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そこに城があるから
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カテゴリ:比企郡滑川町【城跡】
  • 土井城
    [ 2010-03-01 07:15 ]
  • 泉福寺館(比企郡滑川町)
    [ 2008-03-08 20:56 ]
  • 三門館(和泉の陣城)
    [ 2008-03-07 20:18 ]
  • 山田城
    [ 2008-02-23 10:36 ]
  • 山崎城
    [ 2008-02-22 22:54 ]
  • 月輪館
    [ 2008-02-18 21:11 ]
  • 羽尾堀の内
    [ 2008-02-15 20:03 ]
  • 羽尾城
    [ 2008-02-13 17:21 ]
  • 小高氏館
    [ 2008-01-17 21:05 ]
  • 城原城
    [ 2008-01-15 21:20 ]
土井城

城名:土井城
別名:―
城主:?
住所:埼玉県比企郡滑川町福田
遺構:?

「埼玉の館城跡」では、戦国時代の城とし、比企郡滑川村山田土井にあるとされています。
仮にこの記述に従い地図を確認すると、谷城付近が推定地となるような・・・
アタリならば谷城を発見していた先見の明あり!

「関東地方の中世城館(2)埼玉・千葉」では、滑川町に「城」として定義されています。

どちらも名称は「土井城」です。地名として確認できるのは沼。
ひとまず土井城入沼を訪問してみました。

土井城入沼の東、北、西方向のいずれかに存在したと考えたいですが・・・
西、東の丘陵最高部まで登ってみましたが、お世辞にも平場とは思えず。
平場としては、人工的な普請の形跡がありません。
一番まともな平場は沼の西側かもしれません。

もちろん土塁や堀は確認できず。
ただし、段築はあります。しかし城郭としての段築というよりも、農耕地用ではないかと思われ・・・
沼の西と東の丘陵は、第1、第2候補の推定地と考えたいです。

平場が形成されていないのが不自然ですが(汗)

周囲を確認すること数十分。東の丘陵を下ると浅間神社がありました。

土井城入沼の東北東になります。

案内板もあります。
「浅間神社
滑川町大字福田
遠望する前方後円墳に思われる浅間山は参道入口から社殿まで、凝灰岩が露出して独特な雰囲気がある。
伝えでは、久寿2(1155)年帯刀先生義賢が菅谷大蔵館で鎌倉悪源太義平に殺害され、その時義賢の家臣数人がこの辺りに落ちのびて土着、その子孫が天福年中に義賢の霊を祀った。(略)
山頂の池は、どんな干ばつでもかれることのない水が貯えられ古くはこの水が御神体で信仰されていたことも考えられる。(略)
平成3年 月 敬白
滑川町観光協会
滑川町教育委員会」
と記されています。

凝灰岩が露出し、山頂に池があります。

天然の要害では!?
土井城入沼周辺が土井城で良いのでしょうか・・・
浅間神社の山は土井城と関係があるのでしょうか・・・
第3の候補地かもしれません。

山田土井も気になる・・・
これが第4の候補地!?

謎が多いです。
by ckk12850 | 2010-03-01 07:15 | 比企郡滑川町【城跡】
泉福寺館(比企郡滑川町)

城名:泉福寺館
別名:―
城主:?・五所五郎丸?・比企遠宗?・毛呂太郎季綱?
住所:埼玉県比企郡滑川町和泉1675番地・泉福寺
遺構:土塁・空堀

所在地の情報は「関東地方の中世城館(2)埼玉・千葉」から。住所は和泉三門1675番地です。時代不明の館だそうです。堀と土塁が残るとされています。
また、現況は寺院、山林、丘陵とされています。
この寺院裏の遺構は三門館の備考欄に掲載されているのですが、これから紹介する泉福寺境内付近に館を構えた人物の遺構と思われます。

県道深谷東松山線(47号線)を東松山市街地方面から北西に向かうと、滑川町役場を通過後、左に二ノ宮山の展望塔が見えてきます。
「←泉福寺」と書かれた標柱が立っている信号を左折します。約1.5kmで建久2年(1191年)開山と伝わる泉福寺に到着します。
道案内の標柱をお見逃しなく。

