源範頼墓(修善寺)

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名称:源範頼墓(修善寺)
住所:静岡県伊豆の国市修善寺

埼玉県には源範頼伝説があります。
居館があったとされる源範頼館
稚児層のときに育ったという吉見観音
居館と墓があるとされる石戸堀の内(東光寺)

神奈川県横浜市金沢区の太寧寺には源範頼の墓、位牌、肖像画が残ります。
横浜市地域史跡
伝源範頼の墓
平成6年11月1日登録
所有者 宗教法人太寧寺
所在地 金沢区片吹181番地2号
鎌倉初期の武将源範頼は、源義朝の六男で、源頼朝の弟です。範頼は義経と同様に兄頼朝に疑われ、伊豆修禅寺に幽閉され、梶原景時らの討手を受け最期を遂げたことになっていますが、太寧寺の寺伝では鉈切まで逃れて、海に向いて建つ太寧寺へ入って自害したとされます。
太寧寺は、はじめ瀬ヶ崎172番地(現、関東学院大学付属小学校々地内)にありましたが、昭和18年、追浜飛行場拡張工事のため、現在地に移転し、裏山にあった伝源範頼の墓も、これに伴い移転しました。
また、太寧寺の名は範頼の法名「太寧寺殿道悟大禅定門」から付けられたもので、当寺には範頼公の位牌や画像などが寺宝として遺されています。
平成7年3月
横浜市教育委員会

そして大本命が修善寺にある源範頼の墓です。
墓は「茶庵 芙蓉」を目指します。小高い場所にあります。墓は塚になっているという資料がありましたが・・・妙に新しい墓石が。
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案内板もあります。この案内板、何と6か国語です。さすが、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン2つ星の観光地です。
源範頼の墓
範頼は鎌倉初期の武将。源義朝の第六子で蒲冠者と呼ばれた。治承4年(1180年)に兄頼朝と義仲が対立した時、弟義経と共に義仲を倒し、次いで一の谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が義経討伐を命じたが断ったため、頼朝から疑われるようになった。
建久4年(1193年)の曽我兄弟仇討の際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。範頼は百方陳弁に努めたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で自害したと伝えられている。

歩いて訪問できる場所ですが、修善寺界隈では一番奥に位置するため、1組の観光客と遭遇しただけでした。
源範頼の墓の地図はこちら

続いて、修禅寺の東側にある日枝神社へ。
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信功院跡の庚申塔があります。
ここは修禅寺の隣。数人の観光客がいましたが、信功院跡と気付かず、神社に来ました感でした。
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目立ちませんが、案内板もあります。
信功院跡
修禅寺の八塔司の一つであった信功院のあった所です。
建久4(1193年)、源範頼は兄である頼朝の誤解により、この信功院に幽閉されました。翌年、梶原景時率いる五百騎の不意打ちに合い、範頼は防戦の末に自害したといわれています。
信功院は後に庚申堂となり、今は文政元(1818)年建立の庚申塔が1基残っています。
平成27年10月 伊豆市教育委員会
しかし・・・五百騎の不意打ちとは!
日枝神社内信功院の地図はこちら
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by ckk12850 | 2017-05-01 07:00 | 古墳・墓【歴史観光】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助