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そこに城があるから

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松山以奈り道の道しるべ

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名称:松山以奈り道の道しるべ
住所:埼玉県桶川市西1-4-29

まずは駐車場探し。「桶川宿手洗い処」に1時間まで無料駐車場があります。
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ただし時間を過ぎたら1時間につき100円。ここを拠点に桶川宿歩き。
地図はこちら

駐車場の数件隣、桶川市寿1-11-19には「中山道宿場館(観光案内所)」があります。ここで「おけがわ散策マップ」を入手。もちろん無料です。宿場の見どころが載っています。

道しるべは、桶川小学校の敷地内にありました。
恐らく上の木戸あたりに存在していたものと思われます。
桶川市指定文化財
松山以奈り道の道しるべ
種別 民俗文化財(有形民俗)
平成8年5月29日指定
この道しるべは、東松山市にある箭弓稲荷神社への道を示すもので、中山道桶川宿の北のはずれから分岐していた「松山道」の入り口に、天保7年(1836)3月に建てられたものです。松山道は、桶川宿の上の木戸付近から西に折れて、畑や林の間を通り、下石戸村(現北本市内)を過ぎ、荒川の渡しを経て松山に通じていました。
箭弓稲荷神社は、江戸時代中期頃から、商売繁盛や厄除けの神様として広く庶民に信仰され、各地の稲荷講(稲荷様を信仰する団体)を始めとした多くの参拝者でたいへんにぎわっていました。
江戸時代当時、神田多町(現在の神田駅付近)に青物市場、日本橋小田原町(現在の日本橋北側のたもと)に魚市場を設け、百万人都市江戸の食糧流通の拠点として整備していきました。この道しるべは、日本橋本小田原町の魚市場の人々が箭弓稲荷神社への参拝の目印として建てたといわれています。
これを物語るかのように、この道しるべには「松山以奈り道(魚)本小田原町」と刻まれています。「以奈り」とは「稲荷」の当て字で、魚の字が図案化されたとてもユニークな道しるべです。
賑やかな桶川宿の往来をぬけて箭弓稲荷へ向かう人々の道先案内を担ってきたこの大きな道しるべは、その役目を終えた今日この場所に移されましたが、今もなお多くの人の往来を静かに見守っています。
平成25年3月
桶川市教育委員会

江戸から東松山市の箭弓稲荷への通り道ですが、川越街道を使わずに中山道を経由していたとは!
地図はこちら
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# by ckk12850 | 2017-01-20 07:00 | 街道【歴史観光】

太田道真館(自得軒)

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城名:太田道真館(自得軒)
別名:太田道真退隠の地・太田道灌邸?
城主:太田道真
住所:埼玉県入間郡越生町小杉641番地・建康寺
遺構:不明

実は自得軒の場所は不明です。新編武蔵風土記稿では、龍穏寺寺中の三枝庵であろうとしています。
建康寺の案内板は、建康寺を自得軒としています。
しかし、三枝庵の案内板は三枝庵を自得軒砦とし、建康寺を自得軒としているのです。

越生市街の北、県道飯能寄居線(30号線)を越生梅林方面に入ります。県道越生長沢線(61号線)です。
越生梅林の入口を右方向に折れ、越辺川を左手に見ながら直進。和田川橋を渡り、月ヶ瀬橋のところは渡らず右手方向に。
梅林入口から800mのところに小さな寺院があります。建康寺です。
大きな目印は梅園小学校ですが、越辺川を挟んだ対岸にある小学校です。
参道入口の一般道に路上駐車できるスペースがあります。うっかりすると通り過ぎてしまいますので注意。

新編武蔵風土記稿、入間郡小杉村の項には次のように記されています。(意訳)
太田道灌邸跡、今は田園となり一段四畝ほどの地にして、建康寺の傍らにあり、小字を陣屋と呼び、道灌の別邸だろうか。ある書物では道真が小杉に隠居し、明応元年2月2日、82歳で死去したといい、道灌ではなく、道真の邸(屋敷)跡ではなかろうか。

かつて建康寺の小さな境内に案内板がありました。
建康寺(けんこうじ)
太田道灌の父道真は、龍ヶ谷の三枝庵に砦を築き、鉢形城主長尾景春に対抗したが、道灌が勢力を回復するとそこを出て、この地に隠居所自得軒を築き隠棲した。
文明18年(1486)の夏、相國寺の詩僧万里は、道灌と共に、この地を川越城から道真を訪ねた。万里はその一夜のようすを著作「梅花無尽蔵」の中で次のような絶句で残している。
稀郭公(ほととぎす稀なり)
縦有千声尚合稀(たとえ千声ありと云えども尚合ふは稀なり)
況今一度隔枝飛(いわんや今一度枝を隔てて飛ぶをや)
誰知残夏似初夏(誰か知らん残夏初夏に似たるを)
細雨山中聴末帰(細雨山中にきいて未だ帰らず)
翌朝、万里は道灌父子と別れ、故郷岐阜へ去った。その年の秋、道灌は相模国糟谷で暗殺され、これが道灌父子最後の対面になった。
道灌の死を悼んだ父道真が道灌の菩提をとむらうために、この地に建康寺を建立したもので、龍穏寺三世泰叟和尚が開山した。
そして、今でもこの辺には、越辺川に架かる道灌橋を始め、陣屋、馬場跡、砦などの地名が残されている。
昭和58年3月 埼玉県

新たに同じ場所に案内板が設置されました。
建康寺
越生町小杉
関東管領上杉家一族の扇谷上杉氏の家宰として、関東にその名を馳せた名将太田道真は、息子の道灌とともに江戸城、岩付城、川越城を築いたのち、越生に本拠を移した。ここ大字小杉字陣屋付近が、道真の居館自得軒の跡地と推定され、「太田道真退隠地」として埼玉県の旧跡に指定されている。
文明18年(1486)6月、道灌は友人万里集九ととも道真を訪ねた。万里の詩文集「梅花無尽蔵」に、その折に詠じた次の七絶が収められている。
稀郭公(ほととぎす稀なり)
縦有千声尚合稀(縦え千声ありと云えども尚合ふは稀なり)
況今一度隔枝飛(況や今一度枝を隔てて飛ぶをや)
誰知残夏似初夏(誰か知らん残夏初夏に似たるを)
細雨山中聴末帰(細雨山中にきいて未だ帰らず)
翌7月、道灌は相模国糟屋(神奈川県伊勢原市)で主君上杉定正に謀殺され、自得軒が父子最後の対面の場となった。道真は道灌の菩提を弔うため越生山建康寺を開いたという。
門前に架かる道灌橋の対岸には、道灌が調馬した馬場があったと伝わる。また、堀と導水路の跡が遺る水車「才車」の「才」は城塞(城砦)の塞(砦)に由来するとの説もある。
平成25年3月
越生町教育委員会


また、境内に「太田道真退隠之地」という石碑が建てられています。
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檀徒総代の方から連絡をいただき、太田道真の隠退の地の石碑は、2016年の3月末に、越生町教育委員会の協力により建康寺の境内に移動したそうです。それまでは、本堂右の梅林の中にありました。

2006年に訪問した際、遺構は何かないかと偶然話しかけた方がラッキーでした。この地で最も古くから住んでいらっしゃる、上田様にお話を伺うことができました。
参道のほぼ北側3軒目、石碑の入口にお住まいの方です。

この近辺で、陣屋、馬場、砦、道灌橋という地名が残っていると建康寺の案内板に書いてありましたが、ご存知ですか?

