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須賀谷原古戦場(須賀谷原遺跡)

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名称:須賀谷原古戦場(須賀谷原遺跡)
住所:埼玉県比企郡嵐山町菅谷

上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦、享徳の乱と続いた関東の内乱は、山内上杉氏、扇谷上杉氏が「両上杉」と称され、実権を握るようになりました。
扇谷上杉定正は、家宰太田道灌の働きで勢力を拡大しました。
しかし、その勢力を牽制したい山内上杉顕定の謀略によって、太田道灌は主家扇谷上杉定正が誘殺してしまうのです。
古河公方足利成氏との戦いで歩調を合わせた両上杉氏が次第に対立するようになったのは太田道灌死後のことです。
長享2年(1488年)正月、扇谷上杉定正が足利成氏と長尾景春と連合し、対立が一気に深まります。
2月5日、相模実撒原で両軍の戦いがありました。山内上杉顕定が扇谷上杉定正の本拠地糟谷を攻めようとしたためです。川越城から出陣した扇谷上杉定正が勝利します。
6月18日、武蔵須賀谷原(比企郡嵐山町菅谷)で戦いがありました。
定正は養子朝良を出陣させ、顕定は養子憲房を出陣させています。
2回目も足利成氏と長尾景春を味方にした扇谷上杉定正が勝利します。
11月15日、高見原(比企郡小川町高見)で戦いがあり、3回目も扇谷上杉定正が勝利します。
長享2年以来、12年の戦いは決着せず、結果的に小田原北条氏(早雲)の関東進出を許す結果となるのでした。

訪問した場所は長享2年(1488年)、6月18日の主戦場推定地です。
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資料は埼玉県立嵐山史跡の博物館発行の「改訂 歩いて廻る 比企の中世・再発見」です。
平成12年に発掘調査され、鎌倉時代の道路跡、戦国時代の塚2基、墓壙群が発見されています。出土した五輪塔、土器から15世紀後半から16世紀前半にかけての遺跡と判明しています。
土壙墓群の墓域であった場所を片づけて塚を築き、新たに墓を作っていたそうです。
遺跡の年代が須賀谷原の合戦の時期と重なり、遺跡の位置から合戦との関係が推測できるそうです。
現在、出土した五輪塔が堂の中に置かれています。
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堂の位置は周辺の最高地点のようで、菅谷館が眼下に、遠くに平澤寺(太田資康陣跡)が見えました。近い将来、宅地開発により見えなくなってしまうでしょう。
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平澤寺には、太田道灌の子、太田源六郎資康が父の仇敵を討つため山内上杉方として布陣しています。

遺跡付近は鎌倉街道推定地でもあり、大きな合戦があったとしても不思議ではありません。
地図はこちら
by ckk12850 | 2010-01-23 14:30 | 古戦場【歴史観光】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助