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そこに城があるから
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江川邸

城名:江川邸
別名:江川家住宅・韮山役所跡
城主:金子駿河守
住所:静岡県伊豆の国市韮山韮山1番地
遺構:重要文化財江川家住宅・他

韮山付近では、江川家住宅の案内表示が多くなるので迷うことがありません。
駐車場もあり、観光案内所、トイレも整備されています。

パンフレットによれば、江川家は清和源氏の流れを汲み、源満仲の次男宇野頼親を祖とし、6代親治が保元の乱(1156)に破れ、その孫、親信が従者13人と共に落ち延びた場所が伊豆だそうで。
源頼朝の挙兵(1180)の際にも参戦、15世紀中頃に狩野川の支流の名にちなみ、江川と改姓。
伊豆進出(1493)の際、23代英住が土地を提供して韮山城を築城させ、北条氏の家臣になりました。
28代英長は、徳川家康に仕え、代官として世襲しました。

主屋の原型は1600年前後の建築、部材の中には室町時代まで遡るものもあるとのことです。


邸内には枡形(広場)、元禄9年(1696)建築の表門、代官所時代の役所跡、主屋、井戸、西倉、南米倉、北米倉、裏門等。

運が良ければ、無料ガイドさんの話を聞きながら主屋見学ができます。生き柱、棟札の話、幕末の反射炉の話、門下生の話はガイドさんから伺って納得。
もう少し歴史に登場して良い人物なんだなと思います。

裏門は文政6年(1823)建築ですが、門扉は古く、天正18年(1590)、豊臣秀吉の韮山城攻撃の際、鉄砲玉や鏃の跡が残っています。

当時は韮山城の砦、江川曲輪だったそうなので、攻撃を受けたことは容易に想像されますが、その当時の建物遺構があることにも驚き!
地図はこちら
# by ckk12850 | 2012-02-01 06:00 | 日本全国【城跡】 | Comments(0)
北条氏邸

城名:北条氏邸
別名:北条氏館・円成寺跡
城主:北条氏
住所:静岡県伊豆の国市寺家
遺構:建物跡

迷ったら、守山西公園を目印に。
平成23年8月現在、駐車スペースは3台ほど。いずれ整備されることでしょう。

それにしても認知度が低い!
国指定史跡ながら、地元の観光案内所でも、北条氏邸にいた歴史好きな方も、北条氏ゆかりの願成就院のことばかり話していました。

守山西公園入口に「北条一族のふるさとと寺院」というカラーの案内板が設置されています。

案内板を読めば、邸跡(館跡)が目の前にあることが分かります。
「北条氏邸は鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の館があった場所です。
狩野川の東岸にある守山の北西部の小さな谷になっているところです。ここを含めて伊豆北条と呼ばれた一帯(現在の寺家・四日市付近)は平安時代末期から鎌倉時代にかけて北条氏の本拠地であった場所です。(略)
1333年、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻りました。そして、一族の中の円成尼という女性が中心になって、邸宅の跡に寺院を建て、北条氏の冥福を祈ったのが円成寺です。円成寺は室町時代にも尼寺として続き、上杉氏の一族の女性が尼として入っていたことがわかっています。
現在の発掘調査では、円成寺に関連する池や溝が見つかっています。」

案内板には発見されたカワラケや、宝珠(水晶製の玉)の写真もあり、推定ではなく、確定であることを物語っています。

史跡公園整備が計画されているようなので、韮山の観光名所となることは間違いなさそうです。

できれば、近所にある北条政子産湯の井戸、願成就院もセット訪問したいところ。

余裕があれば、蛭ヶ小島も訪問したいところ。

源頼朝と北条政子は、思った以上に近距離恋愛だったような・・・
地図はこちら
# by ckk12850 | 2012-01-20 06:00 | 日本全国【城跡】 | Comments(2)
堀越御所

城名:堀越御所
別名:―
城主:足利政知
住所:静岡県伊豆の国市四日市
遺構:池跡・遣水・建物跡

少し道に迷いました。27,313.99平方メートルが国指定史跡となっています。

大きな標柱が撤去されましたが、カラーの案内板が設置されています。

「伝堀越御所跡は「堀越公方」と呼ばれた足利政知の御所があったと伝えられる場所です。
室町時代の後半、大名の勢力争いが激化し、日本各地で戦乱が起こっていました。とくに関東地方は、京都にある室町幕府に従う勢力と対抗する勢力とが激しく争っていました。そこで、将軍の足利義政が、直接関東地方を支配するため、鎌倉公方として派遣したのが兄の足利政知です。しかし、政知は戦乱のため関東(鎌倉)まで行くことができず、韮山の堀越の地に居館を作って身を落ちつけました。これにより政知は「堀越公方」と呼ばれました。しかしこの御所も、その子「茶々丸」の時に北条早雲によって滅ぼされてしまいました。
発掘調査によって、池跡や遣水、建物跡が見つかっていて都風な公方の生活を知ることができます。」