うちに古地図があります。どうぞ中へ。

本堂前一帯、越辺川のところまですべて陣屋という地名です。砦や馬場という名は聞いたことがありませんね。道灌橋は本堂前からまっすぐ歩くと越辺川にぶつかりますが、そこに架かる橋のことです。その先が梅園小学校です。

陣屋という字は、かなり広範囲なのですね。ところで陣屋の建物(自得軒)は具体的に、どのあたりにあったか分かりますか?

はっきり分かりませんが、石碑の前に私の家があったそうです。このあたりでは一番古い家が私の家です。600年~700年前から住んでいると伝え聞いています。明治になって今のところに移転しています。

そうすると冗談半分ですが、何か預かり物は?または太田道真、道灌から何か伝言でも・・・

いやあ、特に(苦笑)

お名前から察するに、出身は東秩父あたりではありませんか?松山城主であった名族、上田氏の一族という伝承はありませんか?

特に聞いていません。

後から分かった話ですが、道灌橋を渡った梅園小学校の近辺が「馬場」だそうです。
この場所は慈光寺参道、子の権現参道の分岐点。慈光寺対策として上田氏一族のどなたかが、太田道真の陣屋跡を利用して城としての体裁を整えたのでしょうか。

ひっそりとした建康寺。それは本堂を見て思うことかもしれません。陣屋という地名の広さを確認した時点で、考えが大きく変わりました。
ひょっとして退隠どころか、最前線なのではないかと・・・
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建康寺の背後、自得軒砦も参考にどうぞ。
地図はこちら
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# by ckk12850 | 2017-01-13 07:00 | 入間郡越生町【城跡】

仙元山

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城名:仙元山
別名:―
城主:?
住所:埼玉県比企郡小川町下里
遺構:?

比企郡小川町にある観光地、標高298.9mの仙元山。
標高約210mの「見晴らしの丘公園」まで車で行けます。
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展望台、ローラーすべり台、トイレ等がありますが、ここが駐車場です。山頂まで25分の案内板がありました。ここから未舗装の車道を数分歩きます。突き当たった場所が登山口。平日はここまで車で入れます。
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登山口地図はこちら

東屋が目の前に。ハチに注意の表示がありましたが、夏場でも歩けそうな道です。
さて、ここから比高90m前後という登山にもならない登山。おまけに急勾配ルートはありません。

2分も歩けば、樹齢600年、埼玉県指定記念物「下里の大モミジ」があります。
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案内板もあります。
寛文期に検地を行った坪井次右衛門が近くを通りかかり、風光明媚な山を見上げたところ大木が見え、モミジと知り「しからばモミジ山と命名せよ」と言ったとか。以後「オナワ(検地の意味)のモミジ」と呼ばれるようになった伝承が残されているそうです。

分岐点が何度かありますが、仙元山山頂を目指します。
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途中、草木が刈られて下里方面の眺めが最高。小倉城が見えたのはビックリです。物見山の稜線もバッチリ見えます。
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山頂手前になると少し勾配が発生します。
展望台がありましたが展望ゼロ!これは残念。
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展望台から1分で山頂。
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登山口の東屋から15分で到着しました。
小川町の市街地の展望は確保されていますが、下里方面は残念・・・

仙元山は城跡ではありません。
それでも地形的条件は青山城がいいのかな・・・地形より地理的条件がいいのかな・・・
トータル面で青山城の方が要害だと思いますが。

仙元山に遺構らしきものはありませんでした。青山城の備えがしっかりしているから、特に防備は必要ないと思うのですが、仙元山から攻められたらどうなってしまうのでしょうか。標高298.9mの仙元山から標高265.1mの青山城は見下ろされてしまうのです。

小倉城から仙元山まで、尾根道で繋がっています。仙元山から小倉城に至る尾根道はハイキングコースとして整備されています。

小倉城本郭にある案内板によれば、小倉城立地概念図「自然地形の外郭線」として、小倉城の北は標高221.8mの遠山地区の物見山、西は標高275.1mのときがわ町五明の物見山東の稜線、北東は標高179mの大平山、南東は標高164.9mの正山まで含めています。また、小倉集落、坂下(下里)集落、遠山集落も中世の集落としています。
小倉城の自然地形の延長線上にあると考えて良い山ではないかと。

小倉城から仙元山に向かって、標高269.8mの仙元山(別の仙元山)、標高275.1mのときがわ町五明の物見山東の稜線、標高287.9mの物見山(ときがわ町五明)、標高268.5mの日本城郭体系第5巻の物見山(ときがわ町五明)、標高252.6mの大日山、標高265.1mの青山城も参考にどうぞ。
山頂地図はこちら
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# by ckk12850 | 2017-01-10 07:00 | 比企郡小川町【城跡】

町屋の陣屋

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城名:町屋の陣屋
別名:―
城主:原田佐左衛門、八木次郎右衛門
住所:神奈川県横浜市金沢区町屋町
遺構:不明

まさかと思う住宅街です。
目印は金沢病院。駐車場は少し割高ですが、ここのコインパーキングがオススメ。
ここから、さざなみ幼稚園を目標に。
幼稚園から南を見れば、車両通行不可と思われる細い道があります。
松本様の大きな家が陣屋跡です。
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松本様宅だけが陣屋という訳ではなさそうで、さざなみ幼稚園を含めたほぼ正方形の区画が陣屋だったのではないでしょいうか。日本城郭体系第6巻では松本医院(現在の松本様宅)を陣屋跡として紹介していますが、それでも50m×30mの相応な規模だったようです。

日本城郭体系第6巻には次のように記されています。(一部略)
町屋の陣屋は、京浜急行金沢文庫駅から東南900mの町屋町にある。「新編武蔵風土記稿」は、「陣屋跡、御代官所たりし頃は爰に陣屋ありし由」と記し、天保頃には、すでに廃止されていたことを述べている。現在は松本内科医院の敷地となり、旧状は明らかでないが、低い石塀となまこ壁の土蔵が当時の格式の名残をとどめている。
この地区は古くは称名寺領であったが、天正18年(1590)、徳川家康の入国後に天領となり、金沢付近は代官原田佐左衛門が支配し、文禄3年(1594)町屋村・宿村を検地した。(「金沢歴史年表」)。正保年間(1644~48)は八木次郎右衛門が支配したが(「新編武蔵風土記稿」)、元禄年間(1681~1704)に倉橋内匠・杉浦八郎五郎などの先祖が町屋村を知行したので、代官所はこの頃、廃止されたものと思われる。

