・・・狭山市柏原
扇谷上杉軍・・・不明
足利晴氏軍・・・河越城兵から攻められた場所

関東古戦録では、河越夜戦は天文7年(1538)という説があるが否定しています。同書が編纂された頃、既に河越夜戦はいつだったのかという混乱が生じていたことを物語っています。
狭山市三ツ木原において北条氏綱と上杉朝定が戦ったもので、北条方が河越城を奪い、朝定は松山城へ逃れた。その後、福島綱成が河越に入った。この年の丙午(1546)4月20日が真説であろう。

志村家文書は、関東古戦録に沿った内容の可能性が高いです。
しかし、関東古戦録には主役であるはずの、扇谷上杉軍が陣を構えた場所の記載がないことが不自然なのです。
もう一つ、寺尾城が無視されて寺尾の住人の記載のみという・・・
地図はこちら
[PR]
# by ckk12850 | 2016-07-15 07:00 | 古戦場【歴史観光】

篩新田遺跡

c0051112_15485931.jpg

名称:篩新田遺跡
住所:埼玉県比企郡ときがわ町

「ふるいしんでんいせき」と読みます。

埼玉県立嵐山史跡の博物館の企画展「中世黎明」で知りました。
その図録の中に記されています。
菅谷大蔵館周辺の遺跡
(中略)大蔵館の西方の鎌形には、木曽義仲に関わる伝承のある鎌形八幡、班渓寺があります。最近、この付近のときがわ町篩新田遺跡跡から一二世紀中ごろの手ぐすねかわらけが確認されています。このように伝承や文献のうえでの世界であった大蔵や菅谷、鎌形も考古学資料は増え、その実態を裏付けています。
とりわけ、篩新田遺跡出土の手ぐすねかわらけのように一二世紀中ごろまでさかのぼる土器は、関東でも最も古い段階のものです。それは、平泉の最盛期にも匹敵する時期のものなのです。

同じく、かわらけについても記されています。
かわらけは、古代の土師器の系譜を引く素焼きの皿です。武士の本拠地などの遺跡では、最も大量に出土する遺物です。
このかわらけは、日常生活で使われるものではなく、特別な儀式や宴会などの飲食器として使用されたものと考えられています。そして一度使うことにより、かわらけにけがれがしみこむと考えられ、くりかえし使われることなく、破棄されました。(以下、略)

時期的には、木曽義仲、秩父重隆、源義賢あたりになるのでは!?

まさかの場所。
もう少し、南東付近を探してしまいました。
県指定史跡、亀ノ原窯跡群が目印ですが、ここは平安時代の南比企地方最大の窯場。
何か関係があるのでしょうか。
c0051112_1550095.jpg

と思っていたら、亀ノ原窯跡群の案内板に篩新田遺跡について記述がありました。
県指定史跡
亀ノ原窯跡群
平成13年3月16日指定
亀ノ原窯跡群は、玉川村の日野原地区、丘陵の先端部西側斜面に分布しています。玉川村、鳩山町、嵐山町の丘陵地帯には、南比企窯跡群と呼ばれる奈良~平安時代にかけて須恵器の生産した窯跡が密集した地域があります。本窯跡群はこの北辺部に当たり、9世紀代(平安時代初頭)の窯跡群として最大規模を誇ります。
(略)斜面裾部は地山を削平した作業場があり、東側斜面上の平坦地には工房集落である篩新田遺跡が位地しています。(略)
また、本窯跡群及び篩新田遺跡から出土した素弁八葉蓮華文軒丸瓦は、武蔵国分寺において塔再建期(9世紀第2四半期)と想定される瓦や大里郡江南町寺内廃寺出土瓦と同笵瓦(同じ型で作った瓦)であり、国分寺に瓦を供給した窯跡群として学術的にも貴重なことから県史跡の指定を受けました。
(略)
埼玉県教育委員会
玉川村教育委員会

地図はこちら
[PR]
# by ckk12850 | 2016-07-01 07:00 | その他【歴史観光】

弘法の願い水

c0051112_20375398.jpg

名称:弘法願いの水
住所:埼玉県東松山市葛袋

岩殿山から葛袋への抜け道を通っていたら偶然標柱を発見。
山沿いの3m道路沿いにありました。弘法大師の石像が目印。

案内が記された石碑がありました。
弘法の願い水
むかし、この地が日照りで困っていたときのこと、岩殿山へ行く途中、ある薬売りが喉の渇きを覚えて困っていたところに、旅の僧が通りかかりました。
その旅の僧が、熱心にお経をとなえ、錫杖を草むらに突きさすと、その場所から突然きれいな清水がこんこんと沸き出し、薬売りは、腹這いになって夢中でその水を飲み喉を潤すことが出来ました。
この後、この泉から湧き出た清水のおかげで、村人も大変助かったことから、この旅の僧は高名な弘法大師に間違いないとしてこの清水を「弘法願いの水」と呼び、人々が代々大事に守ってきました。
大平地区一同

ん!?
弘法大師かもしれないという推測!?

問題は、どれが「願いの水」なのか不明だったこと。
c0051112_20382067.jpg

石碑の近くを探しましたが、田んぼの用水路しか発見できませんでした。
[PR]
# by ckk12850 | 2016-06-20 07:00 | その他【歴史観光】

芭蕉の句碑・不動の滝

c0051112_18144270.jpg

名称:芭蕉の句碑
住所:埼玉県比企郡小川町下里

小川町の下里(しもざと)にあります。
「下里の滝(不動の滝)」や「芭蕉の句碑」の案内表示が点在するのですが、何と槻川を渡河しないと訪問できないという!

