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城館用語解説と歴史解説(埼玉県川越市編)

城館用語解説と歴史解説(埼玉県川越市編) _c0051112_1933218.jpg

あ行
・足利氏(あしかがし)
清和源氏、源義家の子、義康の出自です。本拠は下野国足利庄でした。また、鎌倉時代には上総、三河国の守護でした。1338年、足利尊氏が京都に幕府を開き、子孫は代々将軍となりました。
3代将軍足利義満は、京都室町に御所を造り、室町幕府(室町時代1338年~1575年)と呼ばれています。
尊氏の子、義詮は2代将軍、基氏は関東管領となり、基氏の子孫が古河公方の足利成氏や晴氏になります。
関東地方に関連する家系は、尊氏―基氏―氏満―持氏―成氏―政氏―高基―晴氏となります。その後、晴氏の子孫は、喜連川氏となります。

・板塀(いたべい)
埼玉県の中世の城館では、ほとんどがこの塀と思われます。火に弱く腐食しやすいので、1563年の小田原北条家朱印状によれば、5年に1回交換するよう領民に命令しています。関東地方で、総塗り込めの白い美しい塀が見られるのは、江戸時代になってからのことです。

・上杉氏(うえすぎし)
勧修寺流藤原氏の庶流重房に始まります。本領は丹波上杉庄でした。重房の孫、清子が足利貞氏に嫁ぎ、尊氏を産みます。そして同家の執事(重臣)となり、ついで関東管領の執事となります。後に関東管領は鎌倉公方、関東公方と称するようになり、関東管領は上杉氏の職となりました。
一族は扇谷、詫間、犬懸、山内の4家に分かれましたが、詫間、犬懸は滅び、扇谷、山内の両上杉氏は1400年代後半に関東各地で内紛を繰り返します。扇谷上杉氏は川越夜戦で滅亡し、最後に残った山内上杉憲政も小田原北条氏に追われ越後に逃れ、長尾景虎(上杉謙信)に家督を譲りました。謙信は関東管領職を大義名分にし、関東地方へたびたび兵を出しました。その子孫は、江戸時代に米沢藩として存続しました。

・馬出(うまだし)
虎口の外に小さな郭を普請し、出入口の強化を目的としました。初期の馬出は虎口の外側に築かれる土塁や盛土であり、これを的土(あづち)といいます。

・太田道灌(おおたどうかん)
1432年~1486年。名は資長、または持資といいます。備中守。入道して道灌と名乗ります。一般的には道灌で通用します。扇谷上杉氏の執事となり、1476年以降、関東各地で武功を立てました。
しかし1486年、敵の山内上杉顕定の讒言により、主家である扇谷上杉定正に暗殺されてしまいます。その際「当方滅亡(扇谷上杉氏は滅亡するぞ)」と絶叫し、後にその通りとなったことは有名な逸話です。
また、築城学の始祖者として、江戸時代に持資流軍学が起こり、平城を初めて築いた人物となってしまいます。そのため、道灌が築城した城以前の城も太田道灌が築城した伝説を生んでしまうことになります。
しかし、道灌は城攻めの際、立派な陣城を築き上手に利用しました。そして支城の配置と地取りを上手に行なったことが評価されています。

・大手(おおて)
虎口のことですが、城の正面出入口になります。「大手」は「追っ手」に語源があり、どの方向に構えるかによって、どの方向の守りであるかが分かります。
地形に問題がなければ、通常、大手は南、搦手は北に構えます。

・小田原北条氏(おだわらほうじょうし)
後北条氏ともいいます。典型的な戦国大名です。鎌倉時代の執権である北条氏と区別されますので、一般的には後北条氏で通用します。初代早雲は伊勢新九郎長氏と称し、駿河国興国寺城主、伊豆国韮山城主を経て、1495年に小田原へ進出しました。長氏―氏綱―氏康―氏政―氏直と5代続きました。氏康の代に関東地方へ勢力を拡大させました。全般にわたる善政は高く評価されています。
残念なことに天下の状勢の判断が甘く、1590年、豊臣秀吉により成敗され事実上滅亡しました。このとき、城を出て合戦するか、籠城するか議論が交わされました。これを小田原評定といい、結論の出ない会議の例に使われています。子孫は河内狭山に1万石の大名として存続しました。

