関東古戦録の河越夜戦

関東古戦録は、俗に関八州古戦録ともいわれ、江戸時代の享保年間、1726年に成立しました。史料的価値が低いとされながらも、合戦の記録としては物語調になっており、読み物として十分に楽しませてくれます。
また、個々の武将のエピソード等が紹介され、人物像を探ることができます。
江戸時代後期成立、新編武蔵風土記稿の川越夜戦の概要は、「関東古戦録」からも引用したと記しています。
川越夜戦については、真偽を含め実際にあった夜戦かどうかも疑問視する研究家がいますが、この本を読むと、まったくの作り話とは思えないのです。

問題点は、本来自分の城であった川越城奪還の主役であるはずの扇谷上杉朝定の記述がほとんどないことといえましょう。
もう1つ、山内上杉憲政の陣跡と伝わる砂久保陣場(陣所)は、北条方の陣のように描写されています。どちらの軍の、どの武将の陣所だったのでしょうか。

しかし、ちょっとした歴史小説より読み応えがあります。
実は、この原本を読んでみたいと思っていたところ、訳本が出版されていることが分かりました。しかもブックオフで偶然見つけた本です。
著者:槙島昭武、訳者:久保田順一、発行所:あかぎ出版による「関東古戦録(上巻)」です。
この河越夜戦の部分に管理人が加除、注釈をしたものです。

・戦国大名小田原北条氏の台頭
伊豆の韮山城主である北条早雲庵宗瑞は、低い身分の出身だったが武勇に優れていた。(いまだ北条早雲の出自について様々な説があります)
1495年に大森式部小輔氏頼の子、筑前守実頼が隠居場としていた相模足下郡湯坂峠の城を落とし、1498年には佐奈田表で大森一族を討ち、小田原城を手中にした。
さらに領国を広げようとしたが、1519年、88歳で伊豆の韮山城で没した。

2代目の北条氏綱は1524年、扇谷上杉朝良の子、朝興と武蔵野で戦ってこれを破り、江戸城を攻略し、遠山四郎左衛門を城代とした。
1537年(または1538年)、7月11日、三木(狭山市新狭山3丁目、三ツ木公園でしょう)の激戦で川越城を奪った。
このとき、扇谷上杉朝興の弟、左近大夫朝成も生け捕られ、朝興の子、朝定は松山城に逃げ込みざるを得なくなった。

川越城は、扇谷上杉朝興没落後、小田原北条氏のものとなり、福島左衛門大夫綱成が城代となって守った。氏綱の覚えめでたい綱成は、氏康の妹婿に望まれ、北条一門となった。
綱成は、戦場で使う指物は、朽葉色に染めた練絹に八幡と墨書きしたものを用い、諸人に先駆けて進み「勝つ」と声を掛けて勇気を鼓舞した。人々はこれを「地黄八幡」といった。

・山内上杉憲政、古河公方足利晴氏、川越城へ出陣
ところで、駿河長窪(長久保)城は、今川の城であったが、今は北条氏が奪い、氏綱の弟葛山長綱(幻庵)が守っていた。今川義元は奪回を考え、上野平井城の山内上杉憲政に使者を送り同盟を結んだ。
義元は、駿河、遠江の軍勢を率いて1545年(一説には1543年)長窪城を攻めた。
氏康は援軍を送ろうとしていたところ、山内上杉憲政、扇谷上杉朝定は、上野、下野、北武蔵、常陸、下総から65000の軍勢を集め、平井城を出発した。まず、川越の城を落とし、長窪に向かおうとして、9月26日には入間郡狭山柏原(狭山市柏原2376番地、柏原城山砦でしょう)に進み、川越城を取り囲んだ。
上杉方の武将は、武蔵野平野に城戸を設け、家ごとに陣を並べ、旗や陣幕を張り、その様子は星が連なるようで人々を驚かせた。写真は柏原城山砦遠景。
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川越城主福島綱成と、副将、朝倉能登守、師岡(もろおか)山城守ら3000の兵は、命を捨て防戦に努め、屈する気配を見せなかった。
川越城危急の報に接した氏康は、長窪への出陣を見合わせ、武蔵出陣を検討したが、病のため延期となり対応に苦慮していた。