句碑の対岸には鳥居がありますが、句碑は不可能でした。
平成27年頃、土木工事が行われていましたが、やっと誰でも訪問できるようになりました。
c0051112_18154493.jpg

鳥居の脇に「芭蕉の句碑」の案内表示があり、「下里の滝の芭蕉の句碑」について簡単な説明があります。
下里の滝の芭蕉の句碑
蛇喰登 幾けバおそろし 雉子乃聲
(へびくうと きけばおそろし きじのこえ)
この句は、元禄3年(1690)の芭蕉の句集「花摘」に収められています。
この句碑がいつ立てられたかは不明ですが、小川町内では江戸後期から明治期にかけて、この他7基の芭蕉の句碑が立てられており、当時俳諧をたしなむ人たちが多かったことを物語っています。

さて、句碑がありました。写真の説明がなければ間違えてしまいそうです。
c0051112_1816139.jpg

案内板があります。
芭蕉の句碑 不動の滝
小川町大字下里2944-2番地
蛇喰登 幾けハおそろし 雉子乃聲

出典 花摘
年代 元禄3年(1690)
年齢 47歳
碑陰 記載なし
句の大意 古歌に「妻呼ぶ雉子」、「子を思う雉子」などと詠まれている雉子だが、蛇を食うなどと聞けば、雉子の鳴き声も恐ろしく聞える。
平成3年3月
小川町教育委員会

句碑と一緒に滝も見ておくと良いでしょう。
c0051112_18162472.jpg

[PR]
# by ckk12850 | 2016-06-10 07:00 | その他【歴史観光】

阿弥陀図像板石塔婆

c0051112_1962424.jpg

名称:阿弥陀図像板石塔婆
住所:埼玉県比企郡小川町下里

小川町の下里(しもざと)・青山板碑製作遺跡が国指定史跡に指定されました。採掘の可能性がある地点が、割谷(わりや)地区、西坂下前A地区、内寒沢(うちかんざわ)地区など19か所確認されています。

比企郡小川町下里の農村風景は、何度訪問しても飽きません。
板碑があるのは知っていましたが、案内板が設置されたことによって、立ち寄った次第。

案内板が設置されています。
阿弥陀図像板石塔婆 大字下里
この板碑は、長享2年(1488)に建てられた月待供養結集板石塔婆で、高さは141.0センチメートルを測ります。
放射光を伴う阿弥陀如来の図像を本尊とし、その上部に天蓋と日月、下部に三具足(燭台・香炉・花瓶)と敷布を垂らした前机が描かれています。銘文には、日祐・妙秀などの法名、三郎二郎・彦次郎などの俗名、合わせて33人の結集の名前が刻まれています。
月待供養は15世紀中頃から東国社会で行われるようになった民間信仰の一つで、この板碑は二十三夜講に集まった人々が建てたと考えられます。小川町に残る中世後期の民間信仰板碑の代表例です。
(平成24年5月2日 町指定有形文化財)

その他、板碑の写真も板碑に記されています。

この板碑の前の無人農産物販売所は、美味しい野菜が安いです。特に九条ネギ最高!
[PR]
# by ckk12850 | 2016-06-01 07:00 | その他【歴史観光】

鬼鎮神社

c0051112_21105756.jpg

名称:鬼鎮神社
住所:埼玉県比企郡嵐山町川島

新編武蔵風土記稿、比企郡廣野村には鬼鎮神社について8文字のみ記されています。
鬼神明神社 村民持

小名として、川島が記されています。(意訳)
川島 ここは村の飛び地で、東の方、太郎丸村を隔てた場所をいう。

何と、江戸時代は鬼神明神社と称し、ほとんど注目されていなかった神社かもしれません。

拝殿前に案内板があります。
鬼鎭神社 御由緒
埼玉県比企郡嵐山町に、畠山重忠公が御造営された菅谷館(菅谷城)があった。 当神社は、その鬼門除けの守護神として、鎌倉街道に沿って建立され、節分祭、勝負の神 として有名である。
約八百年前、安徳天皇の御代、寿永元年に創建され、御祭神は衝立船戸神、八衢比古命、 八衢比売命で、主神の、衝立船戸神は、伊邪那岐命が黄泉の国を訪れた後、筑紫日向の橋小門の阿波岐原で、禊祓いをして持っていた杖を投げ出した時、杖より生まれた神である。 それが幅広く解釈されて、悪魔払いの神、家内安全商売繁昌の神、受験の神と、人生の指針を示し、強い力を授ける神として崇められている。
節分祭は、鬼鎮神社において一番大きなお祭りで、この日は何千何万の人々が「福は内、鬼は内、悪魔外」と連呼する、日本でここだけの鬼の祭りであり、境内は大変な賑わいを見せる。
遠く千年の昔から、勇名を馳せた坂東武者、明治以降の出征兵士の崇敬篤く、戦後は、受験必勝の神様として参拝者は後を絶たず、社頭を賑わしている。
このようなことから「鬼に金棒」と昔から云われている金棒のお守り、祈願成就赤鬼青鬼の 絵馬を授与される方が、非常に多い。
(奉納者芳名)
平成二十六年二月三日
案内板のふりがなは「きじんじんじゃ」でした。
鬼が祀られている神社は非常に珍しいとのこと。
c0051112_21151343.jpg

