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押垂氏館

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城名:押垂氏館
別名:―
城主:押垂氏
住所:埼玉県東松山市下押垂227番地・西福寺
遺構:?

情報は、埼玉県立嵐山史跡の博物館発行の「改訂 歩いて廻る 比企の中世・再発見」です。
押垂(おしだり)氏は、野本基員の子基時を始祖とし、押垂に居住したことから押垂氏と称し、鎌倉幕府の御家人として活躍しています。基時は、笠原親景の子で、野本基員の養子となった人物です。
市内上押垂・下押垂の地は都幾川の氾濫源である低地に立地しており、鎌倉時代に開発され押垂氏の所領となったと思われます。押垂氏の館跡は、都幾川の氾濫によって壊滅してしまったのか、現在のところ発見されていません。

別項では「時基」と称し、野本次郎、左衛門尉、笠原原左衛門尉親景子としています。「基時」は誤植かな!?

野本氏館でも紹介していますが、藤原氏を祖とし、10世紀の藤原利仁鎮守府将軍・武蔵守の末裔とされています。

寺院で藤原氏関係の家紋を探して、突撃訪問を試みるか・・・
徹底的に聞き込みをするか・・・

まずは都幾川右岸を訪問すると良いでしょう。蛇行した川の跡があり、沼になっています。

続いて対岸の村社天神社(天満宮)へ。古風な板石塔婆がありました。東側に堀もありましたが、何と下青鳥(下郷)818番地を訪問していました。

次は上押垂の泉蔵寺へ。
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北と東に用水があります。
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西には溝。
市指定文化財もあるのですが、時代が違う・・・
南側の堤防沿いに共同墓地もありました。板石塔婆もありましたが、決定打はないように思われ・・・

場所を移動、下押垂526番地の氷川神社へ。
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館跡らしい高台が魅力ですが、移転して現在地に建立されたという石碑があり・・・社殿建立のために高台が設けられたかと思われ・・・

最後に下押垂の西福寺へ。
トタン板壁の建物が本堂(苦笑)
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ひとまず墓地の家紋を確認。藤原氏関連の家紋は不明。
昭和55年に建立された石碑も確認。石碑には土葬から火葬の風習に改められ、墓地の全面改修を行った趣旨の記載が。裏面には柴生田、青木、内田、小畑、加藤、神田、沢田、清水、関口、長谷部、山下各氏の銘が刻まれていました。

周辺を歩いたら、墓地の東側約100mに立派な西福寺本堂が見えました。
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本堂に入る畑で作業をしているおじいちゃんに話を伺うことができました。
私も歴史が好きなんだけどな、このへんの人は藤原氏の末裔ってことは何度も聞いたことがあるよ。九州から移り住んできたらしいよ。
都幾川の堤防は終戦後にできたんだけど、このへんは意外と高台でな、周囲より8尺(約2.4m)くらい高いんだよ。2km上流で堤防が決壊して、野本の役場はほぼ丸ごと水浸しになったけど、このあたりじゃ台所まで来たか来ないかぐらいだったよ。だから洪水とはあんまり関係ないんだ。
西福寺の住職は柴生田氏でな、多分一番古い家じゃないかな。
20年くらい前だけど、西本宿の寺に移住したよ。こっちは檀家も少ないしな。
戦時中は庫裡が疎開先になってな、東京の偉い画家さんが一家で寺に住んで、そのお礼に残した石碑があるよ。

70年分の貴重な話をありがとうございます。

なるほど、本堂周辺は高台のようで、野本氏館もはっきり見えました。
庫裡も掃除すれば住めるのではないかと思えるほどでした。
遺構は・・・微高台地!?
いや、都幾川の河岸段丘の自然堤防!?

ここが館跡最有力候補地とします。第2候補地を強いて挙げるなら上押垂の泉蔵寺。
野本氏館から至近距離の下押垂を開発した押垂氏は、上流の上押垂へ進出したと考えるのが自然ではないかと思うのですが・・・
西福寺地図はこちら
泉蔵寺地図はこちら
by ckk12850 | 2010-01-11 07:00 | 東松山市【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助