境内の駐車場を拝借。
本堂の西の小高い場所に阿弥陀如来坐像が安置されています。案内板もあります。
「泉福寺阿弥陀如来坐像
滑川町大字和泉
阿弥陀如来坐像は国指定重要文化財で、等身大、漆箔、割矧造りの木造仏である。享保年中にこの像を修理したとき、仏像の体内に墨書銘があることが判明した。
墨書銘には建長6(1254)年5月この仏像を修復したことが記されており、施主である沙弥西願と源氏に関わりの深い女性と子供が、現世安穏と後生浄土を願い、あわせ父母の霊を祈ったものである。
脇侍の観音・勢至両菩薩は、現在県指定文化財となっているが、墨書銘に両菩薩を修復したと記してあることから、本来は、弥陀三尊として製作されたものである。
これらの仏像には平安時代の著名な仏師定朝の流儀が各所に残っているが、多分に鎌倉様式が取り入れられているので、製作年代は鎌倉時代前期と考えられる。
平成3年3月敬白
滑川町観光協会
滑川町教育委員会」
と記されています。

沙弥西願と源氏に関わりの深い女性と子供から察するに、城主(館主)は鎌倉時代初期の御家人と考えて良いのではないでしょうか・・・
三門館の城主が当てはまる場合もありますが・・・
寺が先か、館が先か、館の持仏堂が発展した寺なのか・・・

肝心な遺構ですが、本堂右手から本堂裏に回ると平場です。ここから西を見ると東西に連なる空堀が確認できます。

かなり大きな堀です。深さは約2mあります。一部、斜面の比高を利用しているので体感としては3m近くもある堀に見える場所もあります。
竪堀なのか、堀切なのか迷うところですが、立派な遺構でした。

堀の底を歩き、このまま小高い尾根部まで出ましょう。農道に出られます。農道を横切りますと、空堀は西に繋がっていました。

では南北に延びる農道は遺構なのか、道なのか、判断に迷うところです。

しかし両脇に土塁が確認できますので、遺構と考えて良いのかもしれません。
by ckk12850 | 2008-03-08 20:56 | 比企郡滑川町【城跡】
三門館(和泉の陣城)

城名:三門館(和泉の陣城)
別名:―
城主:五所五郎丸?・比企遠宗?・毛呂太郎季綱?・?
住所:埼玉県比企郡滑川町和泉1238番地・八宮神社南の一帯
遺構:土塁・空堀

所在地の情報は「関東地方の中世城館(2)埼玉・千葉」から。住所は和泉三門1238番地です。時代不明の館だそうです。堀と土塁が残るとされています。
また、現況は山林、神社、丘陵とされています。
備考として泉福寺裏の空堀としていますが、これは泉福寺館の遺構と思われます。つまり別の遺構として考えるべきかと。

県道深谷東松山線(47号線)を東松山市街地方面から北西に向かうと、滑川町役場を通過後、左に二ノ宮山の展望塔が見えてきます。
「←泉福寺」と書かれた標柱がある信号を左折します。約1.5kmで建久2年(1191年)開山と伝わる泉福寺に到着します。

城跡は泉福寺から低地を隔てた東側の丘陵、八宮神社前(八宮神社南側)にあります。八宮神社の南側の丘陵突端部と考えれば良いでしょう。

コンクリートの護岸壁の切れ間を入ると平場になります。
そのまま東に歩けば大きな空堀が確認できます。深さは1m以上。長さは目測50m以上あり、山頂部(尾根部)から一気に麓まで落とす堀なので圧巻です。

山頂部(尾根部)付近には、微妙な段築も確認できます。

「埼玉の古城址」や「日本城郭体系」では、上記東西の堀から南に空堀が延び、台地を仕切っていると解説しています。

ついでに八宮神社方面へ向かうと、赤い鳥居と本殿の間の右側(東側)に土塁や空堀跡も確認できます。じっくり探してみてください。資料によれば、遺構としていないようですが(汗)

八宮神社本殿前に案内板がありました。何かヒントがあるかも。

「八宮神社
滑川村大字和泉

祭神 素戔嗚命(スサノオノミコト) 大己貴命(オオナムキノミコト) 火産霊命(ホムスビノミコト) 倉稲魂命(ウガノミタマノミコト) 大山祇命(オオヤマツミノミコト) 稲田姫命(イナダヒメノミコト)

由緒 当社は素盞鳴命の広徳を仰ぎ奉りて里民此の地に祭神として奉祀したと云う。 創立年代は不詳であるが社地を含む小字の地名を八垣と云うのは命の詠歌の中の「八重垣」より選んだものと伝承され当社の古社たるを知ることができる。 神社前方には中世の古城址や 建久2年に開山の泉福寺が在って 往古より早く開けた地域と推察される 寛永2(西暦1625)年に村の鎮守社となり 明治4年3月村社の格に列した

祭事(略)

昭和54年12月吉日
滑川村観光協会
滑川村教育委員会」
と記されています。
ズバリ、中世城郭遺構の認識があるのですね。良かった!

