才車の堰

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名称:才車の堰
住所:埼玉県入間郡越生町小杉

小杉の建康寺は、太田道真退隠の地として有名です。案内板によれば通称自得軒。
しかし、自得軒の所在地は、新編武蔵風土記稿では龍穏寺近くの三枝庵としています。
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新編武蔵風土記稿、入間郡小杉村の項には次のように記されています。(意訳)

太田道灌邸跡、今は田園となり一段四畝ほどの地にして、建康寺の傍らにあり、小字を陣屋と呼び、道灌の別邸だろうか。ある書物では道真が小杉に隠居し、明応元年2月2日、82歳で死去したといい、道灌ではなく、道真の邸(屋敷)跡ではなかろうか。

自得軒と自得軒砦という考え方もありますが、いつの間にか山中にあった自得軒が山を下りてしまったのではないかと思えるほど不自然ではあります。

「太田道真実退隠の地」である建康寺に案内板があります。
建康寺
越生町小杉
関東管領上杉家一族の扇谷上杉氏の家宰として、関東にその名を馳せた名将太田道真は、息子の道灌とともに江戸城、岩付城、川越城を築いたのち、越生に本拠を移した。ここ大字小杉字陣屋付近が、道真の居館自得軒の跡地と推定され、「太田道真退隠地」として埼玉県の旧跡に指定されている。
文明18年(1486)6月、道灌は友人万里集九ととも道真を訪ねた。万里の詩文集「梅花無尽蔵」に、その折に詠じた次の七絶が収められている。
稀郭公(ほととぎす稀なり)
縦有千声尚合稀(縦え千声ありと云えども尚合ふは稀なり)
況今一度隔枝飛(況や今一度枝を隔てて飛ぶをや)
誰知残夏似初夏(誰か知らん残夏初夏に似たるを)
細雨山中聴末帰(細雨山中にきいて未だ帰らず)
翌7月、道灌は相模国糟屋(神奈川県伊勢原市)で主君上杉定正に謀殺され、自得軒が父子最後の対面の場となった。道真は道灌の菩提を弔うため越生山建康寺を開いたという。
門前に架かる道灌橋の対岸には、道灌が調馬した馬場があったと伝わる。また、堀と導水路の跡が遺る水車「才車」の「才」は城塞(城砦)の塞(砦)に由来するとの説もある。
平成25年3月
越生町教育委員会

つまり「才車の堰」の名称は、太田道真、道灌のいずれかに由来していると。
少し強引な気もしますが・・・
建康寺の前を流れる越辺川を下流に歩けば、「才車の堰」の案内板があります。

才車の堰
才車は、明和5年(1768)に本山派修験山本坊らの配下の宝鏡院が創業した、現在判明している限りでは、越生で最初の営業用水車である。明治時代に、小林家に屋号「才車」とともに譲られ、精米・精麦・製粉のほか、水力製板機を設置して製材も行っていた。
越辺川とその支流には、大小多くの水車があり、紡織、繭の乾燥、線香製造、発電など、さまざまな用途に利用されていた。戦後、ほとんどが廃業したが、才車は昭和四十年代まで営業を続けた。流れを堰き止めた石垣から伸びる水路が、往時を伝えている。
水取入口の岩上には、明治4年(1871)建立の、菅原道真の歌を刻んだ、宝鏡院の末裔で手習の師匠だった鷹嶋桂(梅山)の顕彰碑が建っている。その傍らの「水天宮」の碑は、越辺川西部水車組合が建てたものである。
平成28年3月
越生町教育委員会
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by ckk12850 | 2017-06-01 07:00

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助