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そこに城があるから
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徳星寺

名称:徳星寺
住所:埼玉県上尾市畔吉751番地

失礼ながら、偶然立ち寄った寺です。

案内板には、
「徳星寺
所在地 上尾市畔吉751
徳星寺は、山号を東高野山遍明院と称する天台宗の寺である。
山号を「高野山」(真言宗の本山)が示すとおり古くは真言宗であったが、その後いつの頃か天台宗に改められたという。
寺伝によると、弘法大師(空海)創建の寺と伝えられ、カヤの大樹(県指定文化財)はその時に植えたもので、月影池(今は堀井戸となっている)は、大師がアカ井として用いたものとも伝えている。
大師伝説は、そのまま信じ難いものであるが、山号から高野山(和歌山県)とつながりのある古刹であることは想像される。
なお、寺には岩槻城主太田氏房の印判状(天正17年、1589)、徳川家康以降歴代12通の朱印状がある。
(以下略)」
と記されています。

墓地の分譲販売が本業のようでしたが、ひっそりとした境内でした。

月影池が気になったのですが、山門前の池なのでしょうか・・・

それから「大カヤと暖帯林」は、県指定天然記念物です。
カヤは樹齢700~800年は経ていると推定されているそうです。
# by ckk12850 | 2012-05-20 06:00 | 神社仏閣【歴史観光】
淨空院(浄空院)

城名:淨空院(浄空院)
別名:菅沼氏陣屋?
城主:菅沼氏
住所:埼玉県東松山市上唐子679番地
遺構:?

旗本菅沼氏の菩提寺です。
菅沼一族の墓所があるということは、近くに陣屋、代官所等のような領地、墓所等を管理する施設があった可能性があります。しかし、江戸に屋敷を持ち、本領に菩提寺を持つケースも多いことから寺院として訪問しました。
目印は丸木美術館。広大な寺院にビックリ!

山門前に昭和55年に設置された案内板があります。
気になる点を要約。
「淨空院は応和2年(962年)、天台宗の慈恵大師が法養寺として開き、元亀・天正の頃禅宗に改宗、その後、文禄2年(1593年)、徳川家康譜代の旗本菅沼越後守定吉が開祖となって大高山本通寺浄空禅院と改め、現在の諸堂の建立がなされた。」

本堂、庫裏、禅堂、裏門は必見。特に庫裏の奥の書院等には、禅寺には珍しい武者隠しの備えがあるそうです。
ちょっと城気分。

さて、菅沼家墓所は本堂裏にあります。

「市指定考古資料 菅沼氏一族の墓」の標柱があり、案内板もあります。
「菅沼氏一族の墓
(略)
室町時代三河の豪族菅沼一族は、島田、田峯、野田、長篠の四家があったが、いづれも始祖を資長とする同族で、浄空院を菩提寺とする菅沼家は、このうち田峯の菅沼家です。定氏、その子定吉のとき、家康とともに関東へ来た幕臣の旗本ですが、定吉公はこの唐子の地が菅沼家領地の中心で、江戸城との交通の要所でもあり、また法養寺のあった事などから、この地に菩提寺を建立したのです。
家康とともに江戸城に入った定吉公は家康より采地(領地)三〇五〇石を給わり、そののち大御番の頭となった。二代定俊の時采地を長兄定政と弟定勝(うち一〇二〇石)に分けたが、同じ田峯の菅沼として菩提寺は浄空院を代々の墓地としました。
(以下系図)」

初代定吉の墓が最も大きく立派。しかもセンターキープ!
その後、24代までの墓石が並んでいます。

寺の周辺は雑木林に囲まれ、南に向かった緩斜面となっています。都幾川が流れているので、河岸段丘に構えられた寺院なのでしょう。

北側は川が流れ、堀のような役割があったのかもしれません。

裏門を探してみましたが、予想していた北側ではなく、東側に構えられていました。

禅堂も昭和43年に改修されたものの、落ち着いた雰囲気が漂っています。


限りなく城(陣屋)のような、しかし陣屋とするには決定打もなく・・・
# by ckk12850 | 2012-05-01 06:00 | 東松山市【城跡】
源義賢の墓