鍵の手に曲がった道は、当時のままかもしれません。
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現在の地形から察して、大手(入口)は東側かと思われ、写真を撮って退散しました。
地図はこちら
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# by ckk12850 | 2017-01-01 07:00 | 日本全国【城跡】

赤沼古代瓦窯跡・石田国分寺瓦窯跡

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名称:赤沼古代瓦窯跡・石田国分寺瓦窯跡
住所:埼玉県比企郡鳩山町赤沼

どちらも鳩山町農村公園内にあります。
斜面を利用した瓦窯跡ですが、古代瓦窯跡、国分寺瓦窯跡の場所がほぼ重複しています。
1回の訪問で埼玉県指定史跡を2つ味わえる場所ですが、瓦窯跡に興味がなければどうでもいい場所に。
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案内板があります。
埼玉県指定史跡
昭和25年3月30日指定
赤沼古代瓦窯跡
(略)武蔵国分寺の瓦を焼いた窯跡と考えられていましたが、近年の調査で、国分寺以前の瓦窯跡であることが明らかになりました。7世紀後半から8世紀初頭頃の窯跡です。窯跡は、瓦専用窯でなく、須恵器窯としても使用された地下式登り窯です。
(略)白鳳寺院としては武蔵国最大と言われている勝呂廃寺(坂戸市勝呂)にも供給されており、何れも、勝呂廃寺の創建期の軒先を飾った瓦であることが判明しています。
(略)
赤沼古代瓦窯跡は、奈良時代以前の地方寺院とその瓦の供給関係がよく分かるきわめて貴重な窯跡です。
平成9年3月18日
埼玉県教育委員会
鳩山町教育委員会

さて、100mほど離れて石田国分寺瓦窯跡があります。
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ここにも案内板があります。
県指定史跡
平成8年3月19日指定
(略)
この窯で焼かれたのは瓦と塼で、(略)いずれも武蔵国分寺の創建期8世紀中頃に使われたいわゆる「国分寺瓦」です。この中には「郡名瓦」(郡名を押印・ヘラ書きした瓦)も含まれています。「子玉」(児玉郡=現児玉郡)、「那」「中」(那珂郡=現児玉郡)などの県北西部の郡名瓦が多く焼かれていましたが、ほかに「男」(男衾郡=現大里郡)、「荏」(現荏原郡=現東京都世田谷区・大田区)、「高」(高麗郡=現入間郡)などもあります。
(略)
鳩山町は、武蔵国分寺の屋根瓦を焼いた武蔵国最大の釜場であり、生産方式は、大きく二つの形態からなっていたようです。一つは在来の須恵器工人によるもの、一つは外来の専門の瓦工人によるものです。石田国分寺瓦窯跡は後者を代表する瓦窯跡であり、武蔵国分寺の創建期の瓦生産体制を理解することのできる貴重な瓦窯跡として、平成8年に県指定史跡となりました。
平成10年3月20日
埼玉県教育委員会
鳩山町教育委員会

時代が異なって2つの瓦窯跡があるのは珍しいことではないかと。
地図はこちら
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# by ckk12850 | 2016-12-20 07:00 | 埼玉県その他【歴史観光】

荻野吟子生誕の地・荻野吟子記念館

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名称:荻野吟子生誕の地・荻野吟子記念館
住所:埼玉県熊谷市俵瀬581番地1

荻野吟子は埼玉ゆかりの三偉人のひとりです。
たゆまぬ努力の結果、日本で初めて公許登録女医となった荻野吟子、自らの障害を乗り越え、群書類従の編纂などを行った塙保己一、企業の育成や社会事業に尽力し、近代日本経済の礎を築いた渋沢栄一。

生誕の地には「荻野吟子女史像」があります。
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「荻野吟子生誕之地」の石碑もあります。
熊谷市指定文化財
一、種別 史跡
一、名称 荻野吟子生誕之地
一、指定年月日 昭和46年11月3日
日本女医第一号の荻野吟子は嘉永4年(1851)3月3日幡羅郡俵瀬村の名主荻野綾三郎の五女として、この地に誕生した。
幼くして妻沼両宣塾の松本万年に師事し優れた才能を開花させた。
18歳で結婚後病により離婚、女医の必要性痛感幾多の困難を経て明治18年(1885)開業試験に合格しわが国最初の女医となり、湯島に開業した。
その後、キリスト教に入信し医業とともに婦人運動に参画し、明治29年(1896)渡道、瀬棚町で医院を開業するが夫の死去により、明治41年(1908)帰京。
大正2年(1913)その生涯を閉じた。
熊谷市教育委員会
荻野吟子史跡保存会

その隣には記念館があります。
荻野吟子の生涯がよく理解できます。
展示物は三田佳子の舞台衣装とかだったりして!
本物の展示は手帳、テーブルクロス、聖書、ハンドバッグ等。

記念館の反対側は休憩所。
係の方にお願いすれば、1世帯1部、パンフレットがもらえます。
地図はこちら
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# by ckk12850 | 2016-12-10 07:00 | 埼玉県その他【歴史観光】

葛和田の渡し

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名称:葛和田の渡し
住所:埼玉県熊谷市葛和田

まさかの堤防内に渡船小屋と案内板がありました。

赤岩渡船の由来
赤岩渡船の歴史は古く、既に永禄年間(1558年~1569年)上杉輝虎(謙信)の案内状によれば、船橋を架けて軍が渡河したと伝えられている。
この河岸は、江戸時代の年貢米、参勤交代の荷物、生活物資等の集積地であり、上下流の物資の中継地点としてにぎわい、赤岩の地は宿場町として栄えた。
また、坂東十六渡津(渡し場)の一つに数えられ、中山道熊谷、行田方面及び、野州足利方面への往還として水陸交通の要衝であった。大正15年に県営となり、昭和24年千代田町が県より直接委託を受け管理運営にあたっている。現在、群馬県邑楽郡千代田町赤沼と、埼玉県大里郡妻沼町葛和田を結ぶ県道熊谷・館林線の道路渡船として地域の人々に利用されており、付近は水上レジャーのメッカでもある。

運行時間
4月から9月 午前8時30分より午後5時まで
10月から3月 午前8時30分より午後4時30分まで
但し、大水、台風、強風により航行危険な場合は、欠航いたしますのでご協力ください。