ここで、古河公方(関東公方)である足利晴氏は、山内上杉憲政に使者を送り、講和を勧めた。しかし山内上杉憲政は、紀州高野山の僧芳春院を足利晴氏に派遣し、次のように言った。
「この度、足利晴氏様に援助を頂いて氏康を攻めるのは北条一族を全滅させ、晴氏様を鎌倉にお迎えし、当家(上杉家)も昔のように管領職に復し、君臣共に栄えるためです。今を逃しては復活の機会はありません」
これを聞いて足利晴氏は、上杉は代々の旧臣、北条氏康は妻の実家で、どちらを取るか決めかねた。足利晴氏の動揺を知った北条氏康は、足利晴氏に使者を送り、
「両上杉家(扇谷、山内)が言ったことに惑わされてはなりません。北条氏康は、縁続きです。足利晴氏様に少しの野心もありません。どうして北条家に憤りの気持ちを持たれたのでしょうか。今度の戦いでは、どちらが勝っても公方としての政道を左右しかねず、国家安泰のためには一方に味方するのはよろしくない。よく考えてください」
と言上させた。
小田原北条氏の使者が、細かく説明したため、足利晴氏も納得してしまったのだろう。山内上杉憲政への加勢の話は止まった。

これに対し、難波田弾正左衛門、小野因幡守は足利晴氏に言上した。
「今回の北条氏康の申し入れは再考してください。関東管領上杉家は、初代足利基氏様以来の家臣であり、上杉家に代わるものはいません。小田原北条氏は一時縁組したとはいえ、北条早雲以来、その本心は足利家を傾けようとするものです。北条氏康は、山内上杉憲政との戦いに権威を借りたいのです。上杉家が滅亡すれば、足利家の威光は失われます。どうか考え直してください」
足利晴氏は、再三の諫言により上杉家の援助を決断し、10月27日、20000余騎で古河から川越に出陣した。
川越では山内上杉憲政は兵糧攻めを進め、長陣となっていた。

北条方は相模の風間小太郎の配下、二曲輪猪助という忍び(忍者)を柏原に入れて上杉方の陣を通報させていた。
やがて猪助の動きは露呈し、扇谷上杉氏の手の者が彼らを襲った。猪助はとっさに逃れたが、追っ手の中に太田犬之助という足の早い者が、20kmあまり追いかけてきた。猪助は、手柄、高名は必要ない。命が大切とひたすら逃げた。
疲れ切って、ここまでと思ったとき、海辺の農家に馬が繋がれて草を食べていた。天の助けとばかりに馬の手綱を太刀で切り、小田原に駆け込み命を全うした。
この日、何者の仕業か扇谷上杉の陣の前に落首があった。
「駆け出され 逃れたる猪助 ひきょう者 よくも太田か 犬之助かな」

・川越城内の窮状と北条氏康の出陣
1546年の春となった。
川越城は、兵糧を断たれて苦しくなってきた。北条方は、援軍によって城兵を救おうと策を練ったが、北条氏康は奇策を考えた。その奇策を成功させるため、大軍に囲まれた川越城の中に北条氏康の命令をどのように伝えるか評議したとき、福島伊賀守勝広が進み出て申し出た。
「話を聞くと、危急の時を迎えました。もし使者が敵の捕虜となって、拷問によって自白し、この策が敵に知れたら味方の損害は大きい。そうは言っても城中にこの策を知らせないと、城を明け渡してしまうか、討ち出て切り死にするか、援軍が到着して打ち出るか、飢えのあまり何もできないか、いずれかでしょう。
私は命を投げ打って城中に駆け入り、秘策を伝えます。もし、運が尽きて捕らえ拷問を受けても、弓矢八幡にも照覧あれ、決して白状しません。これは幼いときから受けた主君の恩に報いるため、また、兄の綱成に運を添える気持ちから出たもので、心からの気持ちです。他人には任せられません」
福島勝広は、福島兵庫頭が甲斐西部で討死した時、家臣の養育によって兄の綱成とともに小田原に行き、出世頭となった。
北条氏康は、しばらく答えなかったが、少し考えて言った。
「お前の望みに任せ、川越城に遣わす。生涯の働きはこのときである。才覚によって無事城内に入って欲しい」
北条氏康は、涙を流し、盃を与えた。福島勝広は26歳、もともと美男であったが、武勇は兄の綱成に少しも劣らなかった。
福島勝広は、忍びを招き、敵の合言葉を確かめた。腹巻の上に直垂を着て川越に向かった。敵陣の近くで家臣を小田原に帰らせ、一騎で敵陣を通り抜け城門に到着した。軍神が忠義に感じて加護したのであろうか。数万の敵は、誰も怪しまなかった。写真は当時の大手門推定地。
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北条綱成配下の木村平蔵が城内の柵の内側から見つけ、城戸を開いて迎え入れた。北条綱成がすぐに対面し、策略の手段を聞き、北条氏康の命を城兵に伝えた。城内は沸き返り、兵は意気揚々として元気を取り戻した。

