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甲府東光寺

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名称:甲府東光寺

法蓋山東光寺が正しい名称で、甲府五山のうち、第二の臨済宗の寺院です。
開山は鎌倉時代の蘭渓道隆によるものです。
有名な重要文化財の仏殿は、室町時代の頃の建築といわれ、織田信長の兵火を逃れ、昭和20年の空襲も逃れた仏殿です。
桁行3間、梁間3間、もこし付き、入母屋の桧皮葺の屋根は落ち着いた均整のとれた形です。

さて、この寺は悲しい歴史があります。
武田信玄の妹婿であった、諏訪頼重が自刃した場所といわれています。
諏訪侵攻によって武田信玄と和睦したつもりが、実際は降伏だったということに気が付かなかったのです。
「酒と肴を持って参れ」
と命じた諏訪頼重に、信玄の使者は、
「寺ゆえに、肴はありませぬ」
と答えると、すかさず頼重は、
「武田の者は何も知らぬ。肴とは脇差のことだ。ありふれたものではなく、私の名のある脇差を持って参れ」
と言ったとか。
おのずから 枯れ果てにけり 草の葉の 主あらばこそ 又も結ばめ
この辞世どおり、諏訪家はやがて江戸時代に再興したのでした。

そして武田信玄の嫡男、武田太郎義信が自刃したとも病死したとも伝えられる場所といわれています。
原因は駿河国への侵攻をめくっての対立とされています。どの史料にも記されていないので、あくまで推測だそうです。今川義元の戦死によって、駿河侵攻を決意した信玄。今川家から嫁をもらい反対した義信。義信は偉大な父よりカミサンに味方したのです。
甲陽軍艦では、信玄の正当性を主張するためでしょうか。原因は永禄4年の川中島の戦いのとき、義信が父信玄の戦術を非難したことで、次第に疎遠になったとか。義信は利口な武将なので、こんなことになったのだと記されています。

クーデターも企てたようですが発覚、この寺に幽閉されたのでした。
義信亡き後、諏訪家を継いでいた四郎勝頼が武田氏当主となりましたが、義信が武田家を継いでいたら・・・そんな思いがしてしまうのです。
by ckk12850 | 2005-09-26 22:09 | 神社仏閣【歴史観光】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助