渡船に乗船される方へ
ポールの旗を揚げると渡船小屋から渡船に乗りたい方が確認できますので、旗を引き上げてください。
なお、渡船が動き出したのを確認されたら旗を下してください。

千代田町

驚いたのは永禄年間に上杉謙信が軍用に使っていたということです。
当時の利根川はもう少し川幅が狭かったようですが・・・


小屋には案内表示が貼られています。
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渡船への乗り方
1 待合小屋の横にある黄色の旗を揚げてください。
2 対岸に停留している渡船が動き出したら、黄色の旗を下げてください。
千代田町役場都市整備課

船の料金は無料です。
(注意)遊覧船ではありません。
※(県道の一部として対岸へ渡るための船です)
千代田町役場都市整備課

県道の一部とは!
乗船手続きは旗を揚げるという究極のアナログ!
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遊覧目的だったので乗船はしませんでした。もっとも対岸へ渡って何か用を足して戻るという手もありますが、冷やかしのようでいかがなものかと。
地図はこちら
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# by ckk12850 | 2016-12-01 07:00 | 街道【歴史観光】

坂田医院旧診療所

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名称:坂田医院旧診療所
住所:埼玉県熊谷市妻沼1420

聖天山歓喜院から徒歩10分です。ついでに聖天山歓喜院の参拝者用無料駐車場「坂田医院駐車場」にあります。

内部に入れないので、見学は数分で終了ですが。

案内板があります。
国登録有形文化財
坂田医院旧診療所
登録年月日 平成16年7月23日
所在地 熊谷市妻沼1420
昭和6年に建てられた産科医院。建築面積216.72㎡、鉄筋コンクリート造、平屋建て。直線を基調としたモダンスタイルでまとめられる。玄関ポーチを付け、正側面をスクラッチタイル貼りとする洋風近代建築物。
内部は、タイル貼りの手術室などを機能的に配置しており、簡素ながら、壁や天井、建具などに当時の流行を取り入れた端正なデザインが見られる。街道に面した敷地正面に広くアプローチを設け、洋風な外観を見せる建物は、建設当時、妻沼町の家並みにおいて、近代化のシンボル的な存在であったといえよう。
昭和50年代前半まで使用されたが、改造がなく建設当初の状態を残しており、この地方における近代建築の貴重な遺構である。
平成18年3月 熊谷市教育委員会

平成18年9月に「東京タワー~オカンとボクと、時々オトン~」(二人が移り住んだ古い病院跡)の撮影ロケ地に使われ、映画やCM、ドラマなど20作品以上のロケ地となったそうです。
有名なところで、
「とんび」(市川美佐子が出産した病院の内部)
「南極大陸」(横峰奈緒美が運ばれた産婦人科)
「孤高のメス」、「ゲゲゲの女房」にも使われたそうです。
地図はこちら
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# by ckk12850 | 2016-11-20 07:00 | 建築物【歴史観光】

三ツ木原古戦場

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名称:三ツ木原古戦場
住所:埼玉県狭山市新狭山3丁目3番地

川越インターチェンジから見て、国道16号線「新狭山2交差点」を左折、西武新宿線の踏切を渡り、50m先の右側に「三ツ木公園」があります。新狭山駅からも200mの近さです。また、本田技研工業埼玉製作所の狭山工場、ロッテの狭山工場も見えますが、踏切があり、物流のトラックで予想外に混雑しています。つまり、川越狭山工業団地の南西隅にあります。

公園は工場に遠慮するかのようにありました。それでも大きな公園です。
公園内に櫓台風の高台があります(笑)
その上に三ツ木原古戦場の碑と案内板があります。石碑の裏にも解説がありますので読んでおくと良いでしょう。
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案内板は、非常に簡潔でありながら要領良くまとめられています。
三ツ木原古戦場の碑
東三ツ木は、かつて三ツ木村と称していました。三ツ木村を開発したのは当時鎌倉御家人だった金子和泉守国重で、幕府の滅亡を機に当地へ移り住み、出身地の地名をとって三ツ木と名付けました。
14世紀から16世紀にかけての関東地方は戦乱に明け暮れた時代で、武蔵野の地も入間川を始めとして小手指(所沢市)女影(日高市)などで激しい戦いが繰り広げられましたが、三ツ木もその中の1カ所として知られています。
小田原(神奈川県)を本拠に武蔵国の全面支配を目指す北条氏綱は、大永4年(1524)に上杉朝興から江戸城を奪いましたが、天文6年(1537)になると河越城を手に入れようと軍勢を進め、7月11日に三ツ木に着陣しました。これに対して朝興の跡を継いだ朝定が河越城におりましたが、氏綱の出陣を知ると15日に出撃して三ツ木原へ兵を進め、両軍入り乱れての戦いが始まりました。これが「三ツ木原の合戦」と呼ばれる戦いで、当地から川越にかけての地が戦場になったと伝えられています。
この合戦は、城を出て戦った上杉方に討ち死にする者が多く、朝定の叔父の朝成も生け捕りになったことなどにより、北条氏の勝利で終わりました。河越城を奪われた朝定は、天文14年(1545)9月に上杉憲政らと河越城を包囲してその奪還を目指しましたが、翌15年4月に氏綱の跡を継いだ氏康の奇襲攻撃(いわゆる川越夜戦を受けて朝定は戦死、市内柏原に着陣した憲政も上野国(群馬県)へと逃れ、以後、武蔵国は北条氏の全面的な支配下に入りました。
なお、江戸時代後期に編さんされた新編武蔵風土記稿によると、元弘3年(1333)5月の新田義貞の鎌倉攻め、永享12年(1440)3月の上杉顕定と結城満朝の戦いも、当地で繰り広げられたとあります。
平成14年 狭山市教育委員会

川越夜戦の時、北条氏康は8000の軍勢を従えて三ツ木原へ着陣。陣を出しては府中(東京都府中市)へ引くこと4回、連合軍は北条軍が弱いと思うようさせた地でもあります。砂久保陣場の記載がないのが気になるところですが・・・
この地は砂久保陣場柏原城山砦の中間地点に深く食い込んだ地点。間違えば北条方は挟み撃ちになるかもしれませんが、上杉・古河連合軍を分断することも可能です。氏康の戦略を垣間見ることができます。

試しに国道16号線新狭山2交差点から西を見れば、入間川を挟んで柏原城山砦が手に取るように。その距離は2.3km。
ちなみに砂久保陣場までの距離は4.6kmです。
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# by ckk12850 | 2016-11-15 07:00 | 古戦場【歴史観光】

