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老袋城

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城名:老袋城
別名:御所跡
城主:足利晴氏?・道祖土康成・道祖土康満
住所:埼玉県川越市大字下老袋・旧玉泉寺跡
遺構:微高台地・旧入間川

城跡は一般的に川越運動公園の東、玉泉寺(下老袋農民センター)と伝わります。現在、玉泉寺は墓地のみとなっています。
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しかし、これが正しいのか間違っているのか・・・
地図はこちら

江戸時代(1680年)の入間川の流れは、現在の川越市の陸上競技場の東側を南向きに流れ、現在の玉泉寺の南側を東向きに流れ、その後、現在の玉泉寺の東側を北向きに流れています。
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現在の下老袋地区は東南西の三方を入間川に囲まれた天然の要害だったといえます。つまり入間川を渡らない城への侵入は北方面のみという要害になります。
推定地付近の用水や沼地は、旧入間川であった名残です。

新編武蔵風土記稿の下老袋村、御所跡の項には次のように記されています。(意訳)
村の南西の方角にあり、道祖土(さいど)氏の系図に、下総守が北条氏康(小田原北条氏)から康の字を賜り、康成と名乗り、比企郡老袋城に住んだ、と記されている。康成は、元亀元年7月7日に没した。また、その孫、図書助康満も、この地で50貫を領すとあるので、恐らく道祖土氏の屋敷のあった場所ではないだろうか。しかし、道祖土氏の屋敷跡を御所跡というのは、その詳細が不明である。

天文14年から15年(1545~1546)、川越夜戦の際、川越城を取り囲んだ軍勢として、山内上杉憲政は砂久保に、扇谷上杉朝定は東明寺に、古河公方足利晴氏は老袋に陣を構えた可能性があります。
御所とは、古河公方である足利晴氏が陣所ではないでしょうか。長期の対陣ですから、関東公方が雨露に当たらないよう陣所を普請したことでしょう。
そして、川越夜戦で北条氏康が勝利し、小田原北条氏支配後、道祖土氏がこの地を領したのではないでしょうか。
なお、現在でも道祖土姓が比企郡川島町に在住しています。道祖土様によれば、岩槻城主に属していたとのことです。

近所で農作業をしている方に興味深い伝えを伺いました。
1.城跡または館跡があるという話は聞いたことがありません。
2.昔、この近辺は松山城(比企郡吉見町)の代官領でした。
3.鉢形城落城後、城主の姫君が、この地に移り住んで、墓も存在します。最近、子孫の方が供養をしました。
4.道祖土姓は聞いたことがありません。この近辺のほとんどの住人は関根姓です。

以上を考えますと、代官が道祖土氏であり、古河公方足利晴氏の陣所跡に、道祖土氏が代官として屋敷を構えたのでしょうか。

さて、老袋城跡探しを始めて10年近く経過、やっと稲荷神社が櫓台という説のある関根様に話を伺うことができました。下老袋農民センター前にあるお宅です。
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老袋城を探しているのですか?まったく所在地が不明な城ですね。ここが城跡という説はあり得ないでしょう。この稲荷神社が櫓台(望楼)ですか!?初耳です。
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私も歴史が大好きです。まず玉泉寺の位置ですが、違う場所から移転してきています。恐らく、御所造営の際、玉泉寺が強制的に現在地に移転させられたのではないでしょうか。御所と旧玉泉寺跡は同じ場所だったと思います。移転前の旧玉泉寺跡は、老袋地区で最も高台となっています。
新編武蔵風土記稿に、村の南西と記されていますよね。現在の玉泉寺は村の南東になってしまうのですよ。
あと、我が家の稲荷神社ですが、札の裏側に慶長の年号が記されています。思うに、城内にあった稲荷神社が玉泉寺に移動し、明治2年に玉泉寺から預かったんだと思います。
今のところに江戸時代の寛文年間から住んでいますが、洪水対策のために高台としたものです。城跡ではないということ、玉泉寺が現在地と違うということを多くの方に知って頂きたいですね。
寺の本の取材があったのですが、私が玉泉寺の旧所在地等を教えました。本の内容の大半は私から聞いた話が掲載されています。

貴重な話をありがとうございます。移転前の旧玉泉寺跡まで案内して頂き感謝の極み。
歴史好きな方だと話が早いです。新編武蔵風土記稿の記述を完全に覚えてらっしゃいました。

寺の本の取材は、平成小江戸川越古寺巡礼(平成18年信州信濃浄土出版会発行)のことでしょう。玉泉寺について詳細が記載されています。
川越市の下老袋に、天台宗の古刹で知られた玉泉寺という寺があった。(略)
現在は、地元老袋の集会所が建てられていて、「下老袋農民センター」と称して利用されている。その隣接地に墓地がある。この墓地も、玉泉寺の境内の一部であったという。今は、地元檀家のための共有墓地となっている。(略)
言い伝えによると、玉泉寺は下老袋字弁財天という地名の高台に建立されていたという。この高台には、それ以前に岩槻城の出城として、老袋城が築かれ、また、城の東北には、氷川神社も建立され老袋は戦国時代の重要拠点となっていた。(略)
天正18年(1590)豊臣秀吉は天下統一を進めるため、北条氏の支配する関東制覇に乗り出し、小田原をはじめ江戸、川越、松山、鉢形、忍、岩槻の各城を攻めた。この時、老袋城も落城し、戦死した武士や農民の霊を弔うため城跡に玉泉寺が建立されたという。室町時代後期のことである。しかし、秀吉から徳川家康に引き継がれてから、この寺も盛衰を繰り返したが新生川越藩の命により現在地に移転したという。(以下略)

旧玉泉寺跡を訪問しました。
比高約3m。十字路を中心に付近の最高地点というだけあって、周囲は棚田や段々畑のようになっていました。城跡らしさが伝わってきました。
十字路の北西が旧玉泉寺跡です。十字路の北東には歴史のありそうな屋敷がありました。
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稲荷神社の移転があったため、城跡推定地も一緒に移転してしまったのでしょうか・・・

謎の老袋城推定地は、関根様説をもって正解といたしました。

旧玉泉寺跡を城跡と仮定した場合の立地条件は・・・
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現在の玉泉寺(下老袋農民センター)を城跡と仮定した場合の立地条件は・・・
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老袋村の南西にある最高地点、それが旧玉泉寺跡である伝えがあるため、「関根様説」で間違いないと思われますが・・・
地図はこちら

by ckk12850 | 2005-03-25 07:00 | 川越市【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助