異説に、川越夜戦は北条氏康24歳の1537年7月15日のことという。福島勝広も弁千代丸と称し小姓であった。
1537年の戦いは、三木(狭山市新狭山3丁目の三ツ木公園でしょう)の扇谷上杉家と北条氏綱の戦いで、北条方が勝利し、川越城を奪い、扇谷上杉朝定は松山城に逃れた。その後、福島綱成が川越に入った。1546年4月20日が真説だろう。
それならば、弁千代丸の年齢や、その父の兵庫頭が1521年に討死したことに矛盾はない。
(合戦は2回あったと説明したいのでしょう。逆に言えば1537年河越夜戦説が執筆時にあったことが想像されます)

さて、北条氏康は、小田原の留守はいうまでもなく韮山、長窪、三崎、荏柄等の要害に500、300、100、200騎の人数を振り分け、不慮の事態を万全にして1546年4月1日、8000余騎を率いて武蔵入間川の辺、砂窪(川越市砂久保65番地、稲荷神社でしょう)に出陣した。写真は現在の砂久保。
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敵陣を見ると公方、両管領家に属する軍勢は86000余騎、足の踏み場もなく野山に充満した。
しかし、北条氏康は、大軍を恐れず小敵を侮らなかった、中国の光武帝の度量を持つ良将であったので、少しも恐れず、
「戦は軍勢の多少によらず、上杉方の武将の手並は知り尽くしている。すぐに一戦して勝利すべし」
と、士卒を励ました。

まず、計略の1つとして、古河公方(関東公方)足利晴氏を混乱させようと、配下の多賀谷下総守家重に使者を送り、北条氏康の内意を伝えたところ拒否された。次に武蔵寺尾の住人(寺尾城主と思われます)諏訪右馬介を仲介して、小田氏治の陣代を務める常陸突倉城主、菅谷隠岐守を通し、足利晴氏に言上した。
「川越城に籠城している家臣はどうして良いか分かりません。慈悲をもって助命あれば、城を明け渡します。主君氏康は家臣の礼をとって忠節に励みます」
と伝え、山内上杉憲政にも使者を送った。
「公方が許してくれれば、氏康も山内上杉憲政と足利晴氏様に尽くし、関東は丸く治まるでしょう」
これに対し、両家は承知しなかった。
「北条氏康の申し入れに耳を貸すな。足を留めさせるな」
と城を囲んだ兵から、成田、荻谷、木部、白倉、上原、倉賀野、和田、難波田、大胡、山上、那波、彦部ら20000ばかりに城攻めの包囲を解いて、北条方の砂窪を攻めた。
(砂久保は、古河公方、扇谷上杉、山内上杉の連合軍の陣所と伝わります。なぜ北条方の陣になっているのでしょうか?)
これを見た北条方は、武蔵府中へ退いた。山内上杉憲政は、刀に血を塗らず敵を蹴散らしたことに満足し、笑い罵った。
「北条氏康は臆病だ。後詰めに来ておきながら、何もできず、合戦もせずに恐れ、鬨の声を出して逃げた。言語道断だ」
北条氏康は、その噂を聞いたが、知らぬ顔で再び砂窪に出陣した。上杉方は、好機とばかり、また攻め込んだ。北条方は、再度武蔵府中へ退却した。

この時、山内上杉憲政に戦略の策があれば、川越城を囲む兵を引き上げ、10000を狭山柏原の攻め口に残し、川越城中から打ち出てくる者があれば、横から突いて攻め散らし、城中へ攻め入れと命じておき、70000の軍勢は北条氏康を追って武蔵府中を攻め、さらに本拠地小田原まで押し寄せれば、勝利は疑いないものであった。
そうでなくても、公方(足利家)、管領(上杉家)の旗が揃っているのだから、80000を二手に分け、一手は入間川端に竪陣を敷き、北条氏康が来たならば一気に討ち果たす形を見せ、一手は城に向かって攻めれば、小田原北条氏は滅亡していたはずである。

足利晴氏は暗愚な武将で、山内上杉憲政は考えが幼稚である。上杉方は、東国の面々が集まって威勢は良いが、小田原北条氏を侮り、これ以上の力を奪う必要がない。攻め返して来たら、一兵も残さず根切りにして凱旋しようとしていた。
北条氏康は、この間、笠原越前守を間者として用い、敵の陣中に入れ、様々な噂を詳しく聞き、迷いを捨て戦いを決めた。
「勝利の時が来た。者ども、攻めよ」
と再び砂窪に向け出陣した。