か行
・外郭(がいかく)
「そとぐるわ」とも読みます。総郭、総構ともいいます。城が中世の臨時的なものに対し、永久的な城に移行する段階で発生した城下町、家臣団の防備目的で本来の城の構成部分から、さらに一重外側に防御線を設けた郭のことです。

・鎌倉公方(かまくらくぼう)
足利尊氏は京都に幕府を開きましたが、関東地方を重視、長男義詮を鎌倉に置き関東10か国を管轄します。その弟、基氏が世襲します。本来これを「関東管領」というので注意が必要です。
基氏の子孫は独立傾向を強め、「鎌倉公方」または「関東公方」と称しました。公方とは征夷大将軍のことです。その執事である上杉氏は関東管領を称しました。1439年の永享の乱で基氏の子孫の足利持氏は成敗されますが、1449年上杉氏ら関東の諸将は、持氏の子、足利成氏を下総の古河に本拠を置く「古河公方」としました。
一方、京都から派遣された8代将軍足利義政の弟政知を伊豆の堀越に本拠を置く「堀越公方」とし、関東の混乱は深まりました。

・冠木門(かぶきもん)
屋根の無い木戸で、中世の大半の城館がこの門であったと考えられています。

・搦手(からめて)
城の裏側であり搦手門はその出入口になります。「大手」は「追っ手」に語源があり、「搦手」は「からめ取る」に語源があります。
地形に問題がなければ、通常、大手は南、搦手は北に構えます。

・空堀(からぼり)
水のない堀のことで、通常Vの字形で、堀の最下部は通路として使用されました。また、掘った土(余った土)は土塁として普請されました。「空堀」は通常1つの郭を取り囲みます。類義語として一直線に尾根を仕切る「堀切り」もあります。

・瓦(かわら)
一般的に城郭の屋根は瓦葺であると思うかもしれませんが、関東地方では1500年代後半まで、草葺、茅葺であったと考えられます。小田原北条氏の城跡から瓦の発掘例がないそうです。
北条氏康の三男、氏規が京都に上京した際、街並みが瓦葺であることに驚嘆し、せめて小田原の城下町(北条氏の本拠地)だけでも板葺きにできないものかと提案したエピソードがあります。

・鬼門除け(きもんよけ)
鬼門は陰陽五行説の艮(うしとら)である北東の方角を不吉としました。城の場合、この部分の土地を削った「角落とし」、または凹形にする、神社を置く等の処置がなされました。坤(ひつじさる)である南西は裏鬼門といわれ、同様に不吉とされました。
参考までに、巽(たつみ)は南東、乾(いぬい)は北西の方角です。

・郭(くるわ)
「曲輪」とも書きます。堀や土塁で取り囲まれた土地をいいます。本丸を一の郭、二の丸を二の郭、三の丸を三の郭という場合もあります。初期の館類は四角形の単純な形が多いのですが、城そのものが日常生活と戦闘時に使用されるようになると、守るに堅く、攻めるに易い複雑な形となります。

・石高(こくだか)
知行を与えられた武将、城主は、通常石高で勢力が分かります。川越藩は、最盛時に17万石の石高を有していました。ただし、小田原北条氏時代は「貫」の単位でした。1559年(永禄年間)に北条氏康によってまとめられた、北条氏所領役帳、別名北条家分限帳は、各武将の役高が記載されている貴重な資料です。
なお、貫の単位は、地方によって統一性がありません。しかし、1590年の太閤検地によって全国統一の石の単位ができました。「貫」の単位と、「石」の単位は、比較することができません。石は米の枡目の単位であり、1石=10斗=180リットルとなります。