全体的に北から続く丘陵突端部を空堀で仕切る城という印象でした。
by ckk12850 | 2008-03-07 20:18 | 比企郡滑川町【城跡】
山田城

城名:山田城
別名:城山
城主:小高大和守父子?・贄田摂津守?
住所:埼玉県比企郡滑川町山田1924番地(森林公園内)
遺構:土塁・空堀

「埼玉の館城跡」によれば、長方形で9100㎡(2756坪)の広さで、丘陵であるとされています。戦国時代の出城と考えられ、南に緩斜する丘陵頂面から肩部にかけて立地しています。
武蔵丘陵森林公園開園前の資料なので、所有者は吉見町の須藤氏と記されているのは興味深い記載です。

国営武蔵丘陵森林公園の南口から入園料を払って訪問します。
駐車料金は610円、入園料は400円。私は南口入口にある城山レンタサイクルの駐車場を利用しました。駐車料金200円。レンタサイクル利用の方は駐車料金無料というサービスが!10年以上お得意様です。
颯爽とチャリで南口前へ。入園直後、1mも漕がず駐輪場に駐車することに。
城跡までの道は自転車乗り入れ禁止でした(爆)
駐車料金200円を払っても、自転車を借りなくて構いません。ただし、園外の谷城城原城の訪問は大活躍するでしょう。

南口の案内板で城の位置をチェック。または無料配布のパンフレットでチェック。城跡登り口の2か所に案内表示が設置されています。案内表示から見える高台に登れば城跡です。

城跡は完全に近い状況で保存されていました。単郭方形のように見えますが、実は複雑な縄張りです。詳しい縄張図が案内板に記されています。
また、歴史についても記されています。
「山田城跡
形態・面積 卵型に近い長方形で約9100㎡ある。
築造年代目的 形態からほぼ戦国時代の出城の一つとして考えられている。
遺構 土塁(だいたい二重に見える)及空堀は良く残っており、水堀はない。
伝承記録 創築年代は不明ですが、の成田氏の被官、小高大和守父子及び贄田摂津守等が居城し、平山城としての城郭を整えていたものと思われます。天正18年、豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家によって陥落したと言われています。」
と記されています。

確かに土塁は北側を中心に二重に構えられていました。近隣の沼地も含めれば要害だったと思います。

同じ公園内にある山崎城までは、北北東、約300mです。山崎城本郭まで約500mの距離があります。
山崎城南域にある寺沼は、山田城落城時、姫君が入水したという伝説が残ります。

この沼は山崎城域に含まれるので、話が混乱してしまいますが(汗)
by ckk12850 | 2008-02-23 10:36 | 比企郡滑川町【城跡】
山崎城

城名:山崎城
別名:―
城主:?
住所:埼玉県比企郡滑川町山田1470番地(森林公園内)
遺構:土塁・空堀・寺沼

この城も山田城同様、国営武蔵丘陵森林公園内にあります。
国営武蔵丘陵森林公園の南口から入園料を払って訪問します。
駐車料金は610円、入園料は400円。私は南口入口にある城山レンタサイクルの駐車場を利用しました。駐車料金200円。レンタサイクル利用の方は駐車料金無料というサービスが!10年以上お得意様です。
颯爽とチャリで南口前へ。入園直後、1mも漕がず駐輪場に駐車することに。
城跡までの道は自転車乗り入れ禁止でした(爆)
駐車料金200円を払っても、自転車を借りなくて構いません。ただし、園外の谷城城原城の訪問は大活躍するでしょう。

南口の園内案内板で城の位置をチェック。無料配布のパンフレットには記載されていませんので・・・

山田城から北北東、最短距離で約300mです。本郭まで約500mです。

山田城通過後、古鎌倉街道の案内板があります。
「古鎌倉街道
この道は中世の頃に作られ、城と城を結ぶ軍路で鎌倉や小田原に通じていました。
かつては、熊谷次郎直実や畠山荘司重忠などの代表される関東武士が鎌倉に馳せ参じた古道です。
国営武蔵丘陵森林公園」
と記されています。

