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岩槻城

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城名:岩槻城
別名:白鶴城・浮城・竹束城
城主:太田道真、道灌、資家、資頼(道可)、資正(三楽斎)、氏資・北条氏房・高力清長・青山忠俊・阿部氏・板倉重通・戸田忠昌・松平忠徳・小笠原氏・永井氏・大岡忠光、忠喜、忠要、忠烈、忠正、忠固、忠恕、忠貫
住所:埼玉県さいたま市岩槻区太田
遺構:黒門・裏門・土塁・水堀・空堀

「日本城郭事典」によれば、複雑な主要部と新郭を中心とし、その周囲を沼が取り巻き、さらにその外側を外郭が取り巻く壮大な城であったと記しています。
湖沼を城内に取り入れ、完璧な外郭を有する近世城郭は当城のみといえる、と絶賛しています。

城跡は県道さいたま春日部線(2号線)をまたいでいます。
本丸にもわずかな遺構があるそうです。県道沿いのガソリンスタンドには本丸跡の石碑があるそうです。
岩槻駅付近、愛宕神社には大構えの遺構が残っているそうです。

遺構が集中する付近は「岩槻城址公園」となっています。オカリナを吹く人、鯉に餌をあげる親子、30人31脚の練習をする中学生・・・短時間にいろいろな方を見かけました。
この付近は新曲輪と鍛冶曲輪の跡です。
鍛冶曲輪には「白鶴城址碑」の石碑がありました。ここが本丸跡と勘違いする方も多いようです。
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沼地も残り、八ツ橋という美味しそうな名前の橋は、公園のシンボルとなっています。
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新曲輪に黒門と裏門が移築復元されていますが、中途半端な場所に建てられているために盛り上がりに欠ける気が・・・
黒門は木材部分が黒く塗られていることから黒門だそうですが、城内のどの部分の門か不明だそうです。大手門という説があります。
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裏門も城内のどの部分の裏門か不明だそうです。搦手門という説があります。
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どちらも旧岩槻市指定文化財です。

新曲輪と鍛冶曲輪の間の空堀は「堀障子」であり、「畝」ともいいます。堀底に設けられた障害物で、敵の移動を妨げる効果があります。
掘障子は、小田原城、山中城、伊奈陣屋等から発見されていて、後北条氏特有の築城技術です。
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元荒川に守られた城は、長禄元年(1457年)、関東管領の扇谷上杉氏の当主上杉持朝が、古河公方に対する防衛線として太田道真と道灌の父子に命じ、江戸城、川越城と共に築城されたことに始まります。
一方、古河公方は、忍城菖蒲城、野田城、関宿城、羽生城を最前線の城としていました。
その後、太田氏の本拠地として受け継がれました。永禄7年(1564年)、城主氏資の代、小田原北条氏に従属し、父資正(三楽斎)は追放されてしまいます。ところが永禄10年(1567年)、氏資が戦死、北条氏政の3男十郎(氏房)を新たな城主として送り込み、完全に支配下としたのでした。
この氏房が天正11年(1583年)、大改修を行い、本丸、二の丸、三の丸、新曲輪、鍛冶曲輪を普請し、城下町を取り囲む全長8kmの大構えを普請しました。
ミニ小田原城を意識していた氏房に感心するばかりです。
by ckk12850 | 2008-10-26 07:00 | さいたま市【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助