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善仲寺館

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城名:善仲寺館
別名:古尾谷城・古尾谷氏館・古尾谷館
城主:古尾谷氏・仲氏
住所:埼玉県川越市大字古谷上堀の内4133~4245番地・善仲寺
遺構:土塁・水堀・空堀

概要:
善仲寺探しが一苦労です。川越市街から国道16号線をさいたま市方面に走り、古谷交差点を左折、和菓子の紋蔵庵本店の前を通過します。国道の騒音が嘘のように消え去ります。その先は電柱の標識に善仲寺と書いてあるので目安にするとよいでしょう。近辺の道は、細く、うねりの多い道なので迷いやすいです。
まったくの平地であり、今でも四方に水田が広がります。荒川右岸の沖積低地に位置します。埼玉の館城跡によれば、約22800坪余りの広さです。外掘まで含めているのでしょうが、かなり広大です。
東方面は遠く入間川となっており、他方面は湿地帯か水田だったことでしょう。近隣には、紛らわしい用水路が多く、堀との区別が困難です。
なお、山門前の一帯は空堀であったそうです。今は埋め立てられ、空地になっています。

歴史:
新編武蔵風土記稿の古谷上村、善仲寺の項によれば、
「寺伝に、天正(1573年~1591年)の頃、仲筑後守資信が開山する。
また、元禄の鐘銘にはこのように記されている。仲筑後守資信の主君、古尾谷殿が開山すると。
また、過去帳に開山は応永古尾谷近江太郎信秀とある。
なお、古尾谷氏の家系は不明である。1370年、上杉定正の文書に古尾谷氏の名前が見える。
また、小田原北条役帳に伊東内尾形古尾周防とある。これは1559年に作成されているので、周防は、仲筑後が仕えた古尾谷氏であろうか。仲筑後が没したのは1582年なので、時が同じである。
境内に破壊した五輪の碑がある。応永(1394年~1427年)、康正(1455年~1456年)の文字が見え、古尾谷氏の墓と伝わる」
と記されています。
要約ですが、結論がないのです。

鎌倉幕府御家人の古尾谷氏と、その後、仲氏の館跡と伝わります。古尾谷氏は、出自が不明ですが、幕府公式文書吾妻鏡に存在がみえます。
また、古尾谷八幡社の社伝に室町時代、足利尊氏に従った古尾谷刑部大輔が1352年の小手指ヶ原の合戦に際し戦勝祈願をしたそうです。1368年、武蔵平一揆の際に古屋氏の名で、高坂氏、江戸氏と共に河越氏に加担し衰退したようです。
後、小田原北条氏の岩槻衆である仲筑後守資信が善仲寺を建立し、居館していたといいます。寺と館の関係は不明ですが、仲氏は古尾谷氏の家臣であったといいます。なぜ古尾谷氏が古谷の地を離れたのか不明です。
仲姓は現在でも川越市に存在し、1590年過ぎに新田に移り住んだかもしれません。小田原北条氏滅亡と共に帰農した可能性が高いと思われますが、はっきりしたことは不明です。

遺構:
寺に対して水堀が南北200m、東西250mくらいの大きさで取り囲みます。コンクリートで護岸されていることが残念です。
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また、境内の本堂裏には物見台のような土塁が残ります。
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本堂裏にも池のような水堀が残ります。この遺構、入間川の水路を利用して入ってきた船をUターンさせる「舟回し」の遺構だそうです。
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この池の北側には、空堀があります。これが館跡の遺構か、舟回しの遺構か不明です。
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恐らく本堂まわりの部分が古尾谷氏の遺構なのではないでしょうか。貴重な初期方形館の典型的遺構でしょう。
地図はこちら
by ckk12850 | 2005-03-09 20:35 | 川越市【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助