国指定史跡であり、池跡や遣水、建物跡もあれば、「伝」を外してもいいのでは!?御所の池まで発見されているのですから、ハズレではないと思います。
しかし、もう1枚の案内板には、建物跡は特定されていないと記されています。

室町幕府8代将軍の足利義政が、足利政知を派遣したのは長禄元年(1457)です。

政知の死後、明応2年(1493)に北条早雲によって滅ぼされてしまいました。

北条政子産湯の井戸が、史跡の南側にあります。北条氏ゆかりの地に堀越公方が館を構えた・・・実に興味深い話です。

足利政知が鎌倉方面に進出しようとしても、この地でストップとは驚きです。箱根は越えられなかったのか!
地図はこちら
# by ckk12850 | 2012-01-10 06:00 | 日本全国【城跡】 | Comments(2)
蛭ヶ小島

名称:蛭ヶ小島
住所:静岡県伊豆の国市四日市

あちらこちらに案内板があるので迷いません。
島を想像すると迷いますが・・・

源頼朝の配流地として有名です。源頼朝が平治の乱に敗れて20年間過ごした場所です。狩野川の中州だったようです。他にも古河、和田島、土手和田等の地名が現存するとか。

永歴元年(1160)、14歳で配流された兵衛佐頼朝は、治承4年(1180)、34歳で挙兵、鎌倉に幕府を開きますが、この地での具体的な住居跡等の詳細は不明だそうです。

吾妻鏡治承4年の記事では、山木攻め(頼朝旗挙げ)の際、妻政子の父である北条時政の館で挙兵準備を行ったとあり、北条政子と結婚する治承元年(1177)までの17年間を過ごしたことになるとか。

案内板によれば、「蛭島碑記」の古碑があるそうですが、確認できず(汗)

やっぱり三嶋大社宮司建立の「源頼朝公配流の地 蛭ヶ小島」が一番目立ちます。

銅像も見どころ。「蛭ヶ島の夫婦」が公園内にあります。頼朝31歳、政子21歳の若き日の姿だそうです。

公園内には食事処や資料館もあり、軽く休憩するのもオススメです。

地図はこちら
# by ckk12850 | 2012-01-01 06:00 | その他【歴史観光】 | Comments(4)
上谷遺跡(坂戸市)

名称:上谷遺跡
住所:埼玉県坂戸市東坂戸

通りすがりの賜物といいますか。
古墳時代後期の遺跡です。

立派な案内板があります。
「上谷遺跡
上谷小学校を建てる前に発掘調査を行ったところ、古墳時代後期(1300年~1500年前)の竪穴式住居跡が41軒も発見されました。住居の中からは、完全な形をした土器がたくさん出土しました。この場所には当時発掘された住居跡が埋まっています。
(中略)
この場所は、当時の発掘で発見された22号住居跡が埋まっています。発掘で出土した土器は、市立歴史民俗資料館に展示しています。
平成19年3月
坂戸市教育委員会」

平成19年頃から設置された坂戸市の案内板は、「坂戸市文化かるた」を併記するようになりました。
ちなみに上谷遺跡は「目をみはる 上谷遺跡の たて穴住居」です!

結論からすれば、その大半が上谷小学校の下に埋もれてしまったことになり・・・

まあ、後世に伝えようとする気持ちは伝わってきますが・・・
地図はこちら
# by ckk12850 | 2011-12-15 06:00 | その他【歴史観光】 | Comments(4)
今宿遺跡

名称:今宿遺跡
住所:埼玉県狭山市上広瀬521番地9

旧鎌倉街道沿い、源義高の影隠地蔵がある信濃坂上に存在します。
入間川左岸の河岸段丘を利用したと思われる遺跡です。

遺跡の所在地、まさか住宅街の中だとは思わず、しかし遺跡ならば住宅街ではないかと思って探したら偶然発見!
帰宅してから狭山市のホームページに掲載されていることを知った次第。

発掘調査されたのは昭和44年4月、48軒の竪穴住居跡が見つかり、3軒が保存(うち1軒は復元)されています。
復元された住居は、何かの保管庫かと思いました。住居近くにメタセコイア古木株の案内板があり、古木株の保管庫かと思ったりして(汗)

今宿遺跡の石碑と案内板は公園内に設置されています。

住居が築かれた年代は、8世紀台がもっとも多くて25軒、8~9世紀にかけて1軒、9世紀台が11軒、10世紀台が2軒、不明が9軒、奈良・平安時代の遺跡ということになります。

特筆すべき遺構ではありませんが、竪穴住居が見たくなったら訪問を。
地図はこちら
# by ckk12850 | 2011-12-01 06:00 | その他【歴史観光】 | Comments(0)
難波田氏館

城名:難波田氏館
別名:―
城主:難波田氏
住所:埼玉県富士見市下南畑
遺構:?

