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小笠原氏陣屋

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城名:小笠原氏陣屋
別名:―
城主:小笠原太郎左衛門安勝、小笠原氏
住所:埼玉県狭山市沢5丁目34番地・天岑寺
遺構:小笠原家墓所

豊田隼人屋敷訪問の際、新編武蔵風土記稿に「豊田隼人は小笠原摂津守安元に属し、御入国の時、安元は郡内入間川村の地を賜り・・・」の記述が気になって、インターネットで調べたら狭山市のホームページに掲載されていました。

歴代の墓所に陣屋を構える旗本が多いので、天岑寺、または周辺が陣屋の可能性大と判断、訪問してみました。

天岑寺は、田中・峯・沢地区を知行した小笠原太郎左衛門安勝が父小笠原摂津守安元の菩提を弔うために安元の法名である天岑紹恩から「天岑寺」と命名、文禄3年(1594年)に開基した寺です。
かつては朱塗りの七堂伽藍があったそうです。
明治3年の火災で惣門を残し全焼してしまい、寛永年間(1624年~1644年)初期の建造物である沖縄風の惣門は貴重な建造物です。
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本堂の瓦は三階菱!

墓所ですが、本堂の東側にあります。
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知行地が見渡せる最高のロケーションです。

墓所前にも案内板があり、各墓石についても細かく説明されています。
「狭山市指定史跡
旗本小笠原家墓所
所在地 狭山市沢1120番地1
指定年月日 平成18年12月1日
小笠原家は、徳川家康の関東入国に伴い三河国幡豆郡(現愛知県東部)から武蔵国入間郡にやってきた戦国武将小笠原摂津守安勝が初代で、現在の狭山市狭山周辺に領地450石を賜った旗本です。
(略)
墓所には安元から12代にわたる旗本小笠原家一族の石塔43基(宝篋印塔2基、笠付角柱型墓石34基、地蔵1基、板碑型墓石1基、石灯籠4基、手洗石1基)が並んでいます。
幕末の当主は、静岡県牧之原(現島田市周辺)に行き、開拓に従事するなどしたため、12代目以降の当主の墓は牧之原ほかにありますが、15代が昭和12年(1937)に小笠原家を廃家とするまで、小笠原家は初代から347年間続きました。
38基の墓石には全部で49名の戒名が刻んでありますが、男性が23名に対して、女性が26名であり、中には生後2ヵ月で没した娘(晴)の墓石があり、小笠原家の女性や子どもに優しい家風が感じられます。
(略)
平成19年2月
狭山市教育委員会
狭山市文化財保護審議会」
と記されています。

狭山市のホームページより抜粋。
>狭山市史では、寛政重修諸家譜により8代当主まで分かっていましたが、このほど「狭山楽史会」(佐々木恒久代表)による墓石調査、古文書調査等により、当墓所には12代にわたる当主とその婦人を始めとする家族の墓石があることが分かりました。

墓石の調査は、市史の記述を覆すほどの成果だったようで、「狭山楽史会」のお手柄といえるでしょう。

寺の北側は入間川の河岸段丘となっていて、天然の要害です。
東側は緩やかな斜面。西側も緩やかな斜面です。
南側は台地続きです。
本堂、墓所を含めた寺域は、台地北斜面の平場に展開しています。陣屋は、天岑寺の南側の台地最高部にあったと考えるのが自然かもしれません。

陣屋があったかどうかという点も問題ですが、豊田氏のような代官等を派遣、または任命したことは容易に想像できます。
by ckk12850 | 2010-05-12 12:30 | 狭山市【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助