・虎口(こぐち)
城の出入口のことです。小口とも書きます。戦闘時の出入口になり、小さい出入口を普請する小口に語源があるといわれています。

さ行
・作事(さくじ)
城の工事のうち、「建築工事」を作事といいます。造作ともいいます。全国的にも作事の遺構は少なく、その多くが国宝、国や県の重要文化財の指定を受けています。

・三の丸(さんのまる)
二の丸と同様に城主の館、重臣の屋敷等が置かれました。本来外郭に相当します。虎口である出入口は他の郭と比べて厳重になっています。

・慈覚大師(じかくだいし)
794年~864年。慈覚大師とは諡名であり僧名は、「円仁」です。下野国(栃木県)生まれ。俗称は、壬生氏です。15歳で比叡山の最澄に師事。830年、川越の地に無量寿寺(喜多院)を創建しました。838年~847年まで、唐(中国)で密教を学びます。854年、天台宗座主に就任、天台密教の大成に尽力しました。

・支城(しじょう)
1つの城に対して出張的役割の城のことです。用途や目的によって分けられます。「境目の城」、「番城」、「繋ぎの城」、「伝えの城」があります。「砦」も支城の一種ですが、城主はいません。江戸時代の埼玉県内の岩槻、川越、忍の各城はすべて江戸城の支城といえましょう。

・城代(じょうだい)
中世の支城の城主は、在地領主が務めるか、主君の一族や重臣が派遣されました。江戸時代の城代は大阪城と二条城を守る役職となりました。

・陣城(じんしろ)
城攻めの時、寄せ手が臨時に築く城です。円形または四角形で、周囲に空堀を巡らし、土塁を築き板塀を立てた簡単なものでした。太田道灌の場合、1つの城を落とすため、1つの陣城を築いたと伝えられています。

・陣所(じんしょ)
陣城と同じですが、普請されていない(堀や土塁が無い)簡素なものでした。

・陣場(じんば)
中世の城館の周囲に見られる地名です。小高い平地上に存在しました。練兵場や出城的砦の存在を示します。陣城や陣所と混同しないように注意が必要ですが、史跡として陣所と陣場は区別されていないと思います。

・新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)
江戸幕府の大学頭林衡らの建議により編纂された風土記です。全265巻から成り立っていました。武蔵国の沿革、山川、芸文等が掲載され、内容は江戸時代に残存する史料を含み、伝説等の民族的資料も網羅しています。1810年に編纂が始まり、1828年に完成しました。
現在、謎の多い城館跡は、この資料を参考に歴史考察する場合が多いように見受けます。

た行
・竪堀(たてぼり)
中世の山城に見られ、山の斜面に直角(縦に直線)で普請した空堀のことです。地図でいえば等高線に対して直角の堀になります。これは、敵兵が斜面をよじ登ることを防ぐ目的です。仮に横に堀を普請すれば、斜面の勾配を緩くしてしまいます。中世の山城は、どこでも竪堀があると思ってよいでしょう。

・詰めの城(つめのしろ)
城は発生した過程において、館と詰めの城に分けられます。日常生活は館、戦闘時は要害の山(詰めの城)に分かれます。江戸時代でもこの形を踏襲した城が少数ながら存在しました。

・出城(でじろ)
1つの城に付属する砦をいいますが、支城を出城という場合もあります。

・天守閣(てんしゅかく)
物見台と櫓が発展して、城の内外が監視できる天守閣が生まれました。初期の天守閣といわれる織田信長の安土城は天主と書きました。埼玉県内に天守閣は存在しませんが、江戸時代に岩槻、川越、忍の各城は天守閣に相当する「櫓」が設けられました。全国の天守閣は封建君主としての象徴にもなりましたが、江戸幕府によって作事は厳しく制限されました。現存の天守閣は全国で松本、彦根、犬山、姫路の国宝天守閣の他、弘前、丸岡、備中松山、松江、伊予松山、高知、宇和島、丸亀の12城のみです。

・天神郭(てんじんくるわ)
天神様を祭った「天神郭」、稲荷様を祭った「稲荷郭」等、城の守りとして、信仰として1つの郭が設けられました。埼玉県の城にも多く見受けられます。

