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小田原城

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城名:小田原城
別名:小峯城・小早川城
城主:大森氏・北条早雲・北条氏綱・北条氏康・北条氏政・北条氏直(小田原北条氏・後北条氏)・大久保忠世・大久保忠隣・阿部正次・稲葉正勝・大久保忠朝・大久保氏
住所:神奈川県小田原市城内
遺構:復興天守閣・復興常盤木門・復興二の丸隅櫓・復元銅門・石垣・水堀他

小田原北条氏を語るに、小田原城の復興天守閣を訪問して思いを馳せるのは最高のモグリです。それが私です(笑)
家族連れですと、こんな訪問になってしまいます。本当は後北条氏時代の土塁や空堀、できれば石垣山城(石垣山一夜城・太閤一夜城)を訪問したかったのですが、同意を得るのは至難の業・・・

山川出版の日本史小辞典では後北条氏(小田原北条氏)を次のように解説しています。

後北条氏・・・関東に雄飛した戦国大名。伊勢長氏(早雲)は相模小田原を根拠地として家運を開き、自ら北条氏を称した。これを執権北条氏と区別して後北条氏という。子長綱、孫氏康の3代の間に関東地方の支配的勢力となる。氏政をへて氏直の時、秀吉によって征服された(1590)。その民政は、惣の結合が畿内の村落ほどに進まなかった関東の農村を対象として、貢租の率も低く、一揆の対策を経験しない封建化の過程を示している。氏政の弟氏規は秀吉に仕え、河内狭山に1万石を受け、江戸時代をへて明治に及ぶ。

北条早雲・・・(1432~1519)伊勢新九郎長氏。出家して宗瑞。後北条氏の祖。戦国大名の典型的人物。伊勢国関に生まれ、駿河守護今川義忠の下に頼り、ここで手腕を発揮し駿河興国寺城主となる。1491伊豆堀越公方足利政知の子茶々丸を殺し韮山に移り、1495小田原の大森藤頼を襲ってここに進出。ついで両上杉氏の内紛に乗じ相模・武蔵に進出、後北条氏5代の礎を築く。北条姓を称するのは早雲の子氏綱の代からであり、伊勢の姓も室町幕府の名族伊勢氏に系図をかこつけたものと考えられる。

北条氏綱・・・(1487~1541)早雲の子、1518家を継ぐ。用兵に優れ民政に意を用う。1524上杉朝興を江戸城に攻めて、これを陥れ、1526里見実堯を鎌倉の鶴岡に迎撃し、1535今川を助けて武田と戦い、扇谷上杉朝定を川越に破り、1538足利義明・里見実堯を鴻ノ台に破って、伊豆・相模・武蔵西部を完全に領国化し、伝馬制度を整備し、居城小田原に畿内西国より商賈を招く。また後奈良天皇に海路伊勢より絹・黄金を献上した。

北条氏康・・・(1515~1571)氏綱の長子。1552上杉憲政を越後に追い、古河公方晴氏を波多野に移し、武田信玄と交戦しのち講和して武田・今川・北条の盟約を作る。1561上杉謙信小田原城下に迫ったが、その退く際にこれを追撃して功を収めた。伊豆・相模・武蔵・上野4州を領有し、房総・下野・常陸にも出兵、戦国大名としての北条氏の最盛期を招いた。

城主の後北条氏については以上のとおりです。

ところで小田原城は応永24年(1417年)、小田原に進出した大森氏が、15世紀中頃に築城したようです。

1400年代後半、伊豆を平定した北条早雲(宗瑞)は、西相模への進出を検討していました。小田原には山内上杉顕定の重臣大森氏頼が城主でしたが、なかなか隙がない状態でした。その子、藤頼の代になり、使者を往復させ警戒心を緩め、明応4年(1495年)、
「鹿狩りをしたところ、こちらの鹿が箱根に入り込んでしまいました。勢子を入れて鹿を伊豆へ追い込んでよろしいでしょうか」
と伺ったところ、日頃の誼が功を奏し、あっさりOKだったのです。
早雲は数百の軍勢を湯本等に集め、牛の角に松明を付け、箱根山、石垣山へ追い上げました。
小田原の裏山から一気に攻められた大森藤頼は城から落ち延びました。
以後約100年間、北条氏五代の関東支配の居城となりました。

永禄3年(1560年)に上杉謙信、永禄12年(1569年)に武田信玄の軍を籠城戦によって撃退しています。
この頃は西が箱根口、北が蓮池口でした。
天正15年(1597年)以降、順次拡張され惣構(城と城下町を囲む堀と土塁)が完成しました。全長9km(一説には12km)に及ぶ当時としては日本最大の規模でした。

しかし天正17年11月24日、豊臣秀吉は北条氏に対して宣戦布告。当主北条氏直は100の城に3万5千の兵と多くの足軽農兵を籠城させ、その数は20万前後と推定されています。
一方豊臣秀吉は、先鋒の徳川家康3万を始め、東海道北上軍(蒲生氏郷・羽柴秀次・織田信雄・細川忠興・筒井定次・浅野長吉・石田三成・宇喜多秀家)14万、北国勢(前田利家・上杉景勝・真田昌幸)3万5千、水軍(九鬼嘉隆・加藤嘉明・脇坂安治・長宗我部元親)1万4千の約22万の軍勢が出陣しました。豊臣秀吉は3月1日、3万2千の軍勢を率いて京都を出陣。
4月6日、箱根湯本の早雲寺に本陣を置き、笠懸山に陣城を普請しました。これが石垣山一夜城です。6月20日過ぎの完成と考えられています。
ついに7月5日、当主北条氏直は降伏しました。
当初から和平派であった氏直、氏規は高野山へ追放となりましたが、やがて大名になりました。責任を取る立場になったのは主戦派の氏政、氏照、松田憲秀、大道寺政繁でした。

現在、昭和35年に復興された3重4階の天守閣があります。江戸時代に造られた雛形を参考に復元しています。この雛形が天守閣で展示されています。
私は最上階の土産物屋が一番良かったかも(笑)
ショックなのは、石垣山一夜城が目の前に見えたこと。これじゃ降伏しかないですよ・・・
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本丸正面には昭和46年復興の常盤木門。これは本丸の正門であり、大きな門だったので驚いてしまいました。

馬屋曲輪から二の丸に通じる銅門は、平成9年に木造で復元された見ごたえある門です。二の丸の正門です。
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二の丸隅櫓・・・これはパンフレットにも掲載されていませんでしたが、どうでもいいのかな(苦笑)

天守閣訪問の後、二の丸にある歴史見聞館に立ち寄っても良いでしょう。天守とのセット券も販売しています。ここでは北条五代ゾーンもあって、北条氏のことを簡単に解説してくれます。家族連れでも理解できます。
虎朱印のレプリカがペタンペタンできますので、記念に押しても良いでしょう。
ついでに小田原城を背景にしたプリクラも撮れちゃいます。

実は小田原北条グッズを土産に買おうと思っていたのですが、皆無に等しい状況でした。徳川家康、今川義元、武田信玄、伊達政宗、源義経、弁慶キティちゃんを販売しているサンリオでさえ、北条氏康キティは販売していなかったのですね~。コレクション増やしたかったなー。
by ckk12850 | 2007-08-22 07:00 | 日本全国【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助