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太田道灌と川越城

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永享4年~文明18年(1432~1486)。名は資長、または持資といいます。備中守。入道して道灌と名乗ります。一般的には道灌で通用します。扇谷上杉氏の執事となり、文明8年(1476)以降、関東各地で武功を立てました。
築城学の始祖者として、江戸時代に持資流軍学が起こり、平城を初めて築いた人物となってしまいます。そのため、道灌が築城した城以前の城も太田道灌が築城した伝説を生んでしまうことになります。
しかし、道灌は城攻めの際、立派な陣城を築き上手に利用しました。そして支城の配置と地取りを上手に行なったことが評価されています。

では、具体的に太田道灌とはどのような人物だったのでしょうか。
一般的に川越城の築城者は誰かという話になった場合、太田道灌と答える方が多いでしょう。現在は、父である太田道真と道灌による築城とする説が最も強いようです。
建武5年(1338)、足利尊氏は京都に幕府を開きましたが、関東地方を重視、長男義詮を鎌倉に置き関東10か国を管轄します。その弟、基氏が世襲。本来これを関東管領といいます。しかし、基氏の子孫は独立傾向を強め、鎌倉公方または関東公方と称しました。その執事である上杉氏が関東管領を称しました。
永享11年(1439)の永享の乱で基氏の子孫の足利持氏は成敗されますが、宝徳元年(1449)、上杉氏ら関東の諸将は、持氏の子、足利成氏を下総の古河を本拠とする古河公方としました。一方、京都から派遣された8代将軍足利義政の弟政知を伊豆の堀越を本拠とする堀越公方とし、関東の混乱は深まりました。享徳3年(1454)に足利成氏は、執事の山内上杉憲忠を誘殺したため、上杉一族と争いが始まります。
そのような状況下、長禄元年(1457)、関東管領の扇谷上杉持朝が、古河公方足利成氏に対する防衛線として太田道真と道灌の父子に命じ、築城されました。

新編武蔵風土記稿には、河越城築城について次のように記されています。(意訳)
河越城は入間郡の西の方にあり、その郭の様子は西を首(大手)、東を尾(搦手)とする。
本丸、二丸、三丸、外曲輪、田曲輪、新曲輪(略)、3の櫓、12の城門等が備わり、本城は山により、外郭は池を背にして西南の2面のみ平地である。
兵家でいう平山城であり天然要害の地である。
小田原記等の書によれば、当城は長禄元年(1457)4月、太田備中守入道道真が上杉修理大夫持朝の命を受け、仙波にあった城を引き移して要害の縄張りの城を築いたという。また土地の人の伝えによれば河越城は古く高麗郡上戸村(現河越館)にあったという。(略)当城は上戸にあったものを、後に今のところに移したのだろう。
小田原記に、仙波から移したというがいかがなものであろうか。
東鑑(吾妻鏡)に記されている河越太郎重頼等の事跡、及び南方記伝、櫻雲記等に正平22年(1368)、関東宮方一揆を起こし、武州河越の城に立てこもる(武蔵平一揆)という。(略)また鎌倉大草紙に上杉修理大夫持朝が宝徳の頃(1449~1451)出家し、道朝と号し河越城に居住した。(略)
あるいはこの城を取り立てた(普請した)のは太田道真ではなく、その子、道灌である。道灌が築いた城は4か所あり、江戸、岩槻、忍と当城である。また当城の成功(完成)は文明元年(1469)であるが、功を起こした(起工)のは文正元年(1466)であると。この城々は皆、道真父子、主君の上杉氏の命を受けて造立したのはもちろんであるが、道真父子が在城したのは城代なのか、または賜って居城としたのか不明である。(以下略)
その後、文明9年(1477)、太田図書助資忠、上田上野介某等、松山衆を率いてこの城に籠ると鎌倉大草紙に記されている。(以下略)