・土橋(どばし)
郭と郭を連絡するため、木材を使用せず、土を使用しました。利点は、水堀の高さが調整できる点です。また、恒久的な橋として使用できる利点もあったのでしょう。土橋の遺構が確認できれば、それぞれの郭の連結方法が判断できます。しかし、木橋を使用していた城は、発掘調査の結果がでない限り、各郭の連結方法が不明で、築城者の意図がはっきり分かりません。

・土塁(どるい)
土塁は関東以北に多く見受けられ、埼玉県の城のほとんどが土塁で普請されました。通常、堀を掘った跡の余った土を内側(郭内)に盛りました。
土をたたいて固めた「たたき土塁」、芝を利用して崩れを防ぐ「芝土塁」の2種類があります。

な行
・縄張り(なわばり)
城を築く場所を選定し、郭や門の配置を決めます。この縄張りによって城の良し悪しが決まります。縄を張って土塁、堀の位置を選定した事に語源があります。
江戸時代は軍学となり、甲州流、北条流等、様々な流派が生まれました。

・二の丸(にのまる)
本丸を保護する2番目の郭のことです。本丸を取り囲むか、並んで普請されています。「二の郭」、「二の城」という場合もあります。

は行
・坂東八平氏(ばんどうはちへいし)
平安時代後半、関東地方は中央貴族が土着し、豪族となりました。
桓武天皇の曾孫で、初めて平氏を称した高望王は上総介となり、坂東(関東地方)に下り、嫡子の国香は常陸大掾に、良兼は下総介に、良将は鎮守府将軍に、良孫は上総介に、良持は下総介に、良文は武蔵守に、良持は常陸少掾に任じられ、坂東八平氏の基礎が築かれます。千葉県の千葉氏、上総氏、神奈川県の三浦氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏、土肥氏、そして埼玉県の秩父氏ですが、この秩父氏の一族が河越氏となります。
それぞれの一族は土着して、方形に堀を掘り、残った土で周囲に土塁を盛り、館を構え、生活の場としました。地形は、段丘上、舌状地、丘陵地の要害を利用して、平地の場合は、深田、湿地、川を利用して防御しました。

・平城(ひらじろ)
江戸時代の軍学者の荻生徂徠によって分類され、平地に築かれた城をいいます。沼地等を利用した、いわゆる水城も平城に分類されます。
江戸時代になると、政庁、住居を兼ねた城となるため、平城が発達しました。
しかし、守りに弱いため郭内に様々な工夫がなされました。

・平山城(ひらやまじろ)
丘陵を利用した城と思えばよいでしょう。微妙な分類区分です。研究者によって平城や山城に分類されてしまう城もあります。小田原北条氏は、この丘陵城郭の普請が得意であり、多くの名城を残しています。

・富士見台(ふじみだい)
関東の中世城郭に富士見台とよばれる高所がありますが、富士見櫓の原点です。太田道灌関係の城に多いようですが、物見台や望楼の役目をしたのでしょう。
江戸時代は天守閣の代用(富士見櫓)として使用されました。江戸城や川越城の富士見櫓は有名です。

・普請(ふしん)
築城の際、土塁、堀等の「土木工事」を普請といいます。築城の9割は、この普請といわれます。なお、埼玉県の城の遺構は、ほとんど普請の遺構です。

・方形屋形(ほうけいやかた)
住居を優先した城のことです。正方形や長方形に堀、土塁を巡らし、鎌倉時代の城館の典型例といえます。方形屋形は日常生活の場所であり、詰めの城が用意されていました。

・堀の内(ほりのうち)
城、館、環濠集落、寺内町の地名です。関東地方に多く、この地名を見たら何らかの城館があった可能性が非常に高いといえましょう。紛らわしいのが環濠集落、寺内町の地名で、研究書によっては城跡にされてしまう場合があります。

・本丸(ほんまる)
城内の最も中心となる郭のことです。「一の郭」、「本城」、「詰めの城」ともいいます。籠城時は本陣が置かれ、城主は本陣から指揮をしました。江戸時代になると御殿が作事されました。川越城に残る本丸御殿は全国的にも貴重な遺構です。

