伊東朝髙館跡

c0051112_219255.jpg

城名:伊東朝髙館跡
別名:―
城主:伊東朝高(伊東八郎左衛門尉)
住所:静岡県伊東市和田
遺構:不明

案内板があります。
当山は弘長元年5月、地頭伊東朝高公が鎌倉幕府の命に依り、伊東に御流罪中の日蓮聖人監視の任にあたっていた。たまたま奇病に罹り命旦夕に迫ったので家老綾部正清氏は主君を救う一念から川奈岩屋に閉居中の聖人を訪れ、病気平癒の御祈祷を哀願した。依って聖人は6月なかば、地頭の館に移られ至心に御祈念、現証の利益を授け給う。公深く妙法の力と聖人の徳に感じ、秘蔵する海中出現の立像釈迦佛を献上した。「これは日蓮末法に法華経を弘め、護らせ給う吉兆なり」と思召され生涯御身からお離しにならなかった。世に之を「随身佛」と称し、宗宝として受け継がれている。
建治元年3月15日朝高公逝去、その菩提のため、翌年2月邸宅一部に堂宇を建立、釈迦佛海中出現の由縁により、海上山佛光寺と定め、朝高公開祖となる。以後法灯連綿として七百有余年、世代継承46、宗門屈指の古刹である。
日陽敬白

六角堂もあり、ここにも案内板があります。
c0051112_2195411.jpg

六角釈迦堂
弘長元年(1261年)5月12日 伊東の地に御流罪の日蓮聖人監視の役にあった地頭伊東朝高公は急病により命旦夕に迫った これを聞いた聖人は法力を御祈祷された すると朝高公の病は拭うがごとく治癒平復された 聖人への御恩報謝の気持として朝高公は金色に輝く立像「釈迦牟尼佛」を献げられた「島流しにされたこの地で本佛釈迦牟尼佛と御対面とはこれこそ国を安んじる一切衆生を救わんが為に法華経を弘めるこの日蓮を守らせ給う為である」と聖人は語られた 爾後聖人はこの像を生涯御身から離されなかった 聖人の没後人々は「随身佛」と呼び日蓮宗の重要な宝物として現在も京都の「本圀寺」に挌護されている この像は聖人が伊東に御流罪の五、六十年前のある日松原海岸の沖合で漁師たちが発見した それは三日三晩異様に輝き誰も懼れて舩を出さなかった この時、伴左衛門という漁師が敢然と小船を出し網を入れこれを引き揚げた そして金色に輝く像を地頭職の伊東家(現在の佛光寺の地)に預けたのである。そして後年、伴左衛門の末裔に當るショーワ商曾創業者の鈴木鶴松が功績を永く傳えたい一念で足掛十年をかけて建立したのがこの六角釈迦堂である
附記
落慶入佛 昭和19年4月8日
材料 総檜造 内部床に総鶯張
内部壁画三枚は勝田焦琴画伯 「乳粥供養」の絵 梵字はチベット学者 川口恵海筆

六角釈迦堂の案内板は「、」と「。」がたった1つ。読みづらいです。
内容については、読めば読むほど謎が深まってしまいました。

伊東氏の館跡は、伊東市役所隣りの物見塚公園説が有力です。伊東祐親の銅像があります。
c0051112_21102345.jpg

記念碑に詳細が記されています。

物見塚公園
伝伊東家館跡と物見の松
伊東を発祥の地として全国に広がった伊東氏は、平安時代末期に、ここに住みついた藤原南家工藤氏に始まるといわれます。曽我兄弟の祖父伊東祐親の二代前、伊東家次が初代と考えられています。伊東家は、以後鎌倉時代をへて戦国時代末期まで長い間この地とかかわりがあったので、伊東家館跡の伝承地は幾つかあります。
この高台の一角にある物見塚に、物見の松と伝承される老松があり、この場所があり、の場所は伊東家館跡と伝承されて来ました。現在は物見塚公園となり、馬上姿の伊東祐親像が置かれています。永くその姿を誇ってきた物見の松は、昭和五十七年に枯死し、現在はその塚の上に小さな三代目の松が植えられています。
この高台のふもとにある仏光寺も、鎌倉時代の伊東の地頭であった伊東八郎左衛門尉の屋敷跡と伝承されています。
地図はこちら
[PR]
by ckk12850 | 2017-04-01 07:00 | 日本全国【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助