井田記念館

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名称:井田記念館
住所:埼玉県熊谷市妻沼1706-1

聖天山歓喜院から徒歩10分です。ついでに聖天山歓喜院の参拝者用無料駐車場「坂田医院駐車場」にあります。

メヌマポマードの創始者、井田友平氏の徳行を称え、昭和27年に居宅を現在地に移築して井田記念館としたそうです。

案内板があります。
井田記念庭園由来
敷地 元町役場跡(昭和32年~同57年)で、平成2年商工会館、勤労福祉会館を建築の際、ここを井田記念庭園とし、ここを商工・報恩の先覚井田友平先生(明治22年~昭和40年)遺徳顕彰の場とした。
井田記念館 メヌマポマード創始者・元衆議院議員・井田育英会設立者・町名誉町民第1号・従五位勲四等井田友平氏氏の邸宅で、昭和32年に町へ寄贈委託した。
井田友平先生像 昭和33年1月弥藤吾の有志が井田報徳会を結成し鎮守氷川神社に建立したものを平成5年1月庭園整備を機にここに移した。
門銅葺屋根 弥藤吾根岸秋次氏の寄付による。
頌徳碑 聖天山境内にある
井田邸跡 弥藤吾新田にあって国道407号が通り一部急行東武バス妻沼南下り停留所となり氏神等で残る。
郷土かるた い 井田友平メヌマポマードで名を広め
熊谷市

ポマードは知っていましたが、メヌマポマードは初耳。国内シェアの75%だったそうです。

内部は商工祭やイベント時のみの公開とのこと。
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# by ckk12850 | 2016-11-10 07:00 | 建築物【歴史観光】

五厘沼窯跡

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名称:五厘沼窯跡
住所:埼玉県比企郡滑川町羽尾

道が不明で1回目は偶然通りかかり、2回目は十数分探しました。

五厘沼窯跡
羽尾村大字羽尾
この窯跡は、須恵器と呼ばれる焼物を生産したものです。
須恵器は古墳時代後期に朝鮮半島から、その製作集団が渡来して日本でも生産されるようになったといわれています。五厘沼窯跡は発掘調査の時に出土した遺物などから、六世紀末から七世紀初頭にかけて須恵器を焼いたものではないかと推定されます。
山の傾斜面を有効に使い、岩盤をくりぬいている「登り窯」と呼ばれるもので、窯の斜角は十五度位いです。
遺物は高坏・坏・蓋・堤瓶・甕・平瓶・壺・高台付壺・摺鉢の破片が出土しており、これらを生産したものと思われます。須恵器を焼くたびごとに窯を改修したらしいこん跡も残っています。が使用されたのは数回と思われます。
五厘沼窯跡は昭和五十四年一月~三月に道路工事で記録保全のため調査されましたが保存が良好で、周辺の埋蔵文化財と関連がきわめて深いため保存されることになりました。
昭和五十五年三月
滑川村教育委員会
埼玉県教育委員会

遺構といっても窯跡なので・・・
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あまり実感が沸きません。
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# by ckk12850 | 2016-11-01 07:00 | 埼玉県その他【歴史観光】

源範頼墓(太寧寺)

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名称:源範頼墓(太寧寺)
住所:神奈川県横浜市金沢区片吹61番地5

埼玉県には源範頼伝説があります。
居館があったとされる源範頼館
稚児層のときに育ったという吉見観音
居館と墓があるとされる石戸堀の内(東光寺)

これだけの伝説がありながら、本命は横浜市金沢区太寧寺ではないかと思っていたのです。

道に迷いました。寺が見えるのに到着できない!
国道16号線から京急の踏切を越えられない!
結局、能見台駅前を通過、片吹団地から石段を下りて訪問です。片吹団地の掲示板には「箱根八里は馬でも越すが、片吹団地はバスで越す」なんて標語が貼られていました。

さて、寺は住宅街の中にあります。
たまたまボランティアの方がいらっしゃったので源範頼の墓を尋ねたら案内してくれました。
本堂左側の一番奥にありました。
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横浜市地域史跡
伝源範頼の墓
平成6年11月1日登録
所有者 宗教法人太寧寺
所在地 金沢区片吹181番地2号
鎌倉初期の武将源範頼は、源義朝の六男で、源頼朝の弟です。範頼は義経と同様に兄頼朝に疑われ、伊豆修禅寺に幽閉され、梶原景時らの討手を受け最期を遂げたことになっていますが、太寧寺の寺伝では鉈切まで逃れて、海に向いて建つ太寧寺へ入って自害したとされます。
太寧寺は、はじめ瀬ヶ崎172番地(現、関東学院大学付属小学校々地内)にありましたが、昭和18年、追浜飛行場拡張工事のため、現在地に移転し、裏山にあった伝源範頼の墓も、これに伴い移転しました。
また、太寧寺の名は範頼の法名「太寧寺殿道悟大禅定門」から付けられたもので、当寺には範頼公の位牌や画像などが寺宝として遺されています。
平成7年3月
横浜市教育委員会

埼玉県石戸の東光寺も、この太寧寺も説得力がありますが・・・
位牌、画像が残っていれば太寧寺がやや有利かも。
太寧寺も「伝」であり、源範頼の墓は謎といわざるを得ません。
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# by ckk12850 | 2016-10-20 07:00 | 古墳・墓【歴史観光】

金沢顕時・金沢貞顕の墓

名称:金沢顕時・金沢貞顕の墓
住所:神奈川県横浜市金沢区金沢町(称名寺内)

横浜市金沢区にある称名寺。その境内に金沢顕時・金沢貞顕の墓があります。
金堂から金沢文庫に抜ける途中の小高い場所です。

顕時の墓。
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貞顕の墓。
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案内板も設置されています。
金沢顕時・金沢貞顕の墓
顕時(1248~1301)は北条実時の子で、鎌倉幕府の重職であった引付衆、評定衆などを歴任しました。
1285年の霜月騒動によりまして一時政界を退きましたが、その間、禅に傾倒し、五山版のさきがけとなります「伝心法要」の開版をおこないました。
貞顕(1278~1333)は顕時の子で、六波羅探題をつとめたのち、第15代執権となりました。
和漢の書物を多数収集し、金沢文庫を国内屈指の武家の文庫に創りあげるとともに、称名寺の伽藍や庭園の整備につくし、その最盛期を築きました。
1333年、新田義貞の鎌倉攻めにあい、北条高時および北条一族とともに鎌倉の東勝寺で滅びました。
墓地は、従来、向かって右の五輪塔が貞顕、向かって左の五輪塔が顕時の墓とされていましたが、1935年に右の五輪塔から青磁器(重要文化財)が発見され、さらにその五輪塔の様式等から、右の五輪塔が顕時、左の五輪塔が貞顕で南北朝期の供養塔と確認されました。
平成6年3月21日
横浜市教育委員会

