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砂久保陣場

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城名:砂久保陣場(砂窪陣場)
別名:砂久保陣所
城主:上杉憲政
住所:埼玉県川越市砂久保65番地・稲荷神社
遺構:?

市指定の史跡である砂久保陣場跡は、川越市砂久保65番地、稲荷神社にあります。正確には陣所というべきでしょう。
陣城は、城攻めの時、寄せ手が臨時に築く城のことです。円形または四角形で、周囲に空堀を巡らし、土塁を築き板塀を立てた簡単なものでした。
また、陣所は、陣城と同じ意味ですが、普請されていない(堀や土塁が無い)簡素なものでした。
陣場とは、中世の城館の周囲に見られる地名のことです。小高い平地上に存在しました。練兵場や出城的砦の存在を示します。

案内板には、
「天文15年(1546)のいわゆる川越夜戦の時のことである。
上杉憲政は前年の14年9月末からこの砂久保に陣をとり、8万余騎の兵力をもって川越城を攻めさせた。しかし川越城は北条綱成がわずか3千の兵をもって翌15年4月までよく持ちこたえた。やがて援軍にかけつけた北条氏康の8千の兵は、4月20日の夜半に憲政の陣を急襲して敗走させ、まもなく川越城を救援した。この砂久保は川越城の南西4キロのところにあり、正保頃開墾された村で、この合戦の当時は広漠たる原野に過ぎなかった。
平成元年2月 川越市教育委員会」
と書いてあります。

狭山市柏原城山砦との因果関係が不明であるし、古河公方足利晴氏の陣という説もあります。
上杉憲政は、柏原城山砦(柏原城)か砂久保陣所のどちらにいたのでしょうか。また、足利晴氏はどこに陣構えしていたのでしょうか。

そして、小田原北条方の城と思われる寺尾城の存在はどのような意義があったのでしょうか。寺尾城との距離は、わずか1.5km。川越城の支城であったと思われる寺尾城包囲のための陣構えだったのでしょうか。

なお、激戦地であった東明寺境内は川越城を巡る北方面の戦いであり、この砂久保は南方面の戦いであったといえます。

新編武蔵風土記稿、砂久保村の項に、
「上杉憲政陣所跡。河越夜戦の陣跡。小田原記の砂窪とは、この場所。しかし、具体的な陣の場所、合戦などすべてについて伝わっていない。もともと広野であって新しい村なので、何も伝わらなかったのだろう」
と記されています。

新編武蔵風土記稿を直訳した川越夜戦も参考にどうぞ。

川越夜戦に関する記事の一覧はここをクリックしてください。
by ckk12850 | 2005-08-01 08:56 | 川越市【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助