岩田書院「中世北武蔵の城」の埼玉の中世城館跡地名表に掲載されています。
室町時代の館とし、住所は下南畑153、現況は畑、立地は自然堤防と記されています。

地図で確認すると、氷川神社拝殿を中心とした場所になります。
新河岸川が堀だったのかどうか不明ですが、用水路も複雑に流れ、すべての流れが堀に見えてしまう錯覚も(苦笑)

神社の参道手前に橋が架けられ、大手橋のような感じが(笑)

神社境内の集会所名は「山形集会所」となっていて、小字が山形であったことが考えられます。

人物往来社の「日本城郭全集第4巻」には次のような記述があり、鋭い考察力と感心しています。

>東は旧荒川、北は新河岸川で囲まれた城跡を、下南畑の城以前の金子小太郎高範の居館と見るのは誤りだろうか?
>入間市金子から東大久保に来て金子を名乗り、館から金子に通じる道を金子街道と唱えたかったのではないか?
>鎌倉から南北朝に至り、館を下南畑に移し、難波田氏を称したのかもしれない。
>室町期に弾正左衛門の手により修築がされ、堅固な城郭になったのだろう。

これが、今回訪問した、村山党の金子十郎家忠の子である金子小太郎高範の館(難波田氏館)のことを指しているのかどうか分かりません。

難波田城と、この難波田氏館跡が約500mしか離れていないことを考慮し・・・
難波田城が戦闘のみを目的とした城、つまり居住空間が無い時代の頃・・・

難波田城主、難波田氏の城下の屋敷(館)とも考えられるのですが、どうなのでしょう・・・
付け加えるならば、現在の難波田城の遺構が難波田氏以降の上田氏時代の遺構もあり、難波田氏の本拠説があってもいいような・・・
地図はこちら
# by ckk12850 | 2011-11-25 06:00 | 富士見市【城跡】 | Comments(2)
寺山

城名:寺山
別名:?
城主:遠山氏?
住所:埼玉県比企郡嵐山町遠山
遺構:中腹平場・土塁?

小倉城本郭にある案内板によれば、小倉城立地概念図「自然地形の外郭線」として、小倉城の北は遠山地区の物見山、西はときがわ町五明の物見山東の稜線、北東は大平山、南東は正山まで含めています。
また、小倉集落、坂下(下里)集落、遠山集落も中世の集落としています。

遠山地区の物見山について、埼玉の遺跡マップでは物見山遺跡と称し、比企郡嵐山町遠山にあり、戦国時代の城館跡とされています。立地は山林であるとも。

実は遠山地区の物見山遺跡の西側の山頂も気になっていました。ここが小倉城立地概念図「自然地形の外郭線」の北西隅に該当するからです。
遠山寺のご住職に尋ねたところ、寺の裏山は通称「寺山」とのこと。
どうやら、嵐山町と小川町の境界線上にある標高約180mのピークということが判明。地図上では寺の西北西になります。
その山について、ずっと寒沢山だと勘違いしていたのでした(汗)

小川町下里の北根地区から登れます。
嵐山町遠山地区から小川町に入り、約450m先を右折。
右折後、民家敷地に入らないように未舗装道を直進。約300mで「→大聖寺」の標柱が見えます。
標柱案内の下里の滝、芭蕉の句碑から来たことになります。

そのまま大聖寺方面に向かい、分岐を右に。左手(東側)に標高約220mの寒沢山が見えます。
次の分岐を左に折れると遠山地区の物見山寒沢山へ向かう沢伝いの登山道になり、物見山と寒沢山の鞍部の尾根道に出られます。
寺山は、右の道を選択。

未舗装の車道を登ります。約2分で3回目の分岐。左へ折れます。シイタケの栽培用なのか、ホダ木の農園のような場所に出ます。車道はここで消えます。

数年前、ここで登山道を見失って引き返していましたが、木々が程良く伐採され、下草も刈られ、山頂方面が見えるようになりました。

東に見えるピークを目指します。
約3分、緩斜面を登ると、大きな平場があります。ここは何だったのだろう・・・明らかに人工的遺物が複数あるし。

土塁にも見える場所があるし・・・

土塁は風除けとも考えられますが、寒沢山等によって遮られるはず。
物見台に見える場所があるし・・・

大聖寺口あたりの物見としては最適だったはずです。
不思議な石は信仰によるものか、ただ単に集めたものか・・・

ここから東南東のピークに向かって直登。一気に傾斜が厳しくなります。
平場から約3分で山頂。

山頂には小川町設置の境界杭。
嵐山町設置の境界杭。
しかも境界線に沿って道があるし!
遺構としては特筆するべきことが無いものの、眼下に遠山寺、集落を隔てて小倉城が見えたはず。地図上では小倉城が正面に見えることになり、この山の重要性が理解できます。
広さも十分、しかも平場。