石の囲いがあり、その石に金沢顕時、貞顕の墓と刻まれていますが、これが間違いということに!
つまり左右逆の墓です。

金沢貞顕といえば、内管領の長崎高資等により、鎌倉幕府15代執権に就任したものの10日間で辞任したことで有名です。大河ドラマ「太平記」で児玉清の名演技が懐かしい。
決して凡将ではなかったと思います。
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# by ckk12850 | 2016-10-10 07:00 | 古墳・墓【歴史観光】

光明院

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名称:光明院
住所:神奈川県横浜市金沢区金沢町

横浜市金沢区にある称名寺
赤門から仁王門に向かう途中、称名寺の子院で最も大きい光明院があります。
表門は横浜市指定文化財です。

案内板があります。
横浜市指定有形文化財(建造物)
称名寺塔頭光明院表門
平成4年11月1日指定
構造及び形式 四脚門、切妻造茅葺、袖塀付
時代 寛文5年(1665)
光明院は、称名寺の塔頭のひとつで、「新編武蔵風土記稿」に「光明院、仁王門に向かって左にあり、五院の第一﨟なり、本尊地蔵春日の作なり」とあり、江戸時代後期には、五つの塔頭の一位を占めていました。
この表門は、小規模な四脚門ですが、和様を基調に禅宗様を加味した意匠となっています。
また、市外から近年移築された三渓園の建造物などを別にすれば、造営年代が判明する市内の建造物のなかで最も古く、極めて貴重です。
平成5年3月
横浜市教育委員会

門もさることながら、この参道の雰囲気がいいです。
問題は、称名寺、金沢文庫に駐車場がないこと。赤門の南側にコインパーキングが2か所ありますが、駐車可能台数が少ないため早めの確保を。
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# by ckk12850 | 2016-10-01 07:00 | 神社仏閣【歴史観光】

称名寺隧道

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名称:称名寺隧道
住所:神奈川県横浜市金沢区金沢町(称名寺内)

横浜市金沢区にある称名寺
境内と金沢文庫は隧道で結ばれていました。

東西の入口に案内板があります。金沢文庫側より称名寺側の方が見やすいです。
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中世の隧道(史跡・称名寺)
この隧道(トンネル)は、中世につくられたものです。
称名寺の伽藍が完成した元亨3年(1323)に描かれた「称名寺絵図」には阿弥陀堂のうしろの山麓に両開きの扉があり、その洞門の位置に一致します。
江戸時代には、隧道の向う側には「文庫がやつ」という地名があったことが、記録されており、鎌倉時代の金沢文庫の遺跡の有力な候補地です。県立金沢文庫の建設直前の発掘調査では、この隧道に続く中世の道路が検出されております。
なお、東側は風化が進んでいますが、西側は、比較的旧状を残しており、扉の支柱の痕跡も見られます。この隧道は、国指定史跡の称名寺と金沢文庫をつなぐ重要な遺跡で、永久に文化財として保存されます。

両側とも同じ内容!?
この案内板は称名寺側から見たと判断しますが・・・
称名寺境内に「文庫がやつ」のことが「金沢文庫と称名寺の文化財」の案内板に記されています。そこには「文庫ヶ谷」と表記されています。
称名寺境内(阿弥陀院跡の芝地)には、昭和5年、神奈川県の施設として再興された金沢文庫がありました。
現在の金沢文庫は平成2年、文庫ヶ谷の字名に建てられていますので、本来の場所に戻ったということなのでしょう。

いずれにしても、中世の隧道とほぼ同じ場所に現代のトンネルが掘られているということで、重要な連絡路だったのでしょう。
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# by ckk12850 | 2016-09-20 07:00 | 神社仏閣【歴史観光】

称名寺三重塔跡

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名称:称名寺三重塔跡
住所:神奈川県横浜市金沢区金沢町(称名寺内)

横浜市金沢区にある称名寺

金沢文庫の図書室で頂戴した「金沢文庫マップ」に三重塔跡の記載がありました。

金堂の西側にある庫裏。その庫裏の西側から百観音に登れる石段があります。
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その途中の金網越しに「三重塔古址」の石碑がありました。
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それだけですが・・・称名寺絵図が残ったからこそ、三重塔の場所が特定できた訳で、貴重な遺跡だと思います。

案内板より・・・
称名寺は、金沢山称名寺と号し、真言律宗の別格本山として西大寺末の律院で、本尊には木造弥勒菩薩立像(鎌倉時代、重要文化財)が安置されています。
本寺は、金沢北条氏一門の菩提寺で、草創の時期は明らかにしていませんが、正嘉2年(1258)、金沢氏の祖と称されている北条実時(1224~1276)が、六浦荘金沢の居館内に営んだ 持仏堂から発したと推定されています。
その後、称名寺の基礎が定まるとともに伽藍の整備が着手され、実時の子、顕時(1248~1301)の時代には、弥勒堂、護摩堂、三重塔などが建立され、さらに顕時の子、貞顕(1278~ 1333)は伽藍の再造営を行い、元亨3年(1323)には、苑池を中心として弥勒来迎板絵(重要文化財)に荘厳された金堂を初め、講堂、仁王門など、七堂伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅にもとづく伽藍を完成させました。
しかし、元弘三年(1333)、北条氏の滅亡により鎌倉幕府の崩壊を契機として伽藍の維持が困難となり、江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失いました。

三重塔を含めた七堂伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅にもとづく伽藍を完成させた姿、見たいものですが・・・
元亨3年(1323)に描かれた「称名寺絵図」により、金堂を中心とした伽藍の様子を垣間見ることができます。
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# by ckk12850 | 2016-09-10 07:00 | 神社仏閣【歴史観光】

称名寺

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名称:称名寺
住所:神奈川県横浜市金沢区金沢町

横浜市金沢区にある六浦は、鎌倉時代の主要な港でした。鎌倉幕府の大倉御所は、六浦と鎌倉を結ぶ六浦道に沿った地に設けられています。参考までに、貞永元年(1232)に和加江島が建設されるまで、鎌倉には良港がありませんでした。
また、金沢の風景は中国の西湖に例えられ、江戸時代は「金沢八景」として有名でした。

金沢の称名寺。ぜひ訪問してみたい国指定史跡の寺院でした。
狭い公道に面した、明和8年(1771)再建、朱塗りの惣門。

文政元年(1818)に再建、禅宗様の仁王門。木造金剛力士像は、元亨3年の国指定重要文化財です。
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天和元年(1681)に再建、禅宗様の金堂。
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その右には、文久2年(1862)に建立、茅葺の釈迦堂。
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史跡指定範囲には、光明院表門、新宮があります。

