人気ブログランキング | 話題のタグを見る

太田道真館(自得軒)

太田道真館(自得軒)_c0051112_19361092.jpg

城名:太田道真館(自得軒)
別名:太田道真退隠の地・太田道灌邸?
城主:太田道真
住所:埼玉県入間郡越生町小杉641番地・建康寺
遺構:不明

実は自得軒の場所は不明です。新編武蔵風土記稿では、龍穏寺寺中の三枝庵であろうとしています。
建康寺の案内板は、建康寺を自得軒としています。
しかし、三枝庵の案内板は三枝庵を自得軒砦とし、建康寺を自得軒としているのです。

越生市街の北、県道飯能寄居線(30号線)を越生梅林方面に入ります。県道越生長沢線(61号線)です。
越生梅林の入口を右方向に折れ、越辺川を左手に見ながら直進。和田川橋を渡り、月ヶ瀬橋のところは渡らず右手方向に。
梅林入口から800mのところに小さな寺院があります。建康寺です。
大きな目印は梅園小学校ですが、越辺川を挟んだ対岸にある小学校です。
参道入口の一般道に路上駐車できるスペースがあります。うっかりすると通り過ぎてしまいますので注意。

新編武蔵風土記稿、入間郡小杉村の項には次のように記されています。(意訳)
太田道灌邸跡、今は田園となり一段四畝ほどの地にして、建康寺の傍らにあり、小字を陣屋と呼び、道灌の別邸だろうか。ある書物では道真が小杉に隠居し、明応元年2月2日、82歳で死去したといい、道灌ではなく、道真の邸(屋敷)跡ではなかろうか。

かつて建康寺の小さな境内に案内板がありました。
建康寺(けんこうじ)
太田道灌の父道真は、龍ヶ谷の三枝庵に砦を築き、鉢形城主長尾景春に対抗したが、道灌が勢力を回復するとそこを出て、この地に隠居所自得軒を築き隠棲した。
文明18年(1486)の夏、相國寺の詩僧万里は、道灌と共に、この地を川越城から道真を訪ねた。万里はその一夜のようすを著作「梅花無尽蔵」の中で次のような絶句で残している。
稀郭公(ほととぎす稀なり)
縦有千声尚合稀(たとえ千声ありと云えども尚合ふは稀なり)
況今一度隔枝飛(いわんや今一度枝を隔てて飛ぶをや)
誰知残夏似初夏(誰か知らん残夏初夏に似たるを)
細雨山中聴末帰(細雨山中にきいて未だ帰らず)
翌朝、万里は道灌父子と別れ、故郷岐阜へ去った。その年の秋、道灌は相模国糟谷で暗殺され、これが道灌父子最後の対面になった。
道灌の死を悼んだ父道真が道灌の菩提をとむらうために、この地に建康寺を建立したもので、龍穏寺三世泰叟和尚が開山した。
そして、今でもこの辺には、越辺川に架かる道灌橋を始め、陣屋、馬場跡、砦などの地名が残されている。
昭和58年3月 埼玉県

新たに同じ場所に案内板が設置されました。
建康寺
越生町小杉
関東管領上杉家一族の扇谷上杉氏の家宰として、関東にその名を馳せた名将太田道真は、息子の道灌とともに江戸城、岩付城、川越城を築いたのち、越生に本拠を移した。ここ大字小杉字陣屋付近が、道真の居館自得軒の跡地と推定され、「太田道真退隠地」として埼玉県の旧跡に指定されている。
文明18年(1486)6月、道灌は友人万里集九ととも道真を訪ねた。万里の詩文集「梅花無尽蔵」に、その折に詠じた次の七絶が収められている。
稀郭公(ほととぎす稀なり)
縦有千声尚合稀(縦え千声ありと云えども尚合ふは稀なり)
況今一度隔枝飛(況や今一度枝を隔てて飛ぶをや)
誰知残夏似初夏(誰か知らん残夏初夏に似たるを)
細雨山中聴末帰(細雨山中にきいて未だ帰らず)
翌7月、道灌は相模国糟屋(神奈川県伊勢原市)で主君上杉定正に謀殺され、自得軒が父子最後の対面の場となった。道真は道灌の菩提を弔うため越生山建康寺を開いたという。
門前に架かる道灌橋の対岸には、道灌が調馬した馬場があったと伝わる。また、堀と導水路の跡が遺る水車「才車」の「才」は城塞(城砦)の塞(砦)に由来するとの説もある。
平成25年3月
越生町教育委員会


また、境内に「太田道真退隠之地」という石碑が建てられています。
太田道真館(自得軒)_c0051112_19371768.jpg

檀徒総代の方から連絡をいただき、太田道真の隠退の地の石碑は、2016年の3月末に、越生町教育委員会の協力により建康寺の境内に移動したそうです。それまでは、本堂右の梅林の中にありました。

2006年に訪問した際、遺構は何かないかと偶然話しかけた方がラッキーでした。この地で最も古くから住んでいらっしゃる、上田様にお話を伺うことができました。
参道のほぼ北側3軒目、石碑の入口にお住まいの方です。

この近辺で、陣屋、馬場、砦、道灌橋という地名が残っていると建康寺の案内板に書いてありましたが、ご存知ですか?

うちに古地図があります。どうぞ中へ。

本堂前一帯、越辺川のところまですべて陣屋という地名です。砦や馬場という名は聞いたことがありませんね。道灌橋は本堂前からまっすぐ歩くと越辺川にぶつかりますが、そこに架かる橋のことです。その先が梅園小学校です。

陣屋という字は、かなり広範囲なのですね。ところで陣屋の建物(自得軒)は具体的に、どのあたりにあったか分かりますか?

はっきり分かりませんが、石碑の前に私の家があったそうです。このあたりでは一番古い家が私の家です。600年~700年前から住んでいると伝え聞いています。明治になって今のところに移転しています。

そうすると冗談半分ですが、何か預かり物は?または太田道真、道灌から何か伝言でも・・・

いやあ、特に(苦笑)

お名前から察するに、出身は東秩父あたりではありませんか?松山城主であった名族、上田氏の一族という伝承はありませんか?

特に聞いていません。

後から分かった話ですが、道灌橋を渡った梅園小学校の近辺が「馬場」だそうです。
この場所は慈光寺参道、子の権現参道の分岐点。慈光寺対策として上田氏一族のどなたかが、太田道真の陣屋跡を利用して城としての体裁を整えたのでしょうか。

ひっそりとした建康寺。それは本堂を見て思うことかもしれません。陣屋という地名の広さを確認した時点で、考えが大きく変わりました。
ひょっとして退隠どころか、最前線なのではないかと・・・
太田道真館(自得軒)_c0051112_19374652.jpg


建康寺の背後、自得軒砦も参考にどうぞ。
地図はこちら
by ckk12850 | 2017-01-13 07:00 | 入間郡越生町【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助