人気ブログランキング |

羅漢山砦

c0051112_8155378.jpg

城名:羅漢山砦(能仁寺)
別名:愛宕山・天覧山
城主:旧徳川幕府軍(振武軍)・参謀渋沢平九郎
住所:埼玉県飯能市飯能1329番地
遺構:土塁

この城(砦)は大政奉還後の城です。城や砦というより、「立てこもった場所」であるため城跡とすべきかどうか、かなり悩みましたが「埼玉の館城跡」で紹介されていますので、念のために訪問しました。

場所は有名な標高194.6mの天覧山(古くは愛宕山・羅漢山)を砦としたようなのですが、はっきり案内板に書いてあるのは麓にある「能仁寺」です。上野の寛永寺に雰囲気がそっくり。彰義隊のパクリで、この寺を選んだのではないかと思うほどです。
個人的には小倉城杉山城に立てこもって城の実力を発揮して欲しかった・・・
物資、政局、知行地など複雑な関係で選ばれた場所であろうとはいえ、ここでいいの?という感じです。
それとも近世軍学のおすすめスポットだったのかな・・・

天覧山は、最初「愛宕山」と呼ばれ、元禄年間に「羅漢山」、明治天皇登頂後「天覧山」と改称しています。

能仁寺は文亀年間(1501年~1503年)、中山家勝によって禅道場として始まり、中山家範が本格的な寺院として創立したと伝えられています。家範の子、照守、信吉は徳川氏に仕え繁栄しました。
また、中山直張の子、直邦が黒田氏を継ぎ5代将軍綱吉に仕え信任を得て、能仁寺は50石の朱印状を賜りました。
現在の本堂は昭和11年の再建です。

能仁寺本堂の西に案内板があります。
飯能戦争
徳川15代将軍慶喜は、慶応3年大政を奉還し、翌4年江戸城を明け渡したが、家臣の中には江戸に残留して抵抗を続ける者も多かった。渋沢成一郎、尾高惇忠らと旗本天野八郎らは同志を集めて彰義隊を結成し、上野寛永寺にこもり官軍との対決を叫んでいた。
しかし内部では江戸市外で戦おうとする渋沢派と、江戸市内で決戦を主張する天野派との対立が生じ、渋沢派は彰義隊と別れて振武軍を結成した。振武軍は江戸を離れ上野の彰義隊の動静をうかがっていたが、慶應4年5月15日、官軍の総攻撃を受け彰義隊壊滅の報を受けた。
そこで飯能に退き、本営を能仁寺に置き、近くの6か寺に兵を配置し官軍との決戦に備えた。そのため飯能周辺の村々から軍用金や馬、兵糧などの調達を行った。
上野の戦いが終わると官軍は振武軍の追討に向かい、戦いは5月23日払暁、笹井河原での衝突をきっかけに両軍の決戦が開始され、夜明けとともに官軍の大砲が振武軍の立てこもった寺を次々と攻撃した。
ついに砲弾が本営能仁寺本堂の屋根に命中して火災を起こし、振武軍は圧倒的な勢いの官軍の攻撃にあい、決死の奮戦もむなしく惨敗した。
渋沢平九郎は顔振峠から黒山に逃れ、そこで官軍に包囲され自刃した。
この戦闘は2日で終わったが、古刹能仁寺をはじめ4か寺が焼失、民家200戸以上を焼失した。
地元では飯能戦争と呼んでいる。
昭和55年3月 埼玉県」
と書いてあります。

能仁寺全体が高台にあり、土塁のような遺構をあちこちに見ることができます。
ただし、自然のような人工的のような、実に判断が難しい遺構です。
c0051112_8161760.jpg

羅漢山(愛宕山・天覧山)は、遺構不明。気になるのは、山頂に至るまでの平場ですが、当時普請する余裕は無かったと思うのです。寺の伽藍跡かなあ・・・

すみません、得意としない時代なのに、文が長くなってしまいました(苦笑)
by ckk12850 | 2006-09-22 07:00 | 飯能市【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助