訪問した日は節分。比企郡の神社仏閣として、これだけ賑わっている光景は珍しいです。
「川越名物」の屋台が並んでいたのも土地柄でしょうか、笑えました。
[PR]
# by ckk12850 | 2016-05-01 07:00 | 神社仏閣【歴史観光】

鳴かずの池

c0051112_20523395.jpg

名称:鳴かずの池
住所:埼玉県東松山市岩殿

坂上田村麻呂(758~811年)伝説の残る池です。

案内板があります。
弁天沼(鳴かずの池)
昔、坂上田村麻呂が岩殿山に住む悪竜を退治し、首を埋めたところにこの弁天沼ができたといわれ、カエルが住みつかないところから「鳴かずの池」と呼ばれたと言い伝えられています。
東松山市観光協会

この池、足利基氏累の堀とも捉えられる場所であり、岩殿観音もあり、比企判官旧地でもあります。

坂上田村麻呂伝説、比企能員ゆかりの判官塚、応安元年(1368年)阿弥陀堂の板石塔婆、足利基氏塁、坂東札所10番巌殿観音正法寺・・・
時代の幅が広く、追及すればするほど歴史解釈が難しい場所です。

比企能員の館があった可能性が高いと思っている地だけに、この池は比企氏の浄土庭園の一部ではないかと思えてなりません。
[PR]
# by ckk12850 | 2016-04-15 07:00 | その他【歴史観光】

阿弥陀堂の板石塔婆

c0051112_2041321.jpg

名称:阿弥陀堂の板石塔婆
住所:埼玉県東松山市岩殿

最近まで案内板もなかったと思われ、初めて知った次第。
岩殿会館の裏、山の斜面にあります。

案内板が設置されたようです。
阿弥陀堂の板石塔婆
市指定有形文化財(昭和40年8月10日指定)
板石塔婆(以下板碑)の多くは、亡くなった人の死後の世界での幸福や安らかに死を迎えられることを願って建てられたものです。鎌倉時代中頃から南北朝時代を経て江戸時代の初め頃まで、全国各地で盛んに建てられています。この時代に多くの板碑が建てられた理由の一つに、貴族社会から武士の時代となり、世の中の騒乱による苦しみや恐れにたいして、仏に心の救いをもとめたためと考えられています。板碑に刻まれた銘文は、文字資料の少ない時代の様子を知る手掛かりとなるもので、貴重な文化財です。
後方の墓地の中腹に建っているひときわ大きな板碑が「阿弥陀堂の板石塔婆」です。「鳴かずの池」ほとりに建つ岩殿会館は、かつて阿弥陀堂があった場所と言われており、このことから「阿弥陀堂の板石塔婆」と呼ばれています。
この板碑は、応安元年(1368年)明超上人が中心となって、同門の50余名の僧侶と共に、真言密教の布教を願って建てられた板碑で、このように多くの人によって建てられた板碑を結衆板碑といいます。
高さ260cmを測り、市内では2番目の大きさの板碑です。連座の上には胎蔵界大日如来の種子、下には5字1句、4句からなる偈文が刻まれています。中央には紀年銘と願主、その右には三列、左には二列の僧侶の名が十段確認できます。左端にも偈文が刻まれています。(略)
この大きな板碑から、当時の岩殿山の繁栄と信仰の高まりを感じることのできる板碑といえます。
平成25年3月
東松山教育委員会

かなり大きな板碑で、岩殿山の繁栄と信仰の高まりを実感できました。

この応安元年(1368年)阿弥陀堂の板石塔婆・・・
坂上田村麻呂伝説の物見山・・・
c0051112_20483966.jpg

同じく鳴かずの池・・・
c0051112_20424994.jpg

比企能員ゆかりの判官塚・・・
c0051112_2049028.jpg

足利基氏塁・・・
c0051112_20492244.jpg

坂東札所10番巌殿観音正法寺・・・
c0051112_20495452.jpg

時代の幅が広く、追及すればするほど歴史解釈が難しい場所です。

なぜか、この板碑だけは中途半端な時代のような気がするのですが、応安元年(1368年)は武蔵平一揆(武蔵平一揆の乱)があった年。河越直重、高坂信重を始め、江戸氏、高山氏、古屋谷氏、新田氏、村山党等が、9歳の関東管領、金王丸(後の足利氏満)に対して蜂起した事件です。
この一揆は、平氏を中心に蜂起していますが、武蔵武士として鎌倉幕府に仕え、政権交代後の足利氏になっても恩賞が少なく、酷使された不満が背景にあったと推測されています。河越直重の相模国守護解任も遠因ではないかと。
高坂氏は近所の高済寺に館を構えていたと伝わります。何か関連があるのでしょうか。
[PR]
# by ckk12850 | 2016-04-01 07:00 | その他【歴史観光】

大築城(遠見・硯水・馬場)

c0051112_1036468.jpg

比企郡ときがわ町と入間郡越生町の境界にある大築城ですが・・・
越生町麦原からのアプローチは、大築城で紹介。
ときがわ町椚平からのアプローチは、大築城で紹介。

今回は、大築城に由来する地名、硯水、馬場の訪問です。これは越生町側にあります。

新編武蔵風土記稿、秩父郡椚平村、大つく山の項には次のように記されています。(意訳)
大つく山 御林山(幕藩の蔵入地)である。村の東にあり険阻な山で登り9町(約980m)くらい、絶頂(山頂)に20間(約36m)四方くらいの平坦地がある。上田安獨齋の城跡であると伝わる。この山は、比企郡麦原村、平村、当村(椚平村)の3村にかかる。

