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鎌倉街道(東松山市岩殿)

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名称:鎌倉街道跡
住所:埼玉県東松山市岩殿

「東松山市 鎌倉街道」で検索したところ、知らない鎌倉街道がありました。

何とか到着。地元有志の方が建てた石碑がありました。
鎌倉街道(東松山市岩殿)_c0051112_20163485.jpg

史跡 鎌倉街道跡
この街道は鎌倉より武蔵国の中央を南北に走り入間川を渡り上戸広谷石井吉田田木を通り青鳥村岡熊谷妻沼を経て上野国新田方面に至る古道で通称鎌倉街道と言う。応永年間別府入道代内村勝久到着状にもあり承元4年小代八郎行平譲状には「吉田村の四至として西にだいどう古道北はたむきの境をかぎる」と記されて古道と集落の存在を示している 文治3年奥州平泉に源義経の後を追いし熊野の豪族鈴木三朗重家は洪水のため閻魔堂に一夜の宿を求め今に鈴留川の地名を残せり 閻魔堂とは北の台地にてこの付近は山門跡なりと言い伝う 中世文書に館跡寺院跡とうの所在を窺わせ大道と言う名称を用いられていたが近世五街道制の整備と共に消滅し伝承を残すのみである 今や急激なる都市化が進みその姿を失うに至ったのでここに同志相計り碑を建設し後世に伝えるものである
昭和59年4月10日

句読点がないため読みづらいのですが、上戸、広谷、石井、吉田、田木を経由してというのは無理があるように思います。
むしろ、鎌倉街道上道の枝道ではないでしょうか。
近所の足利基氏館(塁)は、1362年(通説は1369年)、反乱を起こした宇都宮氏の一族、下野(栃木県)の豪族、芳賀伊賀守高貞入道禅可が反乱を起こした「岩殿山合戦」の際の足利基氏の本陣跡とされ、下野へ進軍しています。恐らくは、地元豪族の館を陣として使ったのではないかと考えられています。ここから下野方面に向かったことを考えると、上戸の河越館からの経由とは思えないのです。
もちろん鎌倉時代の話ではないので、確証はありません。

しかし、このような石碑を建て、後世に伝えようとする努力は大切ですね。
地図はこちら
by ckk12850 | 2019-11-01 07:00 | 街道【歴史観光】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助