・川越(河越)夜戦始まる
時は1546年(天文15年)、卯月(4月)20日、宵闇の月が山の端に差し登る頃、空は曇って薄暗い中、北条氏康は8000余騎を4つに分け、1つ目は遊軍として多米大膳亮に預け、戦いが終わるまで見物して見守り、備えを乱すなと命じ、残り3つは戦いに向け、その1つ目は先陣として突き進み駆け抜ける、その2つ目は進み乱れる敵を切り巻き駆け通り、1つ目と2つ目の軍は、3つ目が攻めるのを見て、引き返して鬨を上げ、縦横無尽に敵を切り崩す。
夜戦なので深追いはしない、敵の首は大将以外討ち捨てにする、味方の印は白なので、たとえ敵と見受けても白物を着た者は討つな、もし敵を切り倒した時も、味方から引き上げの法螺貝が吹かれれば捨て置き1か所に集合せよ、と軍律を厳しく命じた。
また、甲冑や鎧をやめ、合言葉を決め、松明を手に持ち、柏原の上杉陣に子の刻(午後11時)頃、鬨の声を上げて攻めかかった。

上杉方は、油断していたので慌て、刀、槍を探しているところに北条軍が隙間なく駆け入り刀を振り回した。同士討ちする者、裸で迷う者も多かった。北条氏康自身も長刀を取って勇猛果敢に戦い、14人をなぎ倒した。大将がこの有様で、清水、小笠原、諏訪、橋元、大藤、荒川、大道寺、石巻、富永、芳賀、内藤以下の勇士が十文字や巴の字のように動き、攻め立てた。
この猛攻によって上杉方の旗本は乱れ崩れた。
扇谷上杉朝定も討たれ、難波田弾正左衛門は灯明寺(川越市志多町13番地1、東明寺)の朽ちた井戸に落ち落命した。
その他、倉賀野三河守、本庄藤九郎、難波田隼人正、本間近江守、小野因幡守以下、34名の武将は、大将山内上杉憲政を逃そうと踏み留まって奮戦したが、雑兵に切り伏せられた。その隙に上州平井城に敗走した。
北条方は、勢いにのって追いかけまくり、討ち取った者の数は計り知れない。このとき、多米大膳亮が法螺貝を吹き、全員を前に進めながら1000人を丸く密集させ、周囲に注意をし、北条氏康の旗本を守りながら勝鬨の声を上げた。また、彼は北条氏康を諌め、
「敵の敗北ははっきりしましたが、彼らも恥を知る東国武士です。もし兵を押し戻すことがあれば、疲れた味方は抵抗できません。勝って兜の緒をしめよという言葉もあります。夜が明けたら、新手を先陣にし、もう1度合戦を行なうべきでしょう」
と言い、芝の上に旗本を休め、夜を明かした。

このとき、城中の福島綱成は、敵の旗指物がなびき、裸馬が東西に逃げ去るのを城の櫓の上から見て、味方の勝利を知った。写真は本丸櫓から城下町を見た光景。
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福島綱成は、運を開くのはこの時だと、城門を開いて例の黄八幡の旗を翻して、
「勝った、勝った」
と叫びながら馬に乗って駆け出した。付き従う3000余騎も全力で喚声を上げ駆け出し、足利晴氏の陣所に討ちかかった。
足利軍は、上杉の陣に夜討ちがあると考え、北条氏康の軍に向けて待機していたが、思いもよらず明け方に城中から攻められたので、狼狽のあまり支えることができず、右往左往するばかりであった。梁田、一色、結城、相馬、原、菅谷、和知、二階堂らは、足利晴氏を先に逃したが、散々に討たれ敗走した。
綱成は、深追いせず、速やかに城内へ引き返した。

今夜の戦いで、古河公方家と上杉家の戦死者は13000余という。
戦いの後、北条氏康は、福島綱成を招き、籠城の労をねぎらった。
「何度も死のうと思ったが、生きて会えて嬉しい。お前の忠義はありがたい。また、弟伊賀守も命を投げ打って働いた。神仏の助けがなければ、今度の結果はなかったであろう。これは、お前たちの忠義の賜物である」
と何度も何度も感謝した。綱成兄弟は面目を施し、謹んで答え、また城に戻った。

後日、山内上杉憲政の旗本の桑木八郎は、次の感状を得た。
「一昨日20日、武州において河越合戦の時、首一つを討ち取る高名、感激である。いよいよ軍忠を励んで欲しい。以上。1546年4月22日 憲政印 桑木八郎殿(現代訳しました)」
これを見聞きした人々は眉をひそめて言った。
「80000あまりの大軍で、わずか8000の小敵に追い散らされた前代未聞の大敗なのに、どんな理由があって桑木1人がこのような感状をもらったのか。面白いことだ」
これにより「上杉の感状」と言って、関東の諸家ではいい物笑いの種になった。

著者:槙島昭武、訳者:久保田順一、発行所:あかぎ出版「関東古戦録(上巻)」より加除、注釈

新編武蔵風土記稿を直訳した川越夜戦も参考にどうぞ。

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by ckk12850 | 2006-02-26 11:21 | 歴史解説etc

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助