名称:源義賢の墓
住所:埼玉県比企郡嵐山町大蔵66番地

大蔵館(大蔵神社)の東側、約200mの民家の庭先に埼玉県指定史跡、源義賢の墓があります。
県道大野東松山線(172号線)を大蔵神社から東へ向かい、信号通過後、すぐに右の舗装道に入ります。「源義賢の墓」と書かれたこの地区得意の巨大看板がお出迎え(苦笑)

北側から訪問する時は、民家の敷地内を通過するので家人の了承を得てから。

声を掛けるのが嫌なら南側の細い道へ迂回です。

公道に面した民家南側の入口に案内板があります。
「源義賢の墓
義賢は源為義の次子(長子は義朝)で、近衛天皇が東宮の時に仕え、帯刀の長となったので、帯刀先生と称され、その後東国に下り、上野国多胡館(群馬県多野郡吉井町)を本拠地としてので、多胡先生とも称された。
更にその後、この地(大蔵館)に移住し、武蔵国や上野国に勢力を振るったが、久寿2年(1155年)8月16日、大蔵館で義朝の長子である甥の悪源太(源)義平と合戦して討たれた。
なお、木曽義仲は、義賢の次子である。
源義賢の墓とつたえられるこの五輪塔は、数度の火災にあったためか、やや赤く変色しているが、県内では、最古の部類に属するものである。
大正13年3月31日に県指定史跡に指定されている。
埼玉県
昭和55年3月」
と記されています。
まずは簡単に時代の流れを予習。伝木曽義仲館も近所です。

墓の隣にも案内板があります。
「埼玉県指定史跡 源義賢墓
指定 大正13年3月31日
所在地 嵐山町大字大蔵字大東66
時代 平安末期
この五輪塔は、火輪部と水輪部のみ残存しており、空輪部と地輪部は後から補われたもので、風輪部は欠損しています。材質は、凝灰岩製で、火災にあったためか変色のあとがみられ、損傷も激しかったため、昭和52年に東京国立文化財研究所により修理処理されました。
このかたちは、いわゆる古式五輪塔と呼ばれ、県内に所在する五輪塔の中では最古の例です。
なお、この墓は、義賢ゆかりの人々が供養のために建立したものと考えられます。
(略系図)
この五輪塔は本来供養のために建てられましたが、後には墓石として建てられるようになりました。
密教の宇宙観より、上から空・風・火・水・地として、五大の考え方をあらわしています。
平成4年9月
嵐山町教育委員会」
と記されています。

これは本格的な案内。高レベルの墓石知識が必要かも。

大蔵館訪問の際、セットで訪問することをお勧めします。
地図はこちら
# by ckk12850 | 2012-04-25 06:00 | 古墳・墓【歴史観光】
下里城

城名:下里城
別名:?
城主:?
住所:埼玉県比企郡小川町下里
遺構:?

「日本城郭全集4」では、所在地を比企郡小川町下里としています。

>水田に向かって高く突き出した山の上にあり、いまもその姿をとどめているが、何人の居住したものかは土地の伝承にもなく、一切不明である。

下里地区は広域なので、この短い文章を手がかりに探しました。
下里地区で下里城は青山城のことを指します。
また、「水田に向かって高く突き出した山の上」なら、日本城郭体系第5巻掲載の物見山もハズレではない気がするし・・・

しかし、何度も下里地区を訪問すると、1ヶ所だけ「水田に向かって高く突き出した山」があります。
「いまもその姿をとどめている」のであれば、遺構も期待できるし!

