海野宿
2019年 12月 15日
名称:海野宿
住所:長野県東御市本海野
無料駐車場が白鳥神社の隣にあります。
白鳥神社を見学後、海野宿巡り。
入口には案内板があります。
重要伝統的建造物群保存地区
東御市海野宿
昭和62年4月28日選定
海野宿の成立は寛永2年(1625)と伝えられる。宿場の東端に白鳥神社があり、街道のほぼ中央には用水が流れる。 宿場の東西には桝形が置かれ、その約六町(650m)の長さであった。宿場時代の建物の多くは旅籠屋造りで出梁造りや海野格子と呼ばれる二階の出格子が今もよく残されている。
江戸時代末から明治時代以降には、蚕に病気が出にくい気候環境と、矢島行康らの先駆者の指導により、養蚕業・蚕種業で栄え、その富により建設された壮大な建物は宿場時代の風格を受けつぎ、江戸期の建物と調和して、現在の町並みを形成している。
文部科学省 長野県 東御市
一般の方も居住しているため、思ったより昼食の場所が見当たらず…
土産用のリンゴを購入して退却です。
偶然、白鳥神社の道を挟んだ河原沿いに木曽義仲挙兵の地の案内板がありました。
木曽義仲挙兵の地(白鳥河原の勢揃)地図はこちら
治承5年(1181)6月、後白河法皇の第二皇子、高倉宮以仁王の発した平家討伐の令旨に応じ木曽に旗揚げした木曽次郎源義仲は、丸子の依田城を経て、ここ白鳥神社前に広がる千曲川原「白鳥河原」に挙兵しました。平家物語、源平盛衰記に語り継がれる「白鳥河原の勢揃」です。義仲のもとに馳せ参じたのは樋口・今井・根井・楯といった木曽四天王の家臣団をはじめ、地元の海野、祢津、望月、小室ら滋野一族を中心とした東信濃の豪族と、西上州の武士団が集結。その数、二千騎とも三千騎とも云われています。 当時の海野郷は滋野一族の宗家、海野氏の本領であり、経済、交通、軍事の要衝でした。
義仲は長野の横田河原、越中の倶利伽羅峠で平家大軍を撃破し破竹の勢いで京都に上洛。寿永3年(1184)1月、征夷大将軍に任じられるも、その十数日後、近江粟津で戦死、旭将軍の挙兵はわずか三年の悲運に終わります。
木曽義仲挙兵において中核を担った海野氏。中原兼遠から義仲を託された当主・海野幸親のもと、嫡男・海野幸広は侍大将を担い(備中水島の海戦で戦死)次男・海野通広は義仲の祐筆で軍師としても活躍した太夫房覚明であると云われています。 また、幸広の嫡男・海野幸氏は義仲の滅亡後に源頼朝に仕え、鎌倉武士の弓馬四天王として名を馳せました。
東御市教育委員会
by ckk12850
| 2019-12-15 07:00
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