柏原城山砦(柏原城)
2005年 06月 10日
城名:柏原城山砦
別名:柏原城・上杉城・上杉砦
城主:柏原氏・上杉憲政・小田原北条氏
住所:埼玉県狭山市柏原2376番地
遺構:土塁・空堀
別名は柏原城、上杉城ともいいます。研究書によって呼称が異なるようです。何回も通過していた道でしたが、こんな所に城跡があったなんてびっくりです。城跡は、入間川の自然堤防上の崖上に存在しています。
崖下からの探訪は、柏原ニュータウン通り78番地の近辺を西の山に突き当たるまで進入すれば、城山砦跡・狭山市指定文化財史跡入口の看板があります。
崖上からの探訪は、柏原交差点を400m北へ、柏原Y字路を650mほどさらに北へ行くと、右側150mの場所に雑木林が見えるので、すぐに分かることでしょう。
探訪した日は、乾燥した冬の晴れ間の北風の強い日でした。そして、崖上の茶畑から土埃が激しく舞い上がっていました。戦国の頃は開墾されていなかったかもしれませんが、長期間、滞在したいとは思わない場所ではないでしょうか。
歴史を調べてみましょう。
天文14年(1545年)、扇谷上杉朝定、山内上杉憲政、古河公方(関東公方)である足利晴氏は80000名の連合軍を結成、天文6年(1537年)に奪われた小田原北条氏からの川越城奪還を試みました。川後城の守りは3000名。しかし連合軍はなかなか城を落とせませんでした。北条氏康は、8000名の軍勢を従えて三ツ木原(狭山市新狭山3丁目・三ツ木公園)へ布陣します。天文15年(1546年)4月、氏康は山内上杉憲政の本陣である川越市砂窪(川越市砂久保)に奇襲を決行、憲政軍を破りました。また、激戦地の東明寺で扇谷上杉朝定を討ち取りました。山内上杉憲政は上州平井城へ、古河公方足利晴氏も古河へ敗走しました。このことにより、10倍もの敵を打ち破った小田原北条氏の武蔵国の覇権が成立しました。
この城山砦は、
川越夜戦の時、上杉憲政等が陣城として築城したものといわれている
と二の丸にある案内板に書いてありました。
上杉憲政等の「等」が誰なのでしょうか。また、砂久保陣所との関連が説明されていないことが残念です。上杉憲政はどのような動きをしたのでしょうか。諸説ありますので、ここは読者の方の想像にお任せします。
さらに、
平安時代末期の地元豪族である柏原氏の館跡の可能性がある
とも書いてありました。
小田原北条氏の城として利用されていた可能性も捨て切れません。また、付近に新田義貞の砦跡もあるので、今後も研究調査が必要と思われます。
本丸は、高さ20m以上はあろうかと思われる35度以上の急斜面の崖上に設けられ、崖上の防御の弱い部分に土塁と堀が普請されています。
土塁は敵が侵入する隙を与えていません。虎口も南西に厳重に設けられています。
しかし決して広くないような気が。
でも堀の深さは十分です。
本丸は、落葉樹が多いのでしょうか、近所の方が堆肥作り用の落葉を集めておられました。
「これだけの城を造るには大変だったろうなあ。この崖下も城域であったのではないかなあ」
と話されていました。
本丸と二の丸の間には、崖下に下りられる道があり、搦手道に利用された可能性があります。ここには入口の案内板があります。
いずれにせよ、立派な遺構がありながら謎の多い城跡でした。
地図はこちら
by ckk12850
| 2005-06-10 07:00
| 狭山市【城跡】