小川町下里の北根地区から登ってみました。
嵐山町遠山地区から小川町に入り、約450m先を右折。

右折後、民家敷地に入らないように未舗装道を直進。約300mで「大聖寺」の標柱が見えます。

標柱案内の下里の滝、芭蕉の句碑から来たことになります。

そのまま大聖寺方面に向かいます。右前方に標高221.9mの寒沢山が見えます。

東に向かって沢沿いに登ります。約7分で分岐。ここにも標柱があります。
標柱に従いUターンするように登ります。
沢から離れ、約2分で3つ目の標柱があります。
十字路となっていて、直進すれば大聖寺。右折すれば寒沢山を経て遠山地区の物見山、左折すれば目標の下里城推定地です。

約3分でピークに到達。一度、数m下ります。そして登ります。国土地理院の地図の等高線からは読み取れないので要注意!

冷静に考えれば、尾根伝いに寒沢山、遠山地区の物見山に続いていますので、予想以上に要衝かもしれません。
大聖寺から尾根伝いに遠山地区へ進出することは容易で、そのことは小倉城下へ出ることが容易なのです。
そのために、ピークが物見の役割を果たしていることが必須のような・・・

南側は下里岩を中心とした崖状になっていますが、北側の大聖寺方面は緩斜面であり、これがまた謎です。

1つ目のピークは平場となっていて、南側は土塁とも思える遺構のような存在が確認できましたが、自然地形にも見えました。

さて、標高178.3mの東側のピークですが、ピーク手前に小川町No.25基準点が設置されていました。

地図で黒い点が表示されていましたが、これは神社ということも判明。

広い平場が形成されていたものの、城館遺構とは言い難く・・・
地図はこちら

困ったことに東側のピークから、標高164.6mの西側のピークが見えないのです。こちらが本命なのに・・・

後日、登山口を変更して再挑戦。

何と、西側のピーク真南の民家裏から道がありました。比高約70m。

未舗装の道を北に進みます。道が消える頃、未舗装の道から外れて北に向かう登山道があります。民家裏から4分程度で尾根道に出ます。東を見上げれば要塞のような山が出現。
その要塞のような地形は、南北の広い尾根道を切り落として痩せ尾根に変化させていました。

特に、南側の切り落としは2段になっていて、麓から見上げると要塞のようにも見えるのでした。

ここを突破した後、山頂手前には左右に石積みが構えられていました。

尾根道から5分で山頂へ。平場は自然地形かもしれませんが、二段に構えています。

いずれにしても、この山頂へ辿り着くには東西のみで、西側の守りは完璧です。

では、東側の守りはどうなのかということになれば、1回目の訪問で錯覚したとおり、東側のピークが山頂だと思い、それ以上攻め込まれないのではないかと思うのです。
山麓から見れば、ピークが2つあることは一目瞭然ですが、登ってみると勘違いするのです。

2つのピークの鞍部は、特に要害という訳でもなく・・・
かなりの藪で、尾根道を迷うことはないと承知していたものの、マーキングをして歩きました。

さて、ここまですべての話は、西側のピークが下里城であることを前提としているのですが、何とも判断が難しいです。この付近にお住まいの方に伺うと、東側のピークの神社(愛宕大神社)は手入れをしているものの、西側のピークについては城跡との認識がありませんでした。

聞き込みでは、名前の情報は得られませんでしたが、埼玉の文化財マップで確認したところ、東側のピークの山の名前は「愛宕山」、山頂にある神社の名前は「愛宕大神社」とのこと。
さらに西側のピークは「徳寿山」とのこと。地図上では名前が付けられていました。
地図はこちら
# by ckk12850 | 2012-04-01 06:00 | 比企郡小川町【城跡】
大成館

城名:大成館
別名:―
城主:金子駿河守
住所:埼玉県さいたま市大宮区大成町2丁目402番地・普門院
遺構:?