越生町麦原からのアプローチは、あじさい街道を通り、城山の表示がある場所を右折します。舗装が途切れた場所から登ります。
c0051112_10295010.jpg

登山口地図はこちら

ときがわ町椚平からのアプローチは、大木戸の前を左の川沿いに進みます。
大木戸は城を守る門でした。
c0051112_10303052.jpg

大木戸地図はこちら

大木戸を過ぎれば、川沿いに駐車スペースが1台あります。
大築城の案内表示が設置されています。遠見まで8分、山頂まで15分と記されています。
c0051112_10301294.jpg

登山口地図はこちら

いずれのルートも猿岩峠(遠見)を経由します。
ただし、硯水、馬場に関しては、越生方面からの訪問が近いかと。

越生町自然休養村センターで配布している「あじさい山公園周辺ハイキング行程表」に猿岩峠(遠見)、硯水、馬場への案内が記されています。
麦原の城山の由来
尾根突端の自然要害地形を利用して造られた山城で、都幾川側では大築城(オオツクジョウ)と呼んでいる。室町時代に吾那憲光が築いたとの説、後北条氏の慈光寺攻めの際に松山城主上田朝直が築いたなどの説がある。
地元ではモロドと呼ぶ南側の一段低いところにある郭は「毛呂殿」と推定され、戦国時代に越生方面にも勢力を伸ばした毛呂氏との関係を伺わせる。
付近には「遠見」「硯水」「馬場」などの城にちなんだ地名や伝承地がある。

遠見は猿岩峠です。
c0051112_10313629.jpg

猿岩峠(遠見)から硯水まで徒歩15分、硯水から馬場まで20分と記されています。健脚であれば半分の時間で計算しておけば良いでしょう。南へ向かう登り道となります。本当に大丈夫かと思うでしょうが、登ってください。
猿岩峠から馬場までの間、麦原へ下りる分岐が2か所あります。1つ目の分岐が硯水、2つ目の分岐から徒歩5分の場所が馬場です。2つ目の分岐、麦原まで徒歩40分の表示が出ていました。

硯水には案内板があります。
c0051112_103288.jpg

谷側には硯のような岩が多数露出しています。水は確認できませんでしたが硯の意味は理解できました。
c0051112_10323697.jpg


硯水を過ぎ、更に登り道が続きます。目の前が急に塞がれた場所に出ます。ここを登り切った場所が馬場です。自然地形の平場が形成されています。
c0051112_10331184.jpg

谷側に看板が設けられていますが、尾根側を見ると池の痕跡があります。
c0051112_10341327.jpg
また、土塁らしき遺構が見受けられました。
c0051112_10343048.jpg

人がいると馬は「いななく」と言いますが、重要な押さえだったのでしょう。
また、馬でもモロドノクルワとの往来は可能だったと思われます。高低差はほとんどありません。
大築城地図はこちら
猿岩峠(遠見)地図はこちら
馬場地図はこちら
[PR]
# by ckk12850 | 2016-03-01 07:00 | 入間郡越生町【城跡】

金山城

c0051112_19382989.jpg

城名:金山城
別名:―
城主:岩松家純・由良国繁他
住所:群馬県太田市
遺構:土塁・石垣・空堀・池

文明元年(1469)、新田一族の岩松家純により築かれ、下剋上によって城主となった由良氏の時代に全盛を迎えます。上杉謙信や武田勝頼等の有力大名から十数回に及ぶ攻撃を受けますが、一度も落城することはありませんでした。小田原北条氏の謀略により支配下となっていた天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐により廃城となっています。

平日ながら、駐車場には車が十数台。思ったより多くの方が訪問していました。
中には麓から歩いている方もいました。
ファミリー層が多いのも特徴ですが、「おおたんの史跡探検スタンプラリー」の影響かも。太田市の史跡26か所のうち、20か所を訪問するという、かなりハードルの高い内容。

まずは、金山町40-30、太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設へ。ここで「史跡 金山城跡」のパンフレットを入手します。
金山城に関する展示があり、休憩もできます。
パンフレットがあれば鬼に金棒!

ガイダンス施設から車で5分。途中の「本城大手口」をお見逃しなく。
c0051112_1939946.jpg

城跡入口の駐車場へ。「史跡 金山城跡」の石碑を通過した後、左の未舗装の「物見台」へ進みます。これが本来の登城ルートです。右は舗装の遊歩道です。

西矢倉台西堀切を通過。
c0051112_19321151.jpg

本来なら桟道を通過しますが、現在は通行禁止です。
c0051112_19323563.jpg

西矢倉台下堀切を通過。
c0051112_19325596.jpg

物見台下虎口へ。
c0051112_19333197.jpg

竪堀の木橋を渡り、物見台へ。この竪堀が本城西端です。
c0051112_19405124.jpg

馬場曲輪を通過すれば、遊歩道に戻ります。

月の池を通過。

最高の見どころ。大手虎口へ。圧巻です。
c0051112_19401570.jpg

日の池を通過。

右手に南曲輪が見えます。ここに休憩所があり日本100名城スタンプがあります。
c0051112_19424261.jpg

ここからの景色が最高。富士山やスカイツリーが見えるそうです。
c0051112_1943499.jpg


本城(実城)へ。
c0051112_19433567.jpg

案内板があります。
本城
金山城の中枢で、水の手郭を中心として約一万坪ある。実城とも言い城主の御殿があった所なので城主を実城殿とも呼んだ。
御殿の礎石は、大欅の南方平地に列石状に出土した。主要部は六ヶ所、腰郭は三ヶ所、武者造り、堀切りは濠内道を兼ねている。
本城内に於て、実城、内方、小座、旦那、御入、局等の名称が見られる。
昭和五十五年三月
文部省
群馬県
太田市