やっぱりここは小倉城立地概念図「自然地形の外郭線」に含めて間違いないと思います。
四方を山に囲まれながらも、その立地を逆手に取った小倉城の魅力は尽きません。

なお、今回は登山口、登山道を含めて山頂の一部を除けば小川町下里の北根地区を歩いています。嵐山町遠山地区の遠山寺、または八幡神社裏から登ってみたかったのですが、残念ながら登山道は途中で草木に阻まれ断念しています。
地図はこちら
# by ckk12850 | 2011-11-01 06:00 | 比企郡嵐山町【城跡】 | Comments(2)
熊野神社古墳

名称:熊野神社古墳
住所:埼玉県桶川市川田谷159番地

偶然ナビに表示が出たので訪問。
まさか古墳だとは思わず、願わくは城館関係ならばラッキーという程度でした。

案内板があったので話が早いです。
「埼玉県指定史跡 熊野神社古墳
熊野神社古墳は川田谷地域の荒川沿いに多く分布する古墳の1つで、河川交通上の重要な位置にあります。
墳形は円墳で、昭和59年度に行われた調査によって、直径38m、高さ6~6.5m、周溝の幅14~16mであることが確認されました。
粘土槨(粘土で棺を覆って安置したもの)と想定されている埋葬施設は、昭和3年、墳頂部の社殿改修の際、偶然に発見され、玉類、石製品類、筒型銅器など、畿内の古式古墳と共通する多くの副葬品が出土しました。当時の出土遺物は国の重要文化財に指定され、現在は埼玉県立歴史と民俗の博物館で保管展示されています。また桶川市歴史民俗資料館では複製品を展示しています。
出土した遺物からみて、古墳の年代は4世紀後半ごろと推定され、埼玉県内では比較的古い時期に築造された古墳と考えられています。
平成21年12月
埼玉県教育委員会
桶川市教育委員会」
と記されています。

案内板には副葬品の写真も掲載されています。

古墳の保存状態は良好でした。

頂部は、確かに熊野神社社殿が。

その右側に石碑。「国寶 出土品の碑」が建立されています。

教訓として、気になったら立ち寄ってみる・・・でしょうか!?
地図はこちら
# by ckk12850 | 2011-10-25 06:00 | 古墳・墓【歴史観光】 | Comments(0)
藤原大納言遠峯、季綱邸・平将門内裏

城名:藤原大納言遠峯、季綱邸・平将門内裏
別名:―
城主:藤原大納言遠峯、季綱・平将門
住所:埼玉県入間郡越生町西和田・春日神社
遺構:?

JR八高線が境内スレスレに通過するので意外と驚きます。

駐車場があるので、ゆっくり訪問できますが、どんな神社仏閣でも一応は案内板等の縁起をチェックしなければいけないと思い知らされた場所です。

駐車場に案内板がありますので、重要な部分はそのまま抜粋。
「(略)
春日神社 由緒
延暦元年(782年)創建
当地内裏山獅子岩の傍らに祭祀されたるを、征夷大将軍坂上田村麻呂 東夷征伐の際現在の地に遷し宮殿を増築し内裏大明神と称す。平将門が内裏を置いたとされる。後 延喜年中、常陸大掾 平国香(将門の伯父)が修繕、松山城主上田能登守の再建を経て、元禄4年春日神社と改称し、越生十六郷の総鎮守と定むる。
(略)
内裏大明神と称するは藤原季綱公、越生郷に居住し阿諏訪山に遊猟せし時、氏神、秩父郡高山の峰に光を放ち、季綱公これを謹み拝し当地に祭れるとし伝承されている。
(略)」

ここまで歴史上の重要人物が登場すると、どうにもコメントができなくなってしまうような(汗)
それぞれ登場した人物のプロフィールは把握できます。例えるならば、その人物をミキサーに入れて、ミックス歴史ジュースを作ってしまうというか(苦笑)
把握できるからこそ、時代のズレも生じています。
平将門の内裏があって、伯父さんの国香が直してくれた!?
藤原遠峯は児玉党!?
そして藤原季綱は毛呂氏!?

鳥居、参道、随神門、舞殿、拝殿があります。

随身門ならぬ随神門の右側に石碑があります。

「史蹟
藤原大納言遠峯・季綱邸蹟
桓武平氏新皇 平将門 内裏蹟」

全体的に深く考えない、これがポイントでしょうか(苦笑)
地図はこちら
# by ckk12850 | 2011-10-01 06:00 | 入間郡越生町【城跡】 | Comments(5)
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