この館跡は大宮区の中では比較的メジャーな城館でありながら、遺構が期待できないであろうという思いから訪問は放置していました。

さて訪問。
周辺の一方通行の表示がハッキリしていないため、逆行していないかと思いながらも普門院に到着。

山門前に大きな大成館跡碑があります。

さいたま市のホームページによれば、大成、植田谷領佐知川(現さいたま市西区佐知川)を領した金子駿河守の居館跡だそうです。
応永33年(1426)、駿河守は関東を巡って仏法を説いていた曹洞宗の高僧・月江正文に帰依し、自ら居館を禅庵に改めたと伝えられているそうで、これが現在の普門院の始まりだそうです。
門前には、西馬場、鍛冶屋堤、大手などの小名も残っているそうですが、きっと誰も知らないと思います。

境内は広く、また、手書きの看板も多く・・・
一つ一つ、つい読んでしまって・・・

江戸時代末期の幕臣、小栗上野介の墓もあるそうです。
忠魂碑もありました。

西側を流れる鴻沼川に架かる大成橋から普門院を眺めると、微高台地になっていることが分かります。
# by ckk12850 | 2012-03-15 06:00 | さいたま市【城跡】
天城山隧道

名称:天城山隧道
住所:静岡県伊豆市湯ヶ島

まさか隧道(トンネル)は、車で通行できるとは知りませんでした。

北側から訪問しましたが、隧道から見て、浄蓮の滝は北側、寒天橋は南側になります。石川さゆりの天城越えの歌詞どおりの行動だったりして(苦笑)

北側入口にはトイレがあり、案内板も設置されています。
沼津土木事務所が設置した案内板に記されている内容を要約すると、
天城山隧道(田方郡天城湯ヶ島町~賀茂郡河津町)をつなぐトンネルであり、明治38年(1905年)に開通しました。このトンネルの開通によって北伊豆と南伊豆の距離は一気に短縮し、難所の天城越えは解消したそうです。
延長446m、幅3.5m、高さ3.5m、標高708.74m、石を積み上げていく切り石巻工法で造られたそうです。
昭和61年8月 日本の道100選
平成10年9月 登録有形文化財
平成13年6月 重要文化財

やっぱり訪問して正解!

ハイカーの方には天城縦走路16.3km(6時間)、伊豆山稜線歩道42km(13時間)、踊子歩道16.2km(8時間)のコースがあります。
# by ckk12850 | 2012-03-01 06:00 | 街道【歴史観光】
江戸城石切り場跡

名称:江戸城石切り場跡
住所:静岡県熱海市初島

まず、熱海から初島へ。

初島港から飲食店街を抜け、初島アイランドリゾートへ向かいます。

案内板があるので、海を見て歩かなければ大丈夫。
江戸修築のため、石が切り出された跡地があります。もっとも巨石が置いてあるので気が付かない訳がなく。
カラーの案内板は「江戸城修築々石採取跡」という、何だか理解できないネーミングです。

相模の真鶴から伊豆の稲取にかけて、江戸幕府が西国大名に対して石材の海上運搬を命じています。10万石につき、100人持ちの石、1,020玉だったとのことです。

初島リゾートアイランド内にも巨石が点在し、島の広範囲にわたって石が切り出されたことがわかります。

ここも写真撮影をしていたのは自分だけという・・・
# by ckk12850 | 2012-02-20 06:00 | その他【歴史観光】
磯内膳の墓

名称:磯内膳の墓
住所:静岡県熱海市初島

初島港から飲食店街を抜け、初島アイランドリゾートへ向かいます。

右側に案内板があるので、海を見て歩かなければ大丈夫。

島流しになった、磯内膳の伝説があります。
小田原の侍・・・
小田原北条氏家臣なのか、小田原藩士なのか不明ですが、島民とトラブルになったそうです。
磯内膳が散歩していると、農夫越後孫兵衛の運ぶ肥料が付いてしまいました。
怒った内膳は果たし合いを要求。
覚悟を決めた孫兵衛は斧を研ぎ始めました。これを見た内膳は、彼の勇気に驚き「お主の心は分かった」と許したそうです。
その後、切腹を命じられ、「小田原の見えるところに埋めてくれ」と遺言したとか。