続いて天主曲輪へ。新田神社が鎮座。
c0051112_19444100.jpg

案内板が3つあります。
天主曲輪
本城最高位の郭で、戦前、本丸と言われたところである。
西北の角には、金山城最大の石垣が使用されており、角矢倉形式の大建造物があった。この郭は、金山城鎮護の神聖な地域であり、源氏の守り神である八幡宮が祭られていた。このため、水の手郭の貯水池は、「神水」と呼ばれていた。
廃城後は、新田義貞を祀る新田祠と言う小さな石宮があった。
構造上の特徴としては、東北の隅を削って「ひづみ」を作り、「鬼門除」がある。
昭和五十五年三月
文部省
群馬県
太田市
周辺の守りもすごいです。
北に北城(坂中城)、西に西城と見附出丸、南東に八王子山砦。時間があればこちらも立ち寄りたい場所です。
地図はこちら
[PR]
# by ckk12850 | 2016-02-01 07:00 | 日本全国【城跡】

聖天山歓喜院

c0051112_19234045.jpg

城名:聖天山歓喜院
別名:実盛館
城主:斎藤実盛他
住所:埼玉県熊谷市妻沼1627
遺構:土塁・空堀

「城郭資料集成 中世北武蔵の城」では、城館として扱っています。
妻沼町、聖天院館として現状は寺院・宅地、自然堤防。遺構として堀・土塁。
聖天山歓喜院だから聖天山館とか歓喜院館の間違いでは!?

「日本城郭体系第5巻」では、実盛館として聖天山歓喜院が館跡の一部であろうとしています。
居住者は長井斎藤氏3代、実遠、実直、実盛であり、現在は妻沼小学校、大我井神社、聖天山、歓喜院等の敷地になっているとも。

武州妻沼、聖天山。「妻沼の聖天さま」として親しまれています。
「道の駅めぬま」で頂戴したパンフより。
聖天山は平家物語、保元物語、源平盛衰記や謡曲実盛、歌舞伎実盛物語などに、武勇に勝れた義理人情に厚い人柄が伝えられている。斎藤別当実盛公が、当地の庄司として、ご本尊聖天さまを治承3年(1179)にお祀りしたのに創まる。次いで実盛公の次男斎藤六実長(宗光ともいう)が出家して阿請房良応となり建久8年(1197)に本坊の歓喜院を開創した。

平成24年に国宝に指定された御本殿。
c0051112_19242990.jpg

拝殿は無料ですが、装飾の素晴らしい奥殿は有料です。
受付時間10時~16時、入場料(入場志納金)1名700円以上!
c0051112_1925455.jpg

奥殿34㎡、相の間27㎡、拝殿127㎡、よりなる廟型式権現造りで、奥殿は八棟造り。建造物の各部分、各壁画を総彫刻で装飾しています。
御本殿の建築は、江戸幕府作事方棟梁として活躍した平内政信の子孫、妻沼の工匠林兵庫正清の設計によって竣工、25年の歳月を費やし、その子正信に引き継がれ宝暦10年(1760)に完成したとか。

斎藤実盛の銅像も見逃せません。
c0051112_1925308.jpg

同じくパンフレットから。
実盛公銅像は、平成8年開創818年御開扉の記念事業として実盛公銅像が建立され、サウンドモールからは尋常小学校唱歌「斎藤実盛」が流れ、歌で実盛公の遺徳を賛えている。

門前や参道の雰囲気がいいです。だんご、稲荷寿司、雪くま・・・
c0051112_19272231.jpg

時間があれば、ゆっくり歩いてみたいものです。

遺構の土塁や堀は未確認です。
[PR]
# by ckk12850 | 2016-01-01 07:00 | 熊谷市【城跡】

伝新田氏累代の墓

c0051112_19195153.jpg

名称:伝新田氏累代の墓
住所:群馬県太田市大字別所字山越604

国指定史跡、新田荘遺跡の円福寺境内にあります。カーナビには茶臼山古墳として表示されました。

境内には太田市教育委員会が設置した案内板があります。
伝新田氏累代の墓
(略)新田本宗家4代の新田政義が開基したと伝えられる。(略)
政義は寛元2年(1244)大番役(朝廷警護)のため在京中、所労と称し、六波羅探題や、上司である上野国守護安達泰盛の許可を得ず仁和寺に入り出家した。
このため幕府よりとがめを受け、所領の一部を没収され失脚し帰国、由良郷別所に蟄居した。円福寺はこの時に開基されたものと考えられている。
(略)
伝新田氏累代の墓は茶臼山古墳前方部東側にあり、多層塔・五輪塔・板碑の台石20基ほどがある。(略)この中の一基の五輪塔地輪部に、新田義貞の祖父新田基氏法名とされる「沙弥道義」の銘文がある。
(略)
墓が営まれた年代は骨蔵器・板碑・五輪塔群の様式化から推定すると、鎌倉時代中期~南北朝時代(13世紀中頃~14世紀中頃)と考えられる。
平成3年(1991)2月28日
太田市教育委員会
(略)

