大穴城
2006年 03月 08日
城名:大穴城
別名:五反山・御殿山
城主:?・本多久蔵秀玄
住所:埼玉県坂戸市大字中小坂字大穴733番地
遺構:土塁
この城は、埼玉県川越市の北東、下広谷の城館群の室町時代の7つの城館群と何らかの関連がある城と考えられているようです。
ただし、大谷川左岸丘陵に7つの城館跡があるのに対し、この城は右岸丘陵になります。
その意味合いは、敵味方に分かれる城と思われるほど大きな違いかもしれませんが・・・
新編武蔵風土記稿では、
「古くはここに陣屋があったという。誰が居住したか伝わっていない。今、3~4反あまりのところの周囲に土手(土塁)を構えてある跡が残る」
と記されています。
場所は東坂戸団地内、「団地入口」バス停前が城跡です。
木もきれいに伐採されていて、団地住民の方を始め憩いの場となっています。
主に土塁と認められる遺構が存在します。
空堀もあるのでしょうが、はっきり確認することはできませんでした。しかし団地造成時に、よくぞ残そうと考えたものです。
案内板も設置されています。
「この地一帯の山林畑地には所々に土塁や溝があって、その面積はおよそ3万平方メートルにも及ぶ広大なものです。中でもここ(50平方メートル)は小高い丘になっていて北部及び東部は湿地帯であり自然の要害をなしていました。
室町の中期頃、ここに陣屋があったと言い伝えられていますが、この城の城主が誰であったか詳しく分かりません。
たまたま坂戸市史の編纂にあたり江戸時代の直参旗本本多久蔵秀玄(永禄9年から元和3年)は天正8年(1580年)、この地に陣屋を築いて住し、150石を賜ったと判明し、神君家康公が川越よりたびたびこの地に鷹狩りに来られた際に罷り出たとされています。
そこで坂戸市教育委員会は日本住宅公団(当時)の厚意により昔を偲ぶこの地に碑を建て永く後世に伝えるものであります。
平成8年11月
坂戸市教育委員会」
とありますが、1580年といえば、小田原北条氏の支配下時代です。何か大きな間違いを案内板に記入しているような気が・・・
いくら徳川家と北条家が姻戚関係とはいえ、1580年に徳川家の旗本が陣屋を作ってしまうってことはないでしょ(苦笑)
by ckk12850
| 2006-03-08 19:21
| 坂戸市【城跡】