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小代氏館

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城名:小代氏館
別名:小代館
城主:小代氏
住所:埼玉県東松山市正代864番地・青蓮寺一帯
遺構:土塁?・空堀?

北に都幾川、南に九十九川と越辺川が流れ、3つの河川が合流する手前の台地上という実に地の利を得た館が小代(しょうだい)氏館です。
この近辺、田舎の雰囲気が漂っていていいですなぁ。後述しますが、キツネにも遭遇。

場所は青蓮寺を目指すと良いでしょう。
境内に車を止めて、まずは本堂前にある埼玉県指定文化財の弘安4年銘板石塔婆を見学。ここに小代氏に関する詳細が紹介されています。ただし館跡ということには触れていません。近年の研究で館跡とする説が出てきたためと思われます。
この塔婆、元は高坂台地の北端大日山(現折本緑地)あたりにあったそうで、決してこの塔婆と寺院に関連があるとは言えないかもしれません。
「弘安4年銘板石塔婆

右奉為 前右金吾禅門一列諸衆合力建立也夫聖霊者撫民之徳惟深仁恵之情敦 因茲結面々慕従之好友修月々忌景之諸衆等 令
廬之廟石永宛滅罪生善之霊 以祈光 之覚位以及累代之幽魂  等済幽顕同利之矣千時 弘安四年辛巳七月一日諸衆等敬白

この銘文には小代氏四代目重俊の仁徳を慕って、また祖先の供養のため、縁ある小代氏一族関係者が力を合わせてこの板碑を建立したことが記されています。
この板石塔婆が建てられた弘安4年(1281)は、蒙古襲来(弘安の役)の年で、一族の武運長久と団結を願う意味もこめられていると考えられています。
小代氏は、武蔵七党(横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹党)の児玉党の入西資行の次男遠弘が、小代郷に住して小代を名乗ったことに始まります。
子息重康の「宝治合戦」での活躍により、重俊は宝治元年(1247)鎌倉幕府から肥後国野原庄(現熊本県荒尾市)の地頭職に任ぜられています。当時はその地に赴かず、地頭代に所領の管理を任せていましたが、文永8年(1271)幕府から蒙古襲来に備えるため、また、領内の争いを治めるため重俊の子息等は野原荘へ行くことを命ぜられ、小代氏一族は野原荘へ移り住んでいきます。その後、三百数十年にわたりその地で勢力を誇ったそうです。
小代氏の菩提寺となっている荒尾市の浄業寺には、一族の供養塔群が残されています。
平成16年3月
埼玉県教育委員会
東松山市教育委員会」
とあります。
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この本堂の西側に竹藪があり、土塁のような?遺構が確認できます。奥に民家が見えます。この竹藪でキツネに遭遇。近くで見たいと思ってキツネを追跡、その後土塁チェックは忘れました(笑)
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そして本堂南東にある御霊神社へ。この神社に下りる崖が当時からの要害を物語っています。崖のようですが階段があります。階段を下りるとゲートボール場。分からなければ直接御霊神社を目指して、そこから石段を下りても良いでしょう。眼下に広がる平野は絶景。

さて、今度は青蓮寺北側一帯の住宅地に移動しますと、干し柿が吊るしてある、のどかな風景が。
寺の北西の公道に面した空地には、土塁?のような空堀?のような遺構があり、井戸跡?のような深い穴の遺構もあり、何となく想像を掻き立てられます。
深い穴の遺構って、大木の倒れた跡も多いんですよね・・・
by ckk12850 | 2007-02-07 07:31 | 東松山市【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助