歩く人が多いのに、立ち寄る人はいませんでした・・・
# by ckk12850 | 2012-02-15 06:00 | 古墳・墓【歴史観光】
江川邸

城名:江川邸
別名:江川家住宅・韮山役所跡
城主:江川氏・江川太郎左衛門(襲名)
住所:静岡県伊豆の国市韮山韮山1番地
遺構:重要文化財江川家住宅・他

韮山付近では、江川家住宅の案内表示が多くなるので迷うことがありません。
駐車場もあり、観光案内所、トイレも整備されています。

パンフレットによれば、江川家は清和源氏の流れを汲み、源満仲の次男宇野頼親を祖とし、6代親治が保元の乱(1156)に破れ、その孫、親信が従者13人と共に落ち延びた場所が伊豆だそうで。
源頼朝の挙兵(1180)の際にも参戦、15世紀中頃に狩野川の支流の名にちなみ、江川と改姓。
伊豆進出(1493)の際、23代英住が土地を提供して韮山城を築城させ、北条氏の家臣になりました。
28代英長は、徳川家康に仕え、代官として世襲しました。

主屋の原型は1600年前後の建築、部材の中には室町時代まで遡るものもあるとのことです。


邸内には枡形(広場)、元禄9年(1696)建築の表門、代官所時代の役所跡、主屋、井戸、西倉、南米倉、北米倉、裏門等。

運が良ければ、無料ガイドさんの話を聞きながら主屋見学ができます。生き柱、棟札の話、幕末の反射炉の話、門下生の話はガイドさんから伺って納得。
もう少し歴史に登場して良い人物なんだなと思います。

裏門は文政6年(1823)建築ですが、門扉は古く、天正18年(1590)、豊臣秀吉の韮山城攻撃の際、鉄砲玉や鏃の跡が残っています。

当時は韮山城の砦、江川曲輪だったそうなので、攻撃を受けたことは容易に想像されますが、その当時の建物遺構があることにも驚き!
# by ckk12850 | 2012-02-01 06:00 | 日本全国【城跡】
北条氏邸

城名:北条氏邸
別名:北条氏館・円成寺跡
城主:北条氏
住所:静岡県伊豆の国市寺家
遺構:建物跡

迷ったら、守山西公園を目印に。
平成23年8月現在、駐車スペースは3台ほど。いずれ整備されることでしょう。

それにしても認知度が低い!
国指定史跡ながら、地元の観光案内所でも、北条氏邸にいた歴史好きな方も、北条氏ゆかりの願成就院のことばかり話していました。

守山西公園入口に「北条一族のふるさとと寺院」というカラーの案内板が設置されています。

案内板を読めば、邸跡(館跡)が目の前にあることが分かります。
「北条氏邸は鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の館があった場所です。
狩野川の東岸にある守山の北西部の小さな谷になっているところです。ここを含めて伊豆北条と呼ばれた一帯(現在の寺家・四日市付近)は平安時代末期から鎌倉時代にかけて北条氏の本拠地であった場所です。(略)
1333年、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻りました。そして、一族の中の円成尼という女性が中心になって、邸宅の跡に寺院を建て、北条氏の冥福を祈ったのが円成寺です。円成寺は室町時代にも尼寺として続き、上杉氏の一族の女性が尼として入っていたことがわかっています。
現在の発掘調査では、円成寺に関連する池や溝が見つかっています。」

案内板には発見されたカワラケや、宝珠(水晶製の玉)の写真もあり、推定ではなく、確定であることを物語っています。

史跡公園整備が計画されているようなので、韮山の観光名所となることは間違いなさそうです。

できれば、近所にある北条政子産湯の井戸、願成就院もセット訪問したいところ。

余裕があれば、蛭ヶ小島も訪問したいところ。

源頼朝と北条政子は、思った以上に近距離恋愛だったような・・・
# by ckk12850 | 2012-01-20 06:00 | 日本全国【城跡】
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