太田道灌が、父太田道真から家督を継ぎ、扇谷上杉家の家老となったのは、24歳のときで、正五位下、備中守に叙任されています。
城主扇谷上杉持朝は、応仁元年(1467)、川越城で没し、政真が継ぎます。しかし、24歳で足利成氏と武蔵五十子(埼玉県本庄市)で戦い討死、その後、持朝の三男、定正が継ぎます。この頃まで、山内、扇谷の両上杉氏は協力して足利成氏と戦いました。
実権は、山内上杉氏は長尾昌賢、扇谷上杉氏は太田道灌の両家宰(家老)によって握られていたといってもよいでしょう。長尾昌賢没後、主君の山内上杉顕定は、昌賢の弟、忠景に家督を継がせたので、昌賢の子、景春は不満でした。
文明8年(1476)、ついに武蔵鉢形城から長尾景春は軍を起こし、武蔵五十子(埼玉県本庄市)に滞陣中の、主家である上杉顕定を襲撃しました。すると武蔵石神井城、練馬城の豊島泰経、泰明兄弟、相模小磯城の越後五郎四郎、相模小沢城の金子掃部助、相模溝呂木城の溝呂木氏、さらに足利成氏が景春の味方となりました。
このとき道灌は、武蔵や相模の兵を率いて相模溝呂木城、小磯城、武蔵石神井城、練馬城、小沢城を落としました。さらに武蔵小机城、相模二宮城、下総臼井城を落としました。道灌の活躍により、主家の扇谷上杉氏は武名を高め、山内上杉氏は衰退するかにみえました。
ところが影の薄くなった山内上杉顕定は、扇谷上杉定正へ「道灌に謀反の疑いあり」と讒言したのです。こうして太田道灌は、文明18年(1486)、相模糟屋の扇谷上杉定正の館で曾我兵庫助に謀殺されたのです。55歳でした。その際「当方滅亡(扇谷上杉氏は滅亡するぞ)」と絶叫し、後の川越夜戦において、その通りとなったことは有名な逸話です。

道灌は、風流人としても知られています。「常山紀談」によれば道灌が鷹狩りに出たとき、俄か雨が降ってきました。そこで、近くの小屋に寄り、雨よけの蓑を借りようとしました。ところが、その小屋の若い女性は、蓑の代わりに、無言のまま山吹の花を一枝折って差し出しました。必要だったのは山吹の花ではなく蓑だったので、道灌は怒りました。後日、「後拾遺集」にある兼明親王の古歌を引用したことが分かりました。
「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」
(七重八重に花は咲いているが、山吹は、みの(蓑)ひとつないのが悲しい)
つまり、その女性は蓑も持てない貧しさを言葉に出せず、古歌に託したのです。道灌は大いに恥じ入り、以来歌道にも励むようになったといいます。

別にこのようなエピソードもあります。太田道灌は幼少のころ鶴千代と名乗っていました。父の道真は鶴千代が自分の才能を鼻にかけているのではないかと心配し、たしなめておこうと考えました。道真は鶴千代に、次のように教えました。昔から知恵者は偽りが多く、偽りのある者は災いに遭うことも多い。例えば障子はまっすぐだからこそ立つのであって、あれが曲がっていては立たない。すると鶴千代は屏風を持ってきて、これは曲がっているから立ちますが、まっすぐでは立ちませんといったので、道真は二の句が継げませんでした。

またあるとき、道真は驕者不久(おごる者久しからず)の四字を書いた書を床の間にかけて、鶴千代にこの意味が分かるかと問いました。鶴千代はよく分かっておりますが、なお書き足してもよろしいでしょうかといいます。許したところ、不驕又不久(おごらざるもまた久しからず)と書き足しました。道真は怒って扇で鶴千代を打とうとしましたが、鶴千代は逃げてしまいました。

後世の作り話でしょうが、道灌を知るうえで興味あるエピソードです。

川越市の太田道灌屋敷も参考にどうぞ。
その他、入間郡越生町の、龍穏寺(太田道真、道灌墓所)山吹の里も参考にどうぞ。
同じく入間郡越生町の太田道真ゆかりの三枝庵自得軒も参考にどうぞ。
by ckk12850 | 2005-02-07 07:00 | 歴史解説etc

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助