初めてですが、2m以上もあろうかと思われる大きな五輪塔を見ました。
新田氏の財力、勢力を改めて認識した次第。

いずれにしても、付近の台源氏館等を考えれば新田氏と関わりが深い場所かと。
また、この円福寺と十二所神社が新田氏の館という説もありますが、新田政義が蟄居した場所として考えたいです。
近所には台源氏館、由良城等がありますから。
地図はこちら
[PR]
# by ckk12850 | 2015-12-15 07:00 | 古墳・墓【歴史観光】

円福寺境内・十二所神社境内

c0051112_19182342.jpg

名称:円福寺境内・十二所神社境内
住所:群馬県太田市別所町600-1他

国指定史跡、新田荘遺跡のうち2か所となります。

山門前には太田市教育委員会が設置した案内板があります。
新田荘遺跡、円福寺境内、十二所神社境内について記されています。
新田荘遺跡の部分を抜粋。
新田荘遺跡
平安時代末期の十二世紀中頃、源義国の子、新田義重(新田氏初代)は、現在の新田郡のほぼ全域と太田市の南西部を開発して荘園とし、ここに「新田荘」が成立しました。新田荘は、日本の中世史を代表する荘園の一つで、ここを中心に新田一族が活躍を繰り広げました。
史跡「新田荘遺跡」は新田荘に深いかかわりのある十一の遺跡から成っており、これらは太田市と新田郡尾島町・新田町の一市二町に広く分布しています。(以下略)

境内にも案内板があります。
円福寺・十二所神社とその周辺の文化財として、円福寺一山絵図、円福寺茶臼山古墳、山門の扁額、由良郷、台源氏館跡、由良城跡について記されています。

円福寺は、新田本宗家4代の新田政義が開基したと伝えられています。
伝新田氏累代の墓の案内板にも記されています。
(略)新田本宗家4代の新田政義が開基したと伝えられる。(略)
政義は寛元2年(1244)大番役(朝廷警護)のため在京中、所労と称し、六波羅探題や、上司である上野国守護安達泰盛の許可を得ず仁和寺に入り出家した。
このため幕府よりとがめを受け、所領の一部を没収され失脚し帰国、由良郷別所に蟄居した。円福寺はこの時に開基されたものと考えられている。
(略)

伝新田氏累代の墓については、新田義貞の祖父、基氏の墓が確認されています。
また、本堂には新田氏第4代~7代、政義、政氏、基氏、朝氏の位牌が安置されています。

この付近、旧新田町になり、食事処を探すのが大変でした。やはり太田あたりで済ませておけば良かったと後悔。

ところで新田荘遺跡が広く分布しているため、11の遺跡を探すのが大変です!
円福寺境内、十二所神社境内、総持寺境内、長楽寺境内、東照宮境内、明王院境内、生品神社境内、反町館跡、江田館跡、重殿水源、矢太神水源になります。
案内板には書ききれない訳で。

また、この円福寺と十二所神社が新田氏の館という説もありますが、新田政義が蟄居した場所として考えたいです。
近所には台源氏館、由良城等がありますから。
地図はこちら
[PR]
# by ckk12850 | 2015-12-01 07:00 | 神社仏閣【歴史観光】

反町館

c0051112_191301.jpg

城名:反町館
別名:―
城主:新田義貞他
住所:群馬県太田市新田反町町894
遺構:土塁・堀

ここも国指定史跡、新田荘遺跡の一つです。

いや、こんなに大きな館とは驚きました。
しかし、総領家クラスの館は二町四方(一辺約200m)になるそうで、この館は120m×73mとコンパクトな館なのでした。
また、新田義貞の館としては小さいため、ここには居住しなかったのではないかという説もありますが、小さいだけで否定するのはどうかと。

戦国時代に、金山城主の由良氏が拡張して出城として使用しています。築城時の姿ではない可能性が高いということを注意!

太田市教育委員会が設置した案内板と標柱があります。
国指定史跡 新田荘遺跡
反町館跡
指定年月日 平成十二年十一月一日
所在地 群馬県太田市新田反町町八九四他
反町館は、江田館と共に太田市を代表する館跡で、大規模な堀や、土塁が残されています。土塁は基底部で十~十三メートル、高さ四~六メートルあり、堀は幅十~二十メートルあります。(ただし、東側の堀は道路改修の際に拡張されたものです。)館跡の平面形は凸字形で、南側で約百二十メートル、北側で約七十三メートルあり、東西両側に「折」を持っています。出入口は南東角と西の二箇所にありました。
築造は、鎌倉時代から南北朝時代と推定されます。その後戦国時代になって三重の堀を巡らす城郭に拡張されたと考えられます。新田義貞がここに移り住み、その後大舘氏明、新田義興、矢内時英が住んだという伝承もあります。天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めで廃城したと伝えられます。
現在の照明寺は、以前は、堀の西側にありましたが、正徳四年(1714)火事にあった際にここに移転したと伝えられています。照明寺の本尊は厄除け薬師として有名で、毎年一月四日の縁日には大勢の参詣人でにぎわいます。
平成二十(2008)年三月
太田市教育委員会