仁王門から庭園を抜け、金堂へ。

金堂脇に案内板があります。
国指定史跡 称名寺境内
(略)
称名寺は、金沢山称名寺と号し、真言律宗の別格本山として西大寺末の律院で、本尊には木造弥勒菩薩立像(鎌倉時代、重要文化財)が安置されています。
本寺は、金沢北条氏一門の菩提寺で、草創の時期は明らかにしていませんが、正嘉2年(1258)、金沢氏の祖と称されている北条実時(1224~1276)が、六浦荘金沢の居館内に営んだ 持仏堂から発したと推定されています。
その後、称名寺の基礎が定まるとともに伽藍の整備が着手され、実時の子、顕時(1248~1301)の時代には、弥勒堂、護摩堂、三重塔などが建立され、さらに顕時の子、貞顕(1278~ 1333)は伽藍の再造営を行い、元亨3年(1323)には、苑池を中心として弥勒来迎板絵(重要文化財)に荘厳された金堂を初め、講堂、仁王門など、七堂伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅にもとづく伽藍を完成させました。
しかし、元弘三年(1333)、北条氏の滅亡により鎌倉幕府の崩壊を契機として伽藍の維持が困難となり、江戸時代に入ると創建当時の堂塔の姿を失いました。
大正11年、称名寺の内界である中心区域が国指定を受け、更に、昭和47年、境内背後の丘陵を 含めた範囲が指定されるとともに、昭和62年には、庭園苑池の保存整備事業が行われました。
(略)
平成6年3月
横浜市教育委員会
史跡称名寺境内愛護会

ここの見どころは庭園。
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庭園に案内板があります。
称名寺庭園
称名寺の庭園は、元亨3年(1323)に描かれた重文「称名寺絵図並結界記」によって、伽藍の配置と共に完成時の姿を知ることができます。
庭園は、金沢貞顕の時代の文保3年(1319)から、翌年の元応2年にかけて造られました。
作庭には性一法師が携わり、青嶋石を使用した90数個の景石を、中島や池の周囲に大量の白砂と共に配置することなどを指示し、その満々と水が注がれた苑池には貞顕から贈られた水鳥が放され、ここに伽藍の美観の要とされる浄土庭園の完成が見られました。
苑池は金堂の前池として、浄土思想の荘厳のために設けられたもので、南の仁王門を入り、池を東西に二分するように中島に架かる反橋と平橋を渡って金堂に達するようになっています。
このような配置は、平安時代中期以降盛んになった、浄土曼荼羅の構図に基づき造られた浄土庭園の系列にあるもので、称名寺の庭園は、時代的に浄土庭園の基本的な形態を残す最後のものとして、庭園史上高い評価を得ております。
平成5年3月
横浜市教育委員会
史跡称名寺境内愛護会
(略)

ここは、金沢実時の館跡と捉えることもできますが、城郭資料で確認できませんでした。

それから金沢文庫。ここもぜひ一度立ち寄ってみたかったのです。
実時が基礎を築き、その子顕時、孫貞時により拡充され、吾妻鏡は金沢氏によって作成されたものと考えられています。

金沢文庫は、称名寺と小山を隔てた場所に造られた、 我が国で現存する最古の武家の文庫ですが、平成2年、「文庫ヶ谷」の字名の現在地に移転しています。ここには、金沢北条氏の歴代が蓄積した文書・記録・和漢の典籍が保管されていました。
称名寺とはトンネル(中世の隧道)でつながっています。
鎌倉幕府が滅亡した後に接収を免れた書物や書類は、 称名寺で保管されています。

ここの観覧料は大人250円。特別展の際は800円!
しかし、無料の図書室があります。金沢文庫保管の図書の写し、65,000冊が閲覧できます。
ここでお願いすれば「称名寺マップ」を入手することができます。

9時から16時30分まで、入館は16時まで。月曜、祝日の翌日、年末年始が休館です。
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# by ckk12850 | 2016-09-01 07:00 | 神社仏閣【歴史観光】

道しるべ

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名称:道しるべ
住所:埼玉県比企郡嵐山町千手堂

何で「道しるべ」だけのために案内板を設置したのか不明ですが。
幹線道路にあり、嵐山渓谷バーベキュー場も近いから飽きない工夫かな・・・
紅葉が楽しめる嵐山渓谷もありますし、ハイカーも多いです。

案内板があります。
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道しるべ
ここは道の交差する四辻で、こうした所に道しるべが建てられた。
ここはまた江戸時代には高札場であった。
高札とは、江戸時代幕府や藩のお觸れを板に書いたもので、それを掲げたのが高札場である。
ここに四角柱で、やや上部がとがった道しるべがある。建てられたのは大正八年(一九一九年)これには「距日本橋元標東京市一六里・距第仲地十四師団宇都宮市三十三里」などと刻まれている。
当時この地方の者が兵役に服するには、宇都宮第十四師団に入隊したという。
その後に馬頭観音と地蔵様が建てられ、この地蔵様には、時々赤い前だれがかけられている。
また、地蔵様のわきには板石塔婆があり、元享三年(一三二三年)の銘と一対の花瓶が刻まれている。
上部は欠損しているが、阿弥陀三尊である。
埼玉県

何度も通っている道なのに、駐車スペースがないため見る機会がありませんでした。
それにしても、この嵐山から宇都宮への兵役とは!
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# by ckk12850 | 2016-08-15 07:00 | 街道【歴史観光】

鎌倉街道遺跡(市場・西久保境)

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名称:鎌倉街道遺跡(市場・西久保境)
住所:埼玉県入間郡毛呂山町

毛呂山町の鎌倉街道上道の遺構は、県内屈指です。いや、ナンバー1かも。
毛呂山町歴史民俗資料館が近くにありますので、ここで無料の資料を頂いておくと便利です。資料館を起点に、大類館、苦林野古戦場、大類の鎌倉街道遺構も散策できます。

市場・西久保境の最大の売りは、掘割状遺構の鎌倉街道の遺構を見ることができます。
当時の鎌倉街道の形状が良好に残っています。

標柱があります。
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鎌倉街道遺跡
ここの前を南北に鎌倉街道上道が通っていた。この標識に向って、右手の林道の道を南に行けば、葛川・高麗川を越えて、日高町女影ヶ原古戦場へ行く。左は北方の越辺川に出る。すぐ右手の林道の凹道は、県下でも珍しく良く旧態を残して、昭和五十七年県立歴史資料館によって、試掘調査が行われた。堆積土の下に幅五メートルの旧道面があり両側には排水溝もあった。低湿のため、長い間使用されず、今は旧道に大木が生えている。
昭和六十二年三月
毛呂山町教育委員会

毛呂山町歴史民俗資料館前を通る県道から入れますが、未舗装の道です。オフロード車向けです。標識が多いので迷いませんが。
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# by ckk12850 | 2016-08-01 07:00 | 街道【歴史観光】

平野神社(北条氏康陣説)

