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宮寺館

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城名:宮寺館
別名:宮寺氏館・加納下野守城
城主:宮寺氏・加納下野守・伊能尾(狩尾)氏
住所:埼玉県入間市宮寺489番地・西勝院
遺構:土塁・水堀

「埼玉の館城跡」では、不規則1016平方メートル(1823坪)の広さの館としています。
築造年代は鎌倉時代(正中2年頃)、加納下野守が居住し、土塁・水堀の一部が残存していると記されています。

加納下野守は村山党に所属した武士で、後醍醐天皇の御代、宮寺に館を構え、新田義興に従って正平7年3千余騎を従えて、武蔵小手指ヶ原で戦っているが、その他のことは不明とも記されています。

加納下野守城のネーミングより、宮寺館が適切かと思われます。

さて訪問。
いきなり道に迷って西の通用口から訪問することに(苦笑)
本堂前に到着すると、土塁が見えました。境内に土塁が確認できるとは思ってもいませんでした。
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案内板もあります。
「市指定史跡 宮寺館跡
指定年月日 昭和59年7月25日
桓武天皇9代の孫、村山(平)頼任は、今から約9百年前、村山に住み武蔵七党の一つ村山党の祖となった。その子孫は、枝葉のように入間郡を中心に大武士団となり、源頼朝の鎌倉幕府成立に大きな力となった。
村山(平)頼任の子、頼家には四子があり、その二男の家平が宮寺の領主となって宮寺五郎家平と称して、この地に居館を構えたのである。
すでに8百年以上も昔のことであり、この居館跡の全体遺構を見ることはできないが、西勝院境内南側、東側の土塁と空堀また山門手前左側土塁の痕跡は明らかに当時の遺構の一部である。さらに西側を流れる溝が館の掘であったと推測され、したがって内側に土塁が、構築されていたと考えられ、この溝は西勝院の境内を囲むように西側から北側に及んでいる。
鎌倉幕府滅亡(西暦1333年)時には加納下野守が、ここに住んだと伝承され、江戸時代には伊能尾(狩尾)氏が住んだと伝えられている。
昭和59年7月
入間市教育委員会
入間市文化財保護審議会」
と記されています。

もしかすると、土塁は江戸時代の普請かもしれない・・・
山門手前の土塁の痕跡、これは見落としたかも(苦笑)

寺の周囲を散策。山門前の標柱は「市指定文化財 宮寺氏館跡」でした。
南側の用水路は堀の名残なのでしょうか。
案内板に記されていた西側から北側に続く堀はお見事。コンクリートの護岸が少し残念ですが。
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いずれにしても、複数の時代に使われた由緒ある館跡です。入間市内ではトップクラスの遺構でしょう。
by ckk12850 | 2009-06-04 19:00 | 入間市【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助