何と!東側の堀は現代の普請。拡張されたそうです。
c0051112_19135072.jpg

一番の見どころかと思って写真をたくさん撮ってしまいました。

その他、土塁、堀の保存状態は良好です。特に、南側の土塁が見やすいです。
c0051112_19141173.jpg

西側、北側の堀も見どころ。
c0051112_19144219.jpg

元弘3年(1333年)5月8日、この反町館に居住していた新田義貞は生品明神で旗を挙げ、笠懸野~八幡荘~菅谷~将軍沢(10日)~笛吹峠~入間川~小手指ヶ原(11日)~久米川(12日)~分倍河原(15、16日)~鎌倉(18日)と攻め、22日には鎌倉の東勝寺に北条高時をはじめ一族280名あまりを自刃に追い込んでいます。15日間の行程でした。
そして二度と新田荘に戻ることはありませんでした。

平日の昼間とはいえ、境内には3人。
国指定史跡としては少し寂しい感じです。周囲にはほとんど何もありません。
やっと見つけた食事処らしき店は、占いの家という始末!
食事等は事前に済ませておくのが無難です。
地図はこちら
[PR]
# by ckk12850 | 2015-11-01 07:00 | 日本全国【城跡】

台源氏館・伝新田義貞生誕地

c0051112_193266.jpg

城名:台源氏館・伝新田義貞生誕地
別名:―
城主:新田政義・新田義貞他
住所:群馬県太田市由良町
遺構:不明

少し迷うかもしれませんが、太田市別所町600-1、国指定史跡、新田荘遺跡の円福寺を目指すと良いでしょう。カーナビには茶臼山古墳として表示されました。

円福寺には太田市教育委員会が設置した案内板がありますが、円福寺一山絵図に「台源氏館跡」が記されています。
説明もあります。
円福寺東方約四百mの地に「台源氏館址 新田義貞卿誕生地之碑」の石碑(昭和十三年、新田義貞没後六百年を記念して建立されたもの)があります。
ここは、新田政義が築き、新田義貞・脇屋義助生誕地と伝えられる館跡の推定地で、円福寺一山絵図で「出丸要害之地」と描かれている部分に相当すると考えられます。また、円福寺北東に隣接する方二町(約二百m四方)の区画と推定する説もあります。

円福寺から東に400m、訪問してみると、何と小さな塚の上に石碑があるだけでした。
c0051112_1935384.jpg

とても館跡があったとは想像できず。
ここにも、誰の設置か不明ながら案内板がありました。
台源氏館跡 新田義貞誕生伝説地
ここは太田市由良町(字北之庄)に当り、古くから太平記を飾る郷土の武将・新田義貞公の誕生の地と伝えられてきた。
義貞公は正安3(1300)年ころにここで生まれ、やがて反町館で青年期をむかえ、元弘3(1333)年5月8日、生品神社で鎌倉幕府打倒の旗をあげたと伝えられる。
公はその後、後醍醐天皇に仕え建武新政の要人として活躍したが、暦応元(延元3・1338)年閏7月2日、福井の燈明寺畷で壮絶な最期を遂げたという。享年は38と伝えられる。
この館跡は居館跡の土塁の一部を整備して昭和13(1938)年8月26日(陰暦の閏7月2日)、二基の石碑が建てられて義貞公誕生の地とされてものである。
なお、義貞公誕生の地はここの外に、反町館説、世良田新田館(総持寺)説、榛名町里見郷説などがあり、不詳なところが多い。

案内板の土塁の一部を整備って!
遺構があったのでしょうか。石碑が建っている塚は、元々は土塁だったのでしょうか。

戦時中の石碑の建立。新田義貞を讃える政治色が含まれていたのでしょうか。

なお、付近には駐車場がありませんのでご注意!
地図はこちら
[PR]
# by ckk12850 | 2015-10-01 07:00 | 日本全国【城跡】

春日神社

c0051112_13584717.jpg

名称:春日神社
住所:埼玉県比企郡ときがわ町玉川

新編武蔵風土記稿、玉川郷、春日社の項には次のように記されています。(意訳)
村の鎮守とする。慶安2年、社領5石1斗の御朱印を賜った。当社は貞和3年(1347)の勧請というが確かな証はない。
社は山上にあり、社前に古松等が生い茂っている。麓に少し並木がある。この辺に古木が多く傍らを玉壺川が流れる。
その岸は皆岩石で、川の中にもあちらこちらに大石があり、流水はこれに堰き止められ、屈曲して流れる様は、社前から望むと尤もな景勝である。

埼玉県立嵐山史跡の博物館発行「改訂 歩いて廻る比企の中世再発見」には次のように記されています。
(略)境内地の発掘調査により南北朝時代の瓦やさらに古い鎌倉時代後半の瓦が出土しています。瓦の系譜からは、当初慈光寺文化圏に属していましたが、次第に離脱して行ったことがうかがえます。

春日神社は厳かな雰囲気が漂い、神社境内から玉壺川(現雀川)の流れが見えます。景勝地ですが、訪れる方はほとんどいません。
c0051112_1403213.jpg

慈光寺文化圏というより、境内の岩を眺める限り、前身は修験等の影響を受けた神社のようにも見えました。
c0051112_1413998.jpg

[PR]
# by ckk12850 | 2015-09-15 07:00 | 神社仏閣【歴史観光】

龍福寺

c0051112_13555620.jpg

名称:龍福寺
住所:埼玉県比企郡ときがわ町玉川

新編武蔵風土記稿、玉川郷、龍福寺の項には次のように記されています。(意訳)
禅宗曹洞派、入間郡龍ヶ谷村龍隠寺末、玉壺山と号す。本尊釈迦、傍らに十六善神の像がある。いずれも古い物と思われる。
寺記を見ると、藤原盛吉という者が当地の景勝を見て、熊野権現、弁財天等の4社を勧請し、その後一寺を建立して龍福寺と名付ける。これが当寺である。その年歴は詳細不明である。あるいは天平年中のことというが信じられない。(中略)
盛吉のことはすべて詳細不明で、村内にこの人が居住したという壘跡がある。

