山口城
2006年 03月 13日
城名:山口城
別名:児泉城
城主:村山党山口氏(家継・高清・高治・高実)
住所:埼玉県所沢市山口1517番地
遺構:土塁
ほんの数年前まで林になっていました。店舗建設のため、城跡が破壊されると新聞紙面を賑わしたときもありました。結局、店舗と城跡が見事に融合してしまった典型的な例です。ファッション市場サンキという大手衣料品店が今の城主様(笑)
恐らく、このファッション市場サンキさんも、相当な理解者、または城好きと思われ感謝すべきでしょう。社長ご自身が、お客様に商品を安価で提供するため、徹底的な経費削減を図っていらっしゃる姿勢が素晴らしい!
こんな市街地で遺構があるだけでも奇跡なんでしょうなあ。
城跡は、県道55号線(所沢武蔵村山立川線)沿いにあります。「山口城址交差点」なので迷うことはないかも。ファッション市場サンキを探せばもっと簡単ですが・・・
大きな案内板が交差点にあります。西武鉄道狭山線も城内を通っているので、分かりやすいかもです。
案内板は、おせっかいなくらい丁寧です。ではその全文を。
埼玉県指定史跡
山口城跡
山口城は平安時代末から鎌倉・室町時代にこの一帯を本拠とした武蔵武士の山口氏によって築かれました。この場所は北に椿峰の丘陵がせまり、南は柳瀬川と、湿地に囲まれた要害の地で、西側には鎌倉街道が通っていました。城跡の規模は東西約400m、南北約200mと推定され、埼玉県の旧跡に指定されています。
築かれた頃の大きさは不明ですが、戦乱の時代に館を囲む土塁(土手)や堀は徐々に広げられました。室町時代の終わりには、複数の郭がつながった姿となりました。この城跡には石垣がなく、土塁の上に木や竹の柵を造り、幅が広く深い堀をめぐらせて敵が入るのを防いでいました。
戦国時代の戦乱によって落城し、江戸時代に入ると城跡は畑や宅地として拓かれ、堀跡は溜め池に利用されました。その後、道路や鉄道が開通し、元の姿は一部を除いて失われました。現在、周辺には「堀の内」、「城上」、「梨の木戸」といった城跡に関係する地名が残されています。
土塁と空堀
現在、敷地内には3基の土塁があり、土塁の規模はそれぞれ異なりますが、幅10m前後、長さ20~30m、高さ3m前後です。
第1号土塁と第2号土塁は互いに向かい合い、第3号土塁L時型で東側に張り出しています。さらに発掘調査によって第1・2号土塁の間に南北方向に伸びる第4・5号土塁が新たに確認されました。
土塁の外側には堀がめぐり、上部幅約4m、底部幅約2m、深さ1.5~2mの逆台形で、底から水が湧き出して沼地のような状態でした。これらの築造と掘削の年代は、戦国時代に入った頃と考えられます。
土手の下から永楽通宝が、堀跡の底近くからは木製の椀や塔婆が出土しています。
郭・曲輪
土塁に囲まれた内部は、東側より一段高く東西約20m、南北約32mの長方形の平地となっていました。これを「くるわ」と呼び、何回か繰り返し整地を行っています。多数の柱穴や焼土とともに井戸跡6基が発見され、建物があったと推測できます。
また、鎌倉・室町時代の灯明皿や、常滑焼の壷や甕の破片、年号のわかる板碑等が出土しました。
所沢市教育委員会
うーん、何も調べないで済んでしまった(笑)
地図はこちら
by ckk12850
| 2006-03-13 23:00
| 所沢市【城跡】