徳川義季館

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城名:徳川義季館
別名:徳川館・徳川氏館
城主:徳川義季
住所:群馬県太田市徳川町388番地6
遺構:徳川東照宮・伝新田義重夫妻の墓

場所が不明であれば、縁切寺満徳寺資料館の係員に伺えば丁寧に教えてくれます。

縁切寺満徳寺資料館の北側にあります。
そこに徳川東照宮があり、正面右に「東照宮」、左に「徳川義季公館址」の石柱があります。

満徳寺は、徳川義季を開基とし、義季の娘浄念比丘尼(じょうねんびくに)を開山として創建されたと伝えられますので、館寺なのか、持仏堂が発展したのか迷うところです。
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尾島かるたの案内板もあります。
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徳川氏 発祥の地 尾島町
江戸幕府の将軍家徳川氏の先祖は尾島町にはじまるといわれます。新田義重の子の義季は世良田周辺地域を領地とし、世良田氏・徳川氏の祖となりました。義季から八代目の親氏が各地を流浪したすえ、三河国松平郷(現愛知県豊田市松平町)の豪族の女婿になり、その九代目の家康が名字を松平から徳川にかえたということです。


東照宮の北東の畑の中にある「伝新田義重夫妻の墓」は館域に入るものと思われます。
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案内板があります。
徳川氏館跡の宝塔
所在地(読めず)
新田義重の二男(あるいは四男)義季は、父より新田庄内徳川(読めず)などを譲られ、徳川に館を造り、徳川氏を称した。
義重は義季を特に愛し、夫人と共にこの館において晩年を送り、没後邸内に葬られたと伝えられている。古来よりこの一郭は、義重夫婦の墓所と伝えられ、徳川幕府により特別に保護されてきた。
宝塔は凝灰岩製で、現存部分の高さは140cm、相輪上部を欠失し、屋蓋は三個に破損し鉄箍が巻いてあるが、塔身・基礎等はなお良く、造立当初の形を存しており、往時をしのぶことができる。
傍らの塔も凝灰岩製で、今は基礎が遺存するのみだが(欠失した時代は不明)、宝塔と同時代に造立された塔と考えられる。
なお宝塔の屋蓋は三個の切石で造られたようになっているが、地震が他の災害で倒れ、三個に割れたのを割目を削り取り、鉄箍をかけて整えたためであろう。塔身および軒口の厚さに比較して小さく感じられるが当初は一つの石で現在より大きかったと考えられる。鉄箍には、「天保八年丁酉七月」の刻銘がある。修理した時の銘であろう。
昭和四十五年二月の墓地整備の際、宝塔および他の基礎の下より、一個ずつ立派な四耳壺の灰釉陶器(肩部に四個の撮のある草木灰を釉とした壺)が出土し、いずれも火葬骨で満ちていた。
遺骨は塔下に埋葬し、骨壺は満徳寺に保存されている。二個とも宝塔と同時代の瀬戸、常滑の焼成と考えられる。
昭和五十五年三月(読めず)

かなり古い宝塔のようです。
それにしても義重は義季を愛した・・・って、江戸時代に創作された話ではないことを願うばかりです。

なお、「歴史の旅 太平記の里 新田・足利を歩く」によれば、館跡の北側に土塁の一部が残ると記されていましたが、確認できませんでした。
東照宮の地図はこちら
伝新田義重夫妻の墓の地図はこちら
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by ckk12850 | 2018-08-01 07:00 | 日本全国【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助