三ツ木原古戦場

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名称:三ツ木原古戦場
住所:埼玉県狭山市新狭山3丁目3番地

川越インターチェンジから見て、国道16号線「新狭山2交差点」を左折、西武新宿線の踏切を渡り、50m先の右側に「三ツ木公園」があります。新狭山駅からも200mの近さです。また、本田技研工業埼玉製作所の狭山工場、ロッテの狭山工場も見えますが、踏切があり、物流のトラックで予想外に混雑しています。つまり、川越狭山工業団地の南西隅にあります。

公園は工場に遠慮するかのようにありました。それでも大きな公園です。
公園内に櫓台風の高台があります(笑)
その上に三ツ木原古戦場の碑と案内板があります。石碑の裏にも解説がありますので読んでおくと良いでしょう。
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案内板は、非常に簡潔でありながら要領良くまとめられています。
三ツ木原古戦場の碑
東三ツ木は、かつて三ツ木村と称していました。三ツ木村を開発したのは当時鎌倉御家人だった金子和泉守国重で、幕府の滅亡を機に当地へ移り住み、出身地の地名をとって三ツ木と名付けました。
14世紀から16世紀にかけての関東地方は戦乱に明け暮れた時代で、武蔵野の地も入間川を始めとして小手指(所沢市)女影(日高市)などで激しい戦いが繰り広げられましたが、三ツ木もその中の1カ所として知られています。
小田原(神奈川県)を本拠に武蔵国の全面支配を目指す北条氏綱は、大永4年(1524)に上杉朝興から江戸城を奪いましたが、天文6年(1537)になると河越城を手に入れようと軍勢を進め、7月11日に三ツ木に着陣しました。これに対して朝興の跡を継いだ朝定が河越城におりましたが、氏綱の出陣を知ると15日に出撃して三ツ木原へ兵を進め、両軍入り乱れての戦いが始まりました。これが「三ツ木原の合戦」と呼ばれる戦いで、当地から川越にかけての地が戦場になったと伝えられています。
この合戦は、城を出て戦った上杉方に討ち死にする者が多く、朝定の叔父の朝成も生け捕りになったことなどにより、北条氏の勝利で終わりました。河越城を奪われた朝定は、天文14年(1545)9月に上杉憲政らと河越城を包囲してその奪還を目指しましたが、翌15年4月に氏綱の跡を継いだ氏康の奇襲攻撃(いわゆる川越夜戦を受けて朝定は戦死、市内柏原に着陣した憲政も上野国(群馬県)へと逃れ、以後、武蔵国は北条氏の全面的な支配下に入りました。
なお、江戸時代後期に編さんされた新編武蔵風土記稿によると、元弘3年(1333)5月の新田義貞の鎌倉攻め、永享12年(1440)3月の上杉顕定と結城満朝の戦いも、当地で繰り広げられたとあります。
平成14年 狭山市教育委員会

川越夜戦の時、北条氏康は8000の軍勢を従えて三ツ木原へ着陣。陣を出しては府中(東京都府中市)へ引くこと4回、連合軍は北条軍が弱いと思うようさせた地でもあります。砂久保陣場の記載がないのが気になるところですが・・・
この地は砂久保陣場柏原城山砦の中間地点に深く食い込んだ地点。間違えば北条方は挟み撃ちになるかもしれませんが、上杉・古河連合軍を分断することも可能です。氏康の戦略を垣間見ることができます。

試しに国道16号線新狭山2交差点から西を見れば、入間川を挟んで柏原城山砦が手に取るように。その距離は2.3km。
ちなみに砂久保陣場までの距離は4.6kmです。
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by ckk12850 | 2016-11-15 07:00 | 古戦場【歴史観光】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助