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名称:平野神社
住所:埼玉県川越市今福

出典は北条五代観光推進協議会が発行した「北条五代外伝 ~ゆかりの地に伝わる逸話~」です。

北条氏康の項で「牛頭天王の霊験」として掲載されています。
川越市にある平野神社の祭神は牛頭天王で北条氏康の建立という。天文年間の合戦中に陣中で病人や使者が続出。氏康が神の御加護を念じて祈った結果、再び活気を取り戻し大勝することができたという。なお、北条の陣はこの神社付近にあったという。

なお、この牛頭天王の霊験は「志村家文書」が根拠とされています。

気になるのは市指定の史跡である砂久保陣場。天文15年(1546年)、川越城攻めの際、上杉憲政、または北条氏康の陣が構えられていたというのですが、距離わずか750m。
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新編武蔵風土記稿には次のように記されています。(意訳)
上杉憲政陣所跡。河越夜戦の陣跡。小田原記の砂窪とは、この場所。しかし、具体的な陣の場所、合戦などすべてについて伝わっていない。もともと広野であって新しい村なので、何も伝わらなかったのだろう。

案内板が設置されていました。
天文15年(1546)のいわゆる川越夜戦の時のことである。
上杉憲政は前年の14年9月末からこの砂久保に陣をとり、8万余騎の兵力をもって川越城を攻めさせた。しかし川越城は北条綱成がわずか3千の兵をもって翌15年4月までよく持ちこたえた。やがて援軍にかけつけた北条氏康の8千の兵は、4月20日の夜半に憲政の陣を急襲して敗走させ、まもなく川越城を救援した。この砂久保は川越城の南西4キロのところにあり、正保頃開墾された村で、この合戦の当時は広漠たる原野に過ぎなかった。
平成元年2月 川越市教育委員会

しかし、平成19年8月以降に設置された新しい案内板は、何と北条氏康の陣になってしまいました。
砂久保陣場跡(市指定・史跡)
砂久保陣場跡は、戦国時代に扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方足利氏の連合軍と小田原北条氏が河越城をめぐり戦ったときに陣が張られた場所です。
関東の戦国時代は、享徳3年(1454)、鎌倉公方足利成氏が関東管領山内上杉憲忠を謀殺した享徳の乱から始まります。成氏は、古河に移り古河公方を称し、山内上杉氏と扇谷上杉氏と対立しますが、この三者はその時々敵味方を換えながら合戦を繰り返していきます。明応2年(1493)、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆の堀越公方を滅ぼし、その子氏綱の代には小田原を拠点に相模、武蔵に進出して両上杉氏と敵対するようになります。
河越城を本城とする扇谷上杉家では、天文6年(1537)、朝興が没し、朝定が跡を継ぐと、乳の遺言に従い勢力挽回を掛けて北条氏を攻めますが反撃され、逆に河越城を失うことになります。その後天文10年(1541)北条氏の代替わりに乗じて朝定は、河越城奪還を企てますが失敗します。
単独で北条を追い払うことができないとみた朝定は、山内上杉憲政と手を結び、氏康がするが今川氏との対戦のために駿河国境に出陣中の隙を衝いて、天文14年(1545)9月26日、河越城に向けて侵攻し、同城を包囲します。北条方の河越城では、北条綱成(氏康の義弟)と、同宗哲(氏康の叔父)が守将を努め、籠城戦を展開します。両上杉氏は、戦いを正当化するために古河公方足利晴氏(妻は氏康の妹)に出陣を懇願し、10月27日に上杉軍に迎えます。こうした状況に対し氏康は、河越城の死守を優先し駿河からの全面撤退と引き換えに今川氏と和睦を成立させ、11月初め頃に小田原に帰陣します。河越城は籠城したまま年を越します。
天文15年(1546)に入ると氏康は、足利晴氏に城兵三千人の助命嘆願をしますが拒否されます。しかし、3月初めに扇谷上杉氏の宿老で岩付城の太田全鑑を離反させ味方に引き入れられたことで、氏康は4月17日に出陣に踏み切り、砂窪(砂久保)に着陣しました。そこで足利晴氏に再度城兵の助命を懇願しますが、取次ぎを拒否されると、4月20日、上杉憲政が氏康陣所の砂窪に攻めかかります。氏康は劣勢を跳ね除け、これを迎撃するとともに、城内からは綱成らも撃って出て、両方面で北条方は勝利します。その結果、上杉憲政は平井城に、足利晴氏は古河に敗走し、扇谷上杉氏は当主の朝定とその重臣難波田善銀が戦死し滅びます。
一般には「河越夜戦」と伝えられ、城兵3千と援軍8千の北条軍が、連合軍八万とも六万五千とも云われる大軍を闇夜に乗じて奇襲し破った合戦とされていますが、兵の数には後世の誇張があり、また実際には奇襲戦ではなく迎撃戦であったようです。
いずれにしろ、この時の合戦によって北条氏の関東支配が優位に展開し始めたという意味では、関東の戦国史を語る上で貴重な合戦であったことは間違いありません。
昭和33年3月6日指定

いつの間に迎撃戦になってしまったのでしょうか。奇襲戦だから勝てたという常識的な考えはどこに!?
平野神社は、どちらの陣だか不明になってしまうのですが、簡単に整理してみます。

歴史人2016年3月号(小和田泰経氏監修・文)は、
北条軍・・・河越城(福島綱成)、武蔵府中(北条氏康軍)
山内上杉軍・・・狭山市柏原
扇谷上杉軍・・・砂久保の陣
足利晴氏軍・・・川越市下老袋

新編武蔵風土記稿は、
北条軍・・・河越城(福島綱成)、狭山市下三ツ木(北条氏康援軍)
山内上杉軍・・・砂久保の陣
扇谷上杉軍・・・河越城の北の方の陣
足利晴氏軍・・・北条氏康の軍勢が小勢と判断できた場所

関東古戦録(関八州古戦録)は、
北条軍・・・河越城(福島綱成)、砂久保(北条氏康援軍)、寺尾(寺尾の住人、諏訪右馬介)
山内上杉軍・・・狭山市柏原
扇谷上杉軍・・・不明
足利晴氏軍・・・河越城兵から攻められた場所

関東古戦録では、河越夜戦は天文7年(1538)という説があるが否定しています。同書が編纂された頃、既に河越夜戦はいつだったのかという混乱が生じていたことを物語っています。
狭山市三ツ木原において北条氏綱と上杉朝定が戦ったもので、北条方が河越城を奪い、朝定は松山城へ逃れた。その後、福島綱成が河越に入った。この年の丙午(1546)4月20日が真説であろう。

志村家文書は、関東古戦録に沿った内容の可能性が高いです。
しかし、関東古戦録には主役であるはずの、扇谷上杉軍が陣を構えた場所の記載がないことが不自然なのです。
もう一つ、寺尾城が無視されて寺尾の住人の記載のみという・・・
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# by ckk12850 | 2016-07-15 07:00 | 古戦場【歴史観光】