田波目城(多和目城)
2006年 02月 01日
城名:田波目城
別名:多和目城・大崖の城
城主:宿谷氏?
住所:埼玉県坂戸市多和目
遺構:土塁・空堀・高麗川
標高113.4m。坂戸市内最高所です。
狭山市の長谷川家に残る江戸時代に書かれた記録では、「大かけ(崖)の城」と呼ばれ、川越城主が攻めたと記されています。
この城については謎が多いので、このブログのライフログにも掲載させて頂いています、中田正光氏の著書「埼玉の古城址」から一部引用しました。
地名は多和目なのですが、城名だけ日高市にある田波目???
どちらでもいいのですが、なぜだろう。
一説に小田原北条氏家臣、宿谷氏の城ではないかというものです。
宿谷氏は児玉党であり、鎌倉時代、室町時代に毛呂山町葛貫の宿谷氏館を拠点としていたと思われる豪族です。
この城の麓に曹洞宗永源寺があり、天文15年に宿谷重近が開祖したと伝わるから。説得力があるような、無いような。
この寺は、城山小学校と城山中学校を結ぶ道の中間にあり、城の東麓にあります。
地元の方によれば、宿谷氏の墓地が城の西側にあるそうです。また、西へ向かう尾根道によって宿谷の地と繋がっていたとのことです。大手口は西側に構えられていた可能性があります。
いずれにせよ川越夜戦の時、宿谷氏は、上杉氏か、小田原北条氏のどちらかに味方すべきか悩んでいたようで、北条軍優勢とみて重近の息子重吉を北条軍として参加させたようです。地元豪族は、このようにして生き延びるしか手段が無かったのですね。
その後、周辺の豪族、毛呂氏と共に小田原北条氏の家臣として仕えたそうですが、1590年、豊臣秀吉による小田原城成敗の時、宿谷重利は八王子城に詰め、城内で討死したそうです。なお、田波目城主であった宿谷本重は小田原城に籠城していましたが、小田原城が開城した際に故郷の宿谷の地(毛呂山町宿谷)に戻り、田波目城も廃城となったそうです。
現在、郭の一部が残存していますが、はっきり分かりません。
本郭推定地も配水場です。
それから西坂戸団地の4丁目公園付近から城跡へ行けますが、軽くパスしてよろしいかと・・・
過去3回以上訪問しましたが、やっぱり高麗川の対岸から見る城跡が一番絵になると思うのですが・・・
by ckk12850
| 2006-02-01 07:00
| 坂戸市【城跡】