川越夜戦跡(河越夜戦跡)

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川越市志多町13番地1、東明寺境内に写真の碑があります。川越夜戦の激戦地跡と伝えられるところです。
現在も歴史好きな観光客の方の訪問が絶えません。

境内に東明寺の案内板があります。
東明寺
所在地 川越市志多町
東明寺は時宗(開祖一遍上人)の寺で稲荷山称名院東明寺と称し、本尊は虚空蔵菩薩である。
お寺の位置は、川越台地の先端が水田地帯に接する北の端にある。このあたりからは、新河岸川を境として川越の町の北側を入間川を主流とする分流が幾筋も流れ、水田地帯を形成しており、古くからこの穀倉地帯を領する多くの武士団が存在した。東明寺はこうした土豪の一人河越氏の荘園の東端に連なる広い寺領を有していた。その寺領は東明寺村、寺井三か村、寺山村などに及び、広大な境内を有して、その惣門は今の喜多町の中ほどにあったと伝えられている。このことから喜多町の古名を東明寺門前町と称したといわれている。天文15年(1546)4月に戦われた、上杉、北条軍の川越夜戦は、一名東明寺口合戦といわれ、この地の要路松山街道を含んだ東明寺寺領と境内で争われたものである。
昭和57年3月
埼玉県

それでは、主に新編武蔵風土記稿から訳した合戦の流れをまとめてみました。諸説ありますので、今後様々な史料から紹介します。

1400年代後半、関東公方、関東管領の内紛の最中、戦国大名の雄である北条早雲(伊勢新九郎長氏)は、1498年に大森藤頼を討ち、小田原城を手中にしていました。そして関東平定の夢を抱いていました。
2代目の北条氏綱は1524年、扇谷上杉朝良の子、朝興の江戸城を攻略、1537年、上杉朝興が50歳で川越城に没すると、同年7月11日、北条氏綱は7000名の軍を率いて三ツ木原(狭山市新狭山3丁目・三ツ木公園)の合戦に勝利します。
川越城を支えることができなくなった扇谷上杉朝興の子、朝定は同年7月15日、難波田弾正憲重の守る松山城に逃げ込みました。
このとき、攻める北条方の山中主膳が、
「あしからじ よかれとてこそ戦はめ 何か難波の浦くずれゆく」
と詠むと、すかさず難波田弾正は、
「君をおきて 仇し心を我もたば 末の松山波もこえなん」
と古今集の歌を詠んで返しました。有名な松山城風流歌合戦です。

川越城を奪った北条氏康は、通称「黄八幡」と恐れられた福島綱成を川越城将としました。今川家家臣、遠州土方城主福島正成の子であり、正成は武田家に討たれ、北条氏綱に仕えました。綱成は猛将で、北条氏五備(五家老)の黄備を担当、真っ先に敵陣に突入し、黄色の練貫に八幡と墨書した旗を指物としていました。

小田原北条氏の脅威を感じた扇谷上杉朝定、山内上杉憲政、古河公方(関東公方)である足利晴氏は、1545年、80000名の連合軍を結成、小田原北条氏からの川越城奪還を試み、十重二十重に包囲しました。守将は、城代の福島(北条)綱成、以下わずか3000名。連合軍はなかなか城を落とせませんでした。

3代目北条氏康は、8000名の軍勢を従えて三ツ木原(狭山市新狭山3丁目・三ツ木公園)へ着陣。陣を出しては府中(東京都府中市)へ引くこと4回、連合軍は、北条軍が弱いと思うようになってきました。そして油断も生じました。
1546年4月20日、頃合いよしと判断した氏康は山内上杉憲政の本陣である川越市砂窪(川越市砂久保65番地・稲荷神社)に夜襲を決行、憲政軍を破り、上州平井城へ敗走させました。
氏康は、扇谷上杉朝定の陣である東明寺(川越市志多町13番地1)に夜襲を続け、朝定を討ち取りました。夜も明ける頃、古河公方足利晴氏は、敵が少数であるから一気に攻め込もうと準備を始めました。
川越城の福島綱成は、夜戦の始まる頃から、大手の櫓に登り監視していましたが、古河公方足利晴氏軍が動く様子を見て、頃合いよしと判断して城門を開き、晴氏軍に襲い掛かりました。そして、古河へ敗走させました。北条氏康は、川越城に入城、士卒を休息させました。

このことにより、10倍もの敵を打ち破った小田原北条氏の武蔵国の覇権が成立しました。これが川越夜戦(東明寺合戦)です。毛利元就が陶晴賢を破った厳島の戦い、織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いと共に日本三大夜戦、または日本三大奇襲戦と呼ばれています。
由来は「頼山陽」著の「日本外史」において、厳島合戦、桶狭間と共に「戦国前期の三大戦争」と称したことが始まりと思われます。

諸説ありますが、上記の川越夜戦の流れは「新編武蔵風土記稿」から引用しました。「管領記」、「関東古戦録(関八州古戦録)」、「小田原記」の古文書を参考にしたと記しています。夜戦であったかどうかは、今なお議論が尽きませんが、4月20日に大きな合戦があったことだけは事実のようです。
新編武蔵風土記稿を直訳した川越夜戦も参考にどうぞ。

なお、東明寺の山門脇に「川越夜戦跡」の案内板が設置されています。
川越夜戦跡
所在地 川越市志多町
天文6年(1537)の戦いで、北条氏綱に川越城を取られた扇谷上杉朝定は、再びこれを奪還すべく山内上杉憲政、古河晴氏と連合して総勢8万余騎をもって、同14年10月に川越城を包囲した。一方、福島綱成のひきいる城兵は、わずか3千でたてこもっていたが、翌15年にはすでに食糧も尽きて非常な苦戦におちいっていたところ、北条氏康が8千騎をひきいて援軍としてかけつけ、4月20日の夜陰に乗じて猛攻撃を開始した。これに呼応して城兵も城門を開いて打って出たので、東明寺口を中心に激しい市街戦となった。多勢をたのんで油断しきっていた上杉・古河の連合軍は、北条方の攻撃に耐えられず散々となって松山口に敗走をはじめ、この乱戦の中で上杉朝定は討死し、憲政も上州に落ちのびたと伝えられている。敵に比べて問題にならないくらい少ない兵力で連合軍を撃滅したこの夜戦は、戦略として有名である。
昭和58年3月
埼玉県


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by ckk12850 | 2005-02-06 07:00 | 古戦場【歴史観光】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助