この案内板の先は、コンクリート道を歩かず、右に並行して走る土の道を歩いて鎌倉時代に思い馳せてみましょう。

古鎌倉街道に沿って9基の十三塚が並びます。
この古鎌倉街道の東の藪の中にも空堀があります。これが、城の南西部と考えられ、城域は本郭周辺に加えて更に広範囲となります。

古鎌倉街道は再びコンクリート道に合流しますが、東側の梅林付近が本郭となり、東、北、西側に見事な空堀が確認できます。完全に近い保存状況です。
特に北側の空堀は長さ200m前後あると思われ、また堀の一部には折りが見受けられ、非常に大きな遺構であることが分かります。

梅林から南東にある「寺沼」は、山田城落城時、姫君が入水したという伝説が残ります。この沼は山崎城域に含まれるので、話が混乱してしまいますが(汗)

寺沼を城域と考えるならば、全貌を把握することが難しくなってしまうようです。「埼玉の館城跡」では5ヘクタール(5町歩)の広さと推定しています。
by ckk12850 | 2008-02-22 22:54 | 比企郡滑川町【城跡】
月輪館

城名:月輪館
別名:大堀・大堀館・九条館
城主:月輪(九条)兼実?・?
住所:埼玉県比企郡滑川町月輪1586番地
遺構:土塁・空堀

所在地の情報は「関東地方の中世城館(2)埼玉・千葉」から。住所は月輪大堀1586番地です。室町時代の館だそうです。堀、土塁が残るとされています。
また、現況は山林、宅地、台地とされています。

東松山市街地方面から見て、国道254号線バイパス月輪交差点を右折。フジミ工研」が見えたら左折します。細い道を左折すれば館跡の南側に出られるし、住宅地が左奥に見える信号を左折すれば館跡の北側に出られます。規模は南北250m、東西150mの館だそうです。
水房館に向かう途中、何故かトヨタのカーナビが館跡南側のクランク状の細い道を通過するよう指示しました。私に訪問して欲しかったのかな(苦笑)
館跡の北側は住宅地ですが、館跡は林になっています。林の中には立派な空堀が残っています。住宅地と林の間の空き地は、近い将来住宅分譲地となってしまうのでしょうか。
館跡中心には所有者の方の墓地がありました。墓地を基点に東、北、西を散策してみると良いでしょう。

北側の空堀は東西に延びる一直線の空堀です。これが百間堀です。百間という名に相応しい長い堀です。圧巻です。深さは約50cm。土塁も確認できます。
西側は堀の深さが増し、約1mあります。

館跡北西隅に祠がありました。何が祭られているのか不明なくらい朽ち果てていました。

これだけの大きさの館が何に利用されたのでしょうか。夢は大きく月輪兼実の館と信じることにしましょうか・・・
by ckk12850 | 2008-02-18 21:11 | 比企郡滑川町【城跡】
羽尾堀の内

城名:羽尾堀の内
別名:羽尾館
城主:藤原恒儀青鳥判官?
住所:埼玉県比企郡滑川町羽尾4806番地・羽尾神社(恒儀神社)
遺構:土塁?・空堀?・用水路

東武東上線森林公園駅の東を通る県道深谷東松山線(47号線)を森林公園に向かい、羽尾南交差点を左折。羽尾南交差点から約1.5kmの場所に羽尾神社があります。
近所に巨大ショッピングセンターがオープンしたので、神社から眺めることができます。うっかり近寄ると大渋滞に巻き込まれるので避けましょう。

神社には案内板があります。
「羽尾神社
滑川町大字羽尾
祭神 倭建命 藤原恒儀
当社は恒儀様と称され町崇敬の産土神社である 勧請年代は伝来の古書に倭建命天長酉(西暦829年)鎮座と明記されている
また別の祭神藤原恒儀青鳥判官と称し隣地東松山市に在る青鳥城址の城主で天長6年9月20日の卒した人と伝えられ後年に至り当社に合祀されたと云う そして此の神社は藤原恒儀の嫡子恒政と家臣藤原竹連によって創建されたと伝承される
明治4年村社となり大正5年4月指定村社に昇格した
滑川町教育委員会
同観光協会」
と記されています。

