比企能員館(城ヶ谷)
2022年 05月 25日
城名:比企能員館(比企氏館)
別名:城が谷
城主:比企能員・比企氏
住所:埼玉県東松山市大谷(宗悟寺東の一帯)
遺構:宗悟寺・串引き沼・比丘尼山・秋葉神社
源頼家の親戚として権勢を誇った比企氏ゆかりの地です。
比企禅尼は、伊豆に流されていた源頼朝を支えていた人物です。鎌倉に幕府を開くと、その恩にこたえるため、甥にあたる比企能員を重用しました。
頼朝の嫡男頼家の誕生に当たっては、能員の妻は乳母になり、能員は乳母夫となりました。
さらに頼家の妻が能員の娘の若狭局であり、頼家の嫡男一幡を産んでいます。
こんな状況下、敵対する北条氏が黙っているはずがありません。
頼朝亡き後、2代将軍頼家が病により危篤に陥ったとき、北条氏は仏像の供養を口実に能員を誘い出し殺害してしまいます。そして一幡も殺害されてしまったのでした。俗に建仁3年(1203)の「比企氏の乱」です。
やがて比企氏の後ろ盾を失った頼家も幽閉され、殺害されてしまいます。
比企能員が比企郡内に館を構えた最有力地の一つです。また、能員が北条氏に誘殺された後、ここに比企氏ゆかりの方が隠棲したことは十分考えられます。
まずは、大谷地区の中心地である扇谷山宗悟寺を目指しましょう。天正20年(1592)に、この地を知行した旗本、森川金右衛門氏俊が中興した寺です。
城主:比企能員・比企氏
住所:埼玉県東松山市大谷(宗悟寺東の一帯)
遺構:宗悟寺・串引き沼・比丘尼山・秋葉神社
源頼家の親戚として権勢を誇った比企氏ゆかりの地です。
比企禅尼は、伊豆に流されていた源頼朝を支えていた人物です。鎌倉に幕府を開くと、その恩にこたえるため、甥にあたる比企能員を重用しました。
頼朝の嫡男頼家の誕生に当たっては、能員の妻は乳母になり、能員は乳母夫となりました。
さらに頼家の妻が能員の娘の若狭局であり、頼家の嫡男一幡を産んでいます。
こんな状況下、敵対する北条氏が黙っているはずがありません。
頼朝亡き後、2代将軍頼家が病により危篤に陥ったとき、北条氏は仏像の供養を口実に能員を誘い出し殺害してしまいます。そして一幡も殺害されてしまったのでした。俗に建仁3年(1203)の「比企氏の乱」です。
やがて比企氏の後ろ盾を失った頼家も幽閉され、殺害されてしまいます。
比企能員が比企郡内に館を構えた最有力地の一つです。また、能員が北条氏に誘殺された後、ここに比企氏ゆかりの方が隠棲したことは十分考えられます。
まずは、大谷地区の中心地である扇谷山宗悟寺を目指しましょう。天正20年(1592)に、この地を知行した旗本、森川金右衛門氏俊が中興した寺です。
扇谷で反応した方、相当の戦国通ですね…
若狭局が持参したとされる、源頼家の位牌が残されています。
2006年、寺の参道入口に案内板がありましたが、現在は全く読めません。城ヶ谷(比企能員館址)、梅ヶ谷(若狭局隠棲址・森川氏陣屋址)、比企尼山(比企山寿昌寺址・比企禅尼草庵址)と魅力的な史跡がたっぷり記載されていました。
宗悟寺から東に数百メートル、城が谷(じょうがやつ)があります。この場所は、比企能員が館を構えた最有力候補地です。
案内板も設置されています。
埼玉県史や埼玉の神社誌よると、比企能員の館があったと記されているそうです。しかし、いまだにその館とは発見されていないとのこと。また、頼家側近の子孫が移り住んだともいわれています。
比企氏関連の遺構、宗悟寺西にある比丘尼山へ。
比企の尼が、草庵を結んだところと伝えられています。若狭局が頼家の菩提を弔うため大谷山寿昌寺を建立した伝えがあります。
案内板が設置されています。
比丘尼山から北に向かうと串引沼(櫛引沼とも)へ。
源頼家の妻であった若狭局が、思いを断ち切るため串を投げ入れたとか。案内板が設置されています。
最後に、宗悟寺の南にある秋葉神社に向かいます。
若狭局が隠棲し、余生を送ったとされる場所です。秋葉神社境内に梅が谷、須加谷がある案内版が設置されました。秋葉神社の西側が梅が谷、東側が須加谷だそうです。
2006年、梅が谷地区の若狭局隠棲址が不明でした。聞き込みをしましたが、近隣の方も分からず比企尼山(串引沼)ではないかとのことでした。
伝承って難しい…でも楽しい…と思い続けていました。
by ckk12850
| 2022-05-25 07:00
| 東松山市【城跡】