その他、鐘楼、熊野社、秋葉社、弁財天社、彌陀堂があると記されています。
c0051112_13565122.jpg

彌陀堂には次のような記述もあります。(意訳)
彌陀堂の背後に古碑が1基あり、庚申4月16日とのみ読めて、その他の文字は読めない。これは相模國大磯の遊女虎が曽我十郎祐成のために建てた碑というが、しかしその頃の物とも思えず、恐らくこじつけの説だろう。

古碑については、最近、案内板が設置されました。
c0051112_13571678.jpg

町指定文化財 伝 曽我十郎祐成 供養塔
(略)二基とも年号が故意に削り取られていますが、近年の研究により向かって左の阿弥陀三尊を刻むものは南北朝時代の康永三年(一三四四)の年号であることが判明しました。
(略)民間伝承を伝えるものとして貴重です。(略)
平成21年3月 ときがわ町教育委員会

埼玉県立嵐山史跡の博物館発行「改訂 歩いて廻る比企の中世再発見」には次のように記されています。
中世玉川地区の中心地にあり、館・寺・神社がまとまりを持って存在しています。近年の研究では、山を背にして東面する阿弥陀堂と、園池からなる浄土庭園形式をとっていた可能性が強いと言われています。

浄土庭園とは!
恐らく、堀ノ内館、春日神社を含めて、素晴らしい景観だったことでしょう。
[PR]
# by ckk12850 | 2015-09-01 07:00 | 神社仏閣【歴史観光】

下田城

c0051112_16361580.jpg

城名:下田城
別名:鵜島城
城主:清水康英
住所:静岡県下田市
遺構:土塁・空堀

下田海中水族館に立ち寄ってから訪問しました。
駐車場も下田海中水族館へ。
目の前の山が下田城で、「下田公園」の石碑が建てられています。その隣に「下田公園総合案内」があり、下田城の概要や縄張りを把握できます。
c0051112_1637222.jpg

アジサイで有名な公園です。

10分ほど歩けば、空堀が見え、正面に伝天守台が見えます。
c0051112_16364770.jpg

ここに空堀の案内板があります。
「(略)
城址は四百年を経ているが、空掘の残存状況は良好である。北条氏が築いた山城の特徴である畝掘は、空掘の中に、侵入した敵兵の行動を妨げるために障害物(畝)を設けたもので、今日も目を凝らすとその形状を見ることができる。
(略)」
と記されていますが、目を凝らしても判別できませんでした・・・
c0051112_1640286.jpg

時間があればゆっくり探せたのですが・・・

巨大な堀切を抜けます。堀切は尾根を仕切ったものと思われ、木橋で連結されていたのでしょうか。
c0051112_16373372.jpg

天守台の登り口へ。残り40mです。

案内板が設置されています。
「下田市指定文化財
下田城跡
昭和48年6月12日指定(史跡)
天下統一を進める豊臣秀吉と、小田原を本拠地とする北条氏の対立が表面化してきた天正16年(1588)、陸の防衛拠点である箱根の山中城(三島市)とともに、海の防衛拠点として下田城が取り立てられ、伊豆郡代清水上野介康英を城将に大改築が行われた。
城は、海と断崖に囲まれた天然の要害に築かれている。通称天守台跡と呼ばれる高台を中心に、四方にのびた尾根の要所に守備陣地である曲輪や櫓台が設けられ、総延長700mを超える空堀が巡る伊豆半島最大規模の山城である。
天正17年(1589)12月から翌年にかけて、雲見の高橋氏や妻良の村田氏など南伊豆の武士が入城し、小田原からは援将江戸摂津守・検使高橋郷左衛門尉が派遣され、臨戦態勢が整えられていった。
天正18年3月、清水湊(江尻)に集結した豊臣水軍は、長宗我部元親や脇坂安治らが率いる一万人を超える大船団で、西伊豆を制圧しながら下田城に迫った。圧倒的な兵力を眼前に、城将清水康英ら六百余名の籠城軍は、五十日ほど防戦に努めたが、4月下旬には開城の勧告を受け入れ、城を出た。
平成21年3月
下田市教育委員会」

同じく伝天守台登り口には「鵜島城址」の石碑もあります。目立ちませんが、記念写真に良いかと。
c0051112_1638517.jpg

天守台に到着。
c0051112_1639373.jpg

四方の展望が素晴らしい!
遠くから見ると目立たない山だったのですが、周囲の大半を見ることができました。
c0051112_16383917.jpg

天守台は平場ですが、中途半端な形で、平場が尾根続きのように見えてしまったのですが、城の郭の配置が把握できませんでした。
下田城復元模型(道の駅 開国下田みなと4階 ハーバーミュージアム展示)によれば、相当不等辺四角形のようです。

時間があれば、お茶ヶ崎展望台、馬場ヶ崎展望台、志太ヶ浦展望台まで足を延ばせば、城の堅牢さが実感できるでしょう。

余談ながら、下田城美術館が近所にあり、天守まであります。下田城の場所を尋ねると美術館を案内されてしまうので、アジサイの下田公園の場所を尋ねると良いでしょう。
[PR]
# by ckk12850 | 2015-08-01 07:00 | 日本全国【城跡】