ま行
・水の手(みずのて)
籠城時に食糧と水は、いかに長期間持ちこたえられるかが鍵となります。井戸や隣接する河川、貯水池を利用し、水の確保に気を使いました。水の手を断たれれば、落城が近いともいえましょう。

・水堀(みずぼり)
空堀に水を引いたものです。濠とも書きます。河川、泥田、湿地を利用した天然の水堀もあります。

・武蔵七党(むさししちとう)
10~11世紀頃、武蔵国に成長した地方武士団のうち、主な7つの党をいいます。
各党は数十の小族に分かれ、戦場では1つの党として戦いました。村山、横山、猪俣、児玉、丹治、西、野与とする説、野与に代わり私市を入れる説があります。いずれの党も武蔵守、武蔵介等の子孫が現地に土着して、方形に堀を掘り、残った土で周囲に土塁を盛り、館を構え、生活の場としました。地形は、段丘上、舌状地、丘陵地の要害性を利用して、平地の場合は、深田、湿地、川を利用して防御しました。
やがて源頼義、義家を棟梁とし、源氏の家人となり、鎌倉幕府創立の立役者となります。

・武蔵平一揆(むさしへいいっき)
源氏、鎌倉北条氏、新田氏、足利氏に仕えた河越氏は、1353年、河越直重が、足利尊氏から相模守に任じられましたが、1363年に解任されました。
1367年関東管領、足利基氏は、わずか28歳の若さで世を去り、9歳の氏満が家督を継承しました。ところが、この年、2代将軍足利義詮も死去したので、執事(家老)の上杉憲顕は氏満の代理として上京しましたが、その留守をついて関東では鎌倉府に不満を持つ武士たちが蜂起しました。1368年2月、河越氏を中心とする平一揆が、河越館を中心に蜂起しました。
その理由は所領についての争いと伝えられています。河越氏は鎌倉時代には武蔵国総検校職として在庁官人の上位にあり、観応の擾乱の前後にも大活躍をしましたが、伊豆の畠山国清討伐に際し所領のことについて葛山備中と争い、結局鎌倉に引き返しており、そのことに対する鎌倉府の処置に不満を持っていたのでしょう。平一揆の蜂起の報を受けた上杉憲顕は、京都から本拠地上野に帰り、鎌倉の氏満と呼応してこれを攻めました。このため平一揆は蜂起してから数か月も経たない同年閏6月中旬には平定されました。氏満は、同年7月に新田義宗、8月に宇都宮氏綱追討の兵を出し、これを屈服させています。
以後、歴史の舞台から河越氏は姿を消します。伊勢に逃れたと伝えられます。
この「平一揆」は、武蔵の伝統的武士団の排除と、足利氏の支配権の確立という意味で、重要な事件でした。この動乱によって関東八平氏の一つとして武蔵でもっとも大きな勢力を持っていた河越氏がまったく力を失い、以後、河越氏のもとに結集していた武蔵の地侍層は、上杉氏の配下になりました。

・物見台(ものみだい)
敵の情勢を探る高台で、城の内外を問わず存在しました。いわゆる「望楼」のことです。

や行
・櫓(やぐら)
矢倉とも書きます。矢を射る建物で、門の上に建てられた「櫓門」、土塁上に建てられた総称「隅櫓」があります。隅櫓には艮、巽、坤、乾等の方角を示す櫓、江戸時代には天守閣を示す御三階櫓、その他様々な名称の櫓が存在しました。

・山城(やまじろ)
独立した山に築かれる場合と、山脈上の一部に築かれる城があります。多くの場合、山麓に「根小屋」という館を構えました。地名で残っていれば近辺の山や丘陵に城跡が存在したと考えて間違いないでしょう。根小屋の類義語に「御所谷」という場合もあります。戦国時代は、守りから攻めの城に変わる移行期であり、攻めに不便な山城は少数になりました。
by ckk12850 | 2005-01-15 19:36 | 歴史解説etc

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助