平野神社(北条氏康陣説)

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名称:平野神社
住所:埼玉県川越市今福

出典は北条五代観光推進協議会が発行した「北条五代外伝 ~ゆかりの地に伝わる逸話~」です。

北条氏康の項で「牛頭天王の霊験」として掲載されています。
川越市にある平野神社の祭神は牛頭天王で北条氏康の建立という。天文年間の合戦中に陣中で病人や使者が続出。氏康が神の御加護を念じて祈った結果、再び活気を取り戻し大勝することができたという。なお、北条の陣はこの神社付近にあったという。

なお、この牛頭天王の霊験は「志村家文書」が根拠とされています。

気になるのは市指定の史跡である砂久保陣場。天文15年(1546年)、川越城攻めの際、上杉憲政、または北条氏康の陣が構えられていたというのですが、距離わずか750m。
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新編武蔵風土記稿には次のように記されています。(意訳)
上杉憲政陣所跡。河越夜戦の陣跡。小田原記の砂窪とは、この場所。しかし、具体的な陣の場所、合戦などすべてについて伝わっていない。もともと広野であって新しい村なので、何も伝わらなかったのだろう。

案内板が設置されていました。
天文15年(1546)のいわゆる川越夜戦の時のことである。
上杉憲政は前年の14年9月末からこの砂久保に陣をとり、8万余騎の兵力をもって川越城を攻めさせた。しかし川越城は北条綱成がわずか3千の兵をもって翌15年4月までよく持ちこたえた。やがて援軍にかけつけた北条氏康の8千の兵は、4月20日の夜半に憲政の陣を急襲して敗走させ、まもなく川越城を救援した。この砂久保は川越城の南西4キロのところにあり、正保頃開墾された村で、この合戦の当時は広漠たる原野に過ぎなかった。
平成元年2月 川越市教育委員会

しかし、平成19年8月以降に設置された新しい案内板は、何と北条氏康の陣になってしまいました。
砂久保陣場跡(市指定・史跡)
砂久保陣場跡は、戦国時代に扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方足利氏の連合軍と小田原北条氏が河越城をめぐり戦ったときに陣が張られた場所です。
関東の戦国時代は、享徳3年(1454)、鎌倉公方足利成氏が関東管領山内上杉憲忠を謀殺した享徳の乱から始まります。成氏は、古河に移り古河公方を称し、山内上杉氏と扇谷上杉氏と対立しますが、この三者はその時々敵味方を換えながら合戦を繰り返していきます。明応2年(1493)、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆の堀越公方を滅ぼし、その子氏綱の代には小田原を拠点に相模、武蔵に進出して両上杉氏と敵対するようになります。
河越城を本城とする扇谷上杉家では、天文6年(1537)、朝興が没し、朝定が跡を継ぐと、乳の遺言に従い勢力挽回を掛けて北条氏を攻めますが反撃され、逆に河越城を失うことになります。その後天文10年(1541)北条氏の代替わりに乗じて朝定は、河越城奪還を企てますが失敗します。
単独で北条を追い払うことができないとみた朝定は、山内上杉憲政と手を結び、氏康がするが今川氏との対戦のために駿河国境に出陣中の隙を衝いて、天文14年(1545)9月26日、河越城に向けて侵攻し、同城を包囲します。北条方の河越城では、北条綱成(氏康の義弟)と、同宗哲(氏康の叔父)が守将を努め、籠城戦を展開します。両上杉氏は、戦いを正当化するために古河公方足利晴氏(妻は氏康の妹)に出陣を懇願し、10月27日に上杉軍に迎えます。こうした状況に対し氏康は、河越城の死守を優先し駿河からの全面撤退と引き換えに今川氏と和睦を成立させ、11月初め頃に小田原に帰陣します。河越城は籠城したまま年を越します。
天文15年(1546)に入ると氏康は、足利晴氏に城兵三千人の助命嘆願をしますが拒否されます。しかし、3月初めに扇谷上杉氏の宿老で岩付城の太田全鑑を離反させ味方に引き入れられたことで、氏康は4月17日に出陣に踏み切り、砂窪(砂久保)に着陣しました。そこで足利晴氏に再度城兵の助命を懇願しますが、取次ぎを拒否されると、4月20日、上杉憲政が氏康陣所の砂窪に攻めかかります。氏康は劣勢を跳ね除け、これを迎撃するとともに、城内からは綱成らも撃って出て、両方面で北条方は勝利します。その結果、上杉憲政は平井城に、足利晴氏は古河に敗走し、扇谷上杉氏は当主の朝定とその重臣難波田善銀が戦死し滅びます。
一般には「河越夜戦」と伝えられ、城兵3千と援軍8千の北条軍が、連合軍八万とも六万五千とも云われる大軍を闇夜に乗じて奇襲し破った合戦とされていますが、兵の数には後世の誇張があり、また実際には奇襲戦ではなく迎撃戦であったようです。
いずれにしろ、この時の合戦によって北条氏の関東支配が優位に展開し始めたという意味では、関東の戦国史を語る上で貴重な合戦であったことは間違いありません。
昭和33年3月6日指定

いつの間に迎撃戦になってしまったのでしょうか。奇襲戦だから勝てたという常識的な考えはどこに!?
平野神社は、どちらの陣だか不明になってしまうのですが、簡単に整理してみます。

歴史人2016年3月号(小和田泰経氏監修・文)は、
北条軍・・・河越城(福島綱成)、武蔵府中(北条氏康軍)
山内上杉軍・・・狭山市柏原
扇谷上杉軍・・・砂久保の陣
足利晴氏軍・・・川越市下老袋

新編武蔵風土記稿は、
北条軍・・・河越城(福島綱成)、狭山市下三ツ木(北条氏康援軍)
山内上杉軍・・・砂久保の陣
扇谷上杉軍・・・河越城の北の方の陣
足利晴氏軍・・・北条氏康の軍勢が小勢と判断できた場所

関東古戦録(関八州古戦録)は、
北条軍・・・河越城(福島綱成)、砂久保(北条氏康援軍)、寺尾(寺尾の住人、諏訪右馬介)
山内上杉軍・・・狭山市柏原
扇谷上杉軍・・・不明
足利晴氏軍・・・河越城兵から攻められた場所

関東古戦録では、河越夜戦は天文7年(1538)という説があるが否定しています。同書が編纂された頃、既に河越夜戦はいつだったのかという混乱が生じていたことを物語っています。
狭山市三ツ木原において北条氏綱と上杉朝定が戦ったもので、北条方が河越城を奪い、朝定は松山城へ逃れた。その後、福島綱成が河越に入った。この年の丙午(1546)4月20日が真説であろう。

志村家文書は、関東古戦録に沿った内容の可能性が高いです。
しかし、関東古戦録には主役であるはずの、扇谷上杉軍が陣を構えた場所の記載がないことが不自然なのです。
もう一つ、寺尾城が無視されて寺尾の住人の記載のみという・・・
地図はこちら
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by ckk12850 | 2016-07-15 07:00 | 古戦場【歴史観光】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助