真岡城
2013年 11月 01日

城名:真岡城
別名:芳賀城
城主:芳賀氏
住所:栃木県真岡市台町
遺構:土塁・空堀・平場
目印は「真岡小学校」です。付近は「城山公園」となっています。
カーナビに「城山公園」の表示があったので、迷わず訪問。
小学校のグラウンドが本丸、二之丸、三之丸となっているようで、遺構は「なし」と思っていましたが、山麓付近の土塁、空堀、その他大手口が良好に残っていると知ったのは後日談。
校門前に案内板があります。
「真岡城(芳賀城)について
真岡城は、宇都宮氏との縁戚関係にある芳賀氏(清原氏)の居城である。芳賀氏は益子の紀氏とともに紀清両党と呼ばれ、太平記にも「元より戦場に臨んで命を捨てること塵芥(ごみくず)よりもなお軽くす。」とその勇猛さを称された名族である。
真岡城の築城には
貞治元年(1362) 15代 高貞築城説(続群書類従)
天文元年(1532) 21代 高経築城説(広沢家古記録)
天正5年(1577) 23代 高継築城説(下野国誌)
の三説があるが、高貞が御前城(真岡市田町・現真岡東中学校)から移転築城し、高継が後北条氏の侵攻にそなえ堅固な城郭に改築したと考える説が有力である。
廃城は、宇都宮氏が豊臣秀吉によって改易された慶長2年(1597)で、最後の城主は高武である。
(略)
平成11年3月
真岡市教育委員会」
と記されています。
ほんの数分の訪問だったので、ここまで・・・
埼玉県の芳賀入道禅可(高名)の史跡といえば、入間郡毛呂山町の苦林野古戦場、東松山市の足利基氏館が有名です。
毛呂山町歴史民族資料館の資料より抜粋。
「禅可は栃木県真岡市を中心とした芳賀郡域を支配していました。その出自は天武天皇の系統、清原氏に始まるといいます。代々朝廷に仕えましたが、平安時代中期に芳賀郡に配流となり、6代後、高澄のとき姓を芳賀としました。宇都宮氏と密接に関係し、源頼朝の配下になりました。
鎌倉幕府が滅んだ後、同じ下野国(栃木県)の足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、芳賀氏は北朝に味方します。その頃活躍したのが禅可(1291~1372)でした。彼の父の高久は尊氏とともに南朝勢力と戦います。
観応2年(1351年)、禅可は南朝に寝返った尊氏の実弟直義を駿河薩唾山の戦いで破ります。その功績として越後守護職に任命されます。
貞治元年(1362年)、室町幕府2代将軍義詮の弟、基氏が南朝方の上杉憲顕を許し、補佐役にしたうえ、越後守護職まで与えます。
越後で芳賀軍と上杉軍は戦いますが芳賀軍が破れ、翌年8月、武蔵国苦林野で合戦に至りました。
禅可の命を受けた嫡男の伊賀守高貞と次男駿河守高家は合戦で敗北しましたが、宇都宮氏のとりなしで追討を免れ、禅可は82歳の生涯を隠棲した真岡で閉じました。」
by ckk12850
| 2013-11-01 07:00
| 日本全国【城跡】