神社本殿は東向きに建立されています。特に本殿裏(西側)の土塁、空堀らしき遺構が認められます。

境内北側の用水路も気になります。

堀の内の地名が残っているのでお付き合いしていますが、藤原恒儀と関連する館でないとするならば、神社遺構としか思えません。また、青鳥城主とされる藤原恒儀との関連も見出すことが困難です。
羽尾神社(恒儀神社)の世襲の神主である設楽家の縁起を読みました。羽尾、青鳥と藤原恒儀の関係が記されているのですが、現代訳が困難で、ますます不明になってしまいました(苦笑)

城館跡の他、環濠集落、寺内町にも使われる「堀の内」という言葉が謎を増す皮肉な遺構です。
by ckk12850 | 2008-02-15 20:03 | 比企郡滑川町【城跡】
羽尾城

城名:羽尾城
別名:羽尾館・宮前城
城主:山崎若狭守・山田伊賀守?
住所:埼玉県比企郡滑川町羽尾5344番地
遺構:土塁・空堀

滑川村誌によれば、築城は元亀3年(1572年)とされています。山崎若狭守は普請奉行で、城主は当初山田伊賀守だったそうです。天正18年、豊臣秀吉の小田原攻めにより、徳川方の前田・上杉・真田連合軍が来攻、羽尾城は前田利家の軍に包囲され、激戦数十日、戦闘熾烈の攻防を繰り返しましたが、4月上旬散る桜と共に陥城したそうです。

羽尾城将が松山城に籠城した有様が、この城に伝えられたのでしょうか。
それとも激戦数十日に耐えられるよう、羽尾城の土塁を二重に普請したけれども・・・ということでしょうか。

羽尾城主と思われる山崎若狭守は松山城主上田安独斎?(上田朝直?)の家臣で、羽尾地区を開拓した羽尾七騎の筆頭だそうです。

城跡は、東武東上線森林公園駅の東を通る県道深谷東松山線(47号線)を森林公園に向かい、羽尾南交差点を通過。もう1つ先の交差点を右折します。右折後、400m右側に集会所(滑川町羽尾打越・金光地集会所)があります。

この集会所の南、十数mの場所が城跡の北側です。私は集会所の裏手を直登しました(笑)
最も近道でしたが、周辺の未舗装の道を高台に向かって歩けば城跡です。

北側は二重の土塁と、未舗装の道も含まれると思われる二重の堀。後世、意図的に普請されたものでないとするならば、これだけはっきり二重の土塁が確認できる城跡は珍しいでしょう。

西側も土塁と空堀があります。この近辺が城の西端のような雰囲気です。また、残存状況も良好です。

南側は市野川に面した河岸段丘になっています。川の流れを巧みに利用しています。しかし・・・宅地分譲が始まっていました。数年後には、城の南側は消滅してしまうでしょう。
東側は畑です。畑の所有者の方から話を伺うことができました。

「未舗装の道路沿いに土塁や空堀があるでしょう。そこが羽尾城跡ですよ。
藪の中は何もありませんよ。この畑も昔は城跡で、土塁や空堀があったんですよ。畑にして何も分からなくなっちゃったけどね・・・」
う~ん、城の東端は未舗装の道路に沿っていたのでしょうか。そうすると扇状地の台形のような郭の形の城だったのかな・・・

単郭に見えますが、実際は南に2つの腰郭を足して3つの郭から構成される城のようです。ちょっと見た感じでは分かりませんが。
by ckk12850 | 2008-02-13 17:21 | 比企郡滑川町【城跡】
小高氏館

城名:小高氏館
別名:―
城主:小高氏?
住所:埼玉県比企郡滑川町福田・福田馬場集会所北西の丘陵
遺構:土塁・空堀・山頂平場・段築

「関東地方の中世城館(2)埼玉・千葉」では、住所は福田馬場、戦国時代の館だそうです。
また、現況は山林、墓地、台地。遺構として堀が残るとされています。

「埼玉の館城跡」では、安土桃山時代、福田馬場にある「小高氏館」として簡略に紹介しています。

共通点は小高氏が戦国の頃、福田馬場の地に館を構えたということになります。

武蔵丘陵森林公園の西にある福田小学校が目印です。その北、約200mの福田馬場集会所が次の目印です。ここに駐車。

集会所から北西の館跡推定地の丘陵を見渡せば、道路に面して民家が1軒しかありません(汗)
う~ん、ここの家を尋ねてみよう。登城許可を頂戴しないと館跡推定地への訪問が困難です。
城館跡の存在はご存知ではありませんでしたが、山頂に登る道はあるはずと教えてくれました。通行許可も頂戴しました。

