松山城

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城名:松山城
別名:白米城・流川城・武州松山城・武蔵松山城
城主:上田氏・他
住所:埼玉県比企郡吉見町南吉見他
遺構:土塁・空堀

国道407号線を走ると、吉見百穴の案内標識が見えます。
目印は吉見百穴です。駐車場も無料なので、ここに車を止めて松山城探訪もできます。本当に目の前、徒歩1分です。

ちなみに吉見百穴は入場料が300円ですが、資料館があり、松山城の歴史や模型を見ることができます。

さて、松山城は、吉見丘陵の先端に築かれた山城で、東西南の三方が市野川流域の沼湿地となっていて、規模は20万坪とも30万坪とも伝えられます。
城跡は、戦国時代の様子を現代にそのまま伝え、貴重な遺構といえます。
市野川に突き出た部分から、本丸、二の丸、春日丸、三の丸と、南西から北東に一直線に構えており、その両側に多くの郭、平場を設けています。
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各郭は木橋によって連絡されていたと思われますが、広大な城跡も太平洋戦争の折、一部破壊され、市野川の流れも変更される等、残念な一面もあります。

木橋で連絡されていない現在、各郭を探訪するには、深い堀に下り、また土塁を登る行動が必要です。一苦労です。
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城の虎口であり、松山松山城風流歌合戦の舞台となった場所と伝わる岩室観音堂よりも、
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県道沿いにある入口からの探訪がよろしいと思います。
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時間があれば岩室観音堂を北に進み、城の東側の大手口から訪問しても良いでしょう。三の丸、春日丸、二の丸、本丸の順に訪問することが可能です。
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築城は不明ですが、室町時代初期の新田義貞の陣営説、その後、応永年間初期(1399年頃)の上田左衛門尉友直説があります。
いずれにしても上杉氏家臣の吉見氏の一族、上田左衛門尉友直が東秩父の御堂(安戸城)から進出した説が強いようです。上田氏は、源範頼の子孫ともいわれています。
この城は、戦国大名の注目の的であり、上杉謙信、武田信玄、北条氏綱、北条氏康も城攻めを敢行しています。これだけの戦国スターが攻めた城は稀でしょう。

天文6年(1537年)、小田原の北条氏綱の関東進出により、川越城を支えることができなくなった扇谷上杉朝興の子、朝定は同年7月15日、難波田弾正憲重の守る松山城に逃げ込みました。
このとき、攻める北条氏綱方の山中主膳が、
「あしからじ よかれとてこそ戦はめ 何か難波の浦くずれゆく」
と詠むと、すかさず難波田弾正は、
「君をおきて 仇し心を我もたば 末の松山波もこえなん」
と古今集の歌を詠んで返しました。有名な松山城風流歌合戦です。
天文15年(1546年)、川越夜戦において、扇谷上杉氏は滅亡し、松山城は北条方の城となります。
永禄4年(1561年)、上杉謙信が、北条方の上田朝直守る松山城を攻め、一旦は落城します。
しかし、武田信玄と北条氏康、氏政の連合軍は再度松山城を奪い返し、北条方の城となります。この時、武田軍の金堀り人足が、トンネルを掘って城攻めをした話は有名ですね。
つかの間の上田氏の安定した地位が確立されたのです。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、前田利家、上杉景勝らの軍勢に攻められ落城。時の城主上田憲定は、故郷の東秩父、御堂の浄蓮寺に戻ったと伝えられます。
徳川家康の関東入国後、家臣の松平家広は1万石の城主として入城しましたが、慶長6年(1601年)、移封に伴い廃城となりました。

設置されている案内板で最も詳しく解説されているのは本郭の案内板です。
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物見台とも思われる場所に石碑もあります。
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「県指定史跡 松山城跡
大正13年3月31日指定
松山城は吉見丘陵の先端に築かれた山城で東南西の三方が、市の川の流域の沼湿地となっていて、自然の要害の場所にありました。今でも土塁や空堀が山林の中に残っています。
城の規模は大きかったらしく、20万坪(66.7ヘクタール)とも30万坪(100ヘクタール)ともいわれています。
戦国時代における、この城をめぐる攻防は、まことにめまぐるしく、かつ激しかったようです。というのは、川越や鎌倉方面と鉢形から上州(群馬県)方面へ通じる要衝の地にあり、各武将ともこの地を重視したため、絶えず争奪戦が繰りかえされました。
この城が築かれたのは、応永年間だという説がありますが、正確には15世紀の半ばで扇谷上杉氏と古河公方対立の状勢のうちに形成されてとみるべきでしょう。
それから百数十年、度重なる関東の戦乱の中で数度の築造と改造が行なわれ、何度か城主がかわりましたが、主な者は上田氏で天正10年(1582年)に没した上田朝直が有名であります。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、前田利家、上杉景勝らの軍勢に囲まれて落城いたしました。その後、慶長6年(1601年)徳川家康の一族、城主松平忠頼が遠州浜松城に移封され廃城となりました。
現在山頂(物見櫓跡)には、松山城跡の石碑があり、合戦の激しかった往事を偲ばせてくれます。
昭和58年2月
埼玉県教育委員会
吉見町教育委員会」
と記されています。

当時の城下町である松本町、本町、新宿町の眺めも良好です。
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いくつかの案内板と異なる年代、名前がありますので、間違い探し(真実探し)をするのも楽しいかと・・・
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by ckk12850 | 2005-12-04 19:16 | 比企郡吉見町【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助