早速登ることに。まず、民家裏庭の平場を確認。東側に空堀(溝?)がありました。中央にも空堀(溝?)が貫通していました。

北西(山頂)に向かって登ると小さな祠が。この周辺、腰郭のような平場が形成されていて山頂の南側を取り囲むようになっています。笹藪によって全貌把握は困難ですが段築であることは判断できます。

そのまま背丈ほどある笹藪を抜け、山頂付近に。過去最高レベルの藪でした(汗)
倒木の上から写真を撮ったものの笹藪しか写っていませんでした(爆)

一度、民家裏庭の平場に下りて再挑戦。今度は北北東に進路を取れ(苦笑)
つまり山頂の東の尾根に出ようと試みました。
いきなり竹藪。切り倒された竹の上を歩いてボキッと折ったり、竹の下を潜って頭をぶつけたり・・・
しかし、麓の平場から山頂東側まで縦(一直線)に延びる空堀が確認できました。一部空堀に沿って長さ約10mの土塁もありました。高さは比高も考慮して最大約2m。おお、素晴らしい遺構だ!

この空堀を登るのが最も有効な登山道かと思います。山頂付近は北西から南東に、南東から北東に向かってL字状の空堀(溝?)があります。深さ約50cm、幅が同じく約50cm。
長さは途中まで歩測しましたが、腰くらいまでの藪、ひっつき虫のために断念。まったく測ることができません。数十mあると思われます。
このL字状の空堀(溝?)から派生した巨大な空堀が、民家裏庭に向かって続いていたのです。

最後に、民家裏庭の平場にある空堀(溝?)の線を追ってみました。福田馬場集会所の向かい側近くまであるように見えました。

溝の遺構が謎ですが、空堀(竪堀)は城館遺構だと思うのです・・・

小高氏については城跡ほっつき歩き様サイト内、滑川町小高氏館で詳細が記されています。
by ckk12850 | 2008-01-17 21:05 | 比企郡滑川町【城跡】
城原城

城名:城原城
別名:―
城主:伊勢新九郎治重?
住所:埼玉県比企郡滑川町山田1691番地近辺
遺構:空堀?・山頂平場

「埼玉の館城跡」では、南は滑川を望み、北は山を負い、小高き所は本丸なりという。ここには御殿台の跡と称せられる箇所があると記されています。
関連事項として伊勢神社。
文献が神山熊蔵氏の郷土誌のようで。

「関東地方の中世城館(2)埼玉・千葉」では、住所は山田城原、時代不明の城だそうです。
また、現況は畑、丘陵。遺構として堀が残るとされています。

城跡推定地は城跡ほっつき歩き様サイトを参考にさせて頂きました。

県道森林公園停車場武蔵丘陵森林公園線(250号線)沿いにある「武蔵丘陵森林公園南口」から東方面、約300mに見える独立丘陵です。
麓に山田下集会所があるので目印にしてください。ついでに駐車も可。

この集会所の南西(目の前)にある山が城跡らしいのです。
集会所から見て、北(左)から訪問すると、登山道が簡単に発見できます。民家の脇から入れます。

畑を通過すると墓場群です。つまり山頂の平場です。

勇気ある方は、南西(右)の道路に沿って並ぶ民家の許可を頂戴して、裏庭を通過、裏山に登らせてもらえば大丈夫。大体の方が好意的で、許可さえ頂ければ「どうぞご自由に」と返事がもらえると思います。多くの家の犬がやたら吠えますが(汗)

すべての家が、裏庭を通過して裏山に登れるようになっています。あっという間に山頂です。
麓に滑川山荘という宿がありました。ここに泊れば無条件で裏山散策OKなのかな(笑)

私は両方試してみました。理由は城跡らしからぬ状況だったためです。
山頂付近は墓場群。この雰囲気は何???思わず寂しくなって空の写真を撮ってしまいました。
また北西から南東に延びる尾根に道が貫通しています。
山頂付近から民家(南西)に向かって、堀切?竪堀?と思われる数本の空堀がありましたが、遺構という確証は得られませんでした。

麓に戻って数人の方に伺いました。
城原、御殿台、城跡、伊勢という言葉に反応がなく、城跡推定地は単純に「墓」または「裏の山」と呼んでいるそうです(汗)
御殿台跡だけでも特定できたらと思いましたが・・・
土葬の名残でしょうか、小さな塚が多かったような・・・
城跡というより墓地群です。
by ckk12850 | 2008-01-15 21:20 | 比企郡滑川町【城跡】