野本氏館
2007年 02月 08日
城名:野本氏館
別名:野本館
城主:藤原利仁?・野本氏
住所:埼玉県東松山市下野本662番地・無量寿寺一帯
遺構:土塁・空堀・将軍塚古墳?
県道345号線に案内板が大きく出ています。「野本将軍塚古墳」と。
まさか古墳の隣が館跡とは想像もせず。
東松山市の指定文化財になっていますので、今後も気軽に訪問できる館跡でしょう。国道407号線の開発が気になりますが。
新編武蔵風土記稿にも記述があり、
「(無量寿寺の)境界の四方に堤を築き、堀の跡が残る。当時の濫觴(起源)を思うに昔、利仁将軍(藤原利仁)が武蔵守だった頃、当所に住み任期満了後、下野(栃木県)に移り住む」
とあります。
延喜15年(915年)に鎮守府将軍に任じられた藤原利仁説、その後、野本氏一族の館となって、基員、時基、重基、景基、時秀、行時が居住した説があります。
無量寿寺の入口に館跡を示す標柱が立ち、山門前に案内板も設置されています。
「野本館跡 昭和49年7月10日指定
野本基員を初代とする野本一族の館跡です。野本氏は系図から平安時代の公卿藤原基経(836~891・堀川大臣)の家の警護をしていた片田基親の子息基員が武蔵国野本に移り住んで野本左衛門と名のったのが、野本氏の始まりと言われています。基員は源頼朝の信任の厚かった武士で、鎌倉時代の歴史書「吾妻鑑」にも登場する人物です。
館は現在、無量寿寺の境内地となっており、本堂の北側で土塁と堀がわずかに確認できるのみとなっていますが、実際は二重の堀と土塁を廻した構造の館となっています。外側の土塁と堀は当初からのものでなく、後世の増築によるものと考えられています。江戸時代の武蔵国の様子を書いた「新編武蔵風土記稿」の無量寿寺の項には「寺領の外境内一万四千坪、境の廻り四方に堤を築き、堀の跡残れり」とあり、同書の「将軍塚の図」には土塁や堀の様子が描かれています。
館が造られた時期については、基員が貞観元年(1232)に亡くなっていること、また無量寿寺に残されている建長6年(1254)銘の銅鐘の拓本により、当時無量寿寺が野本寺といわれていたことなどから、遅くても13世紀の初め頃には館が造られていたと考えられています。
平成17年3月
東松山市教育委員会」
とあります。
実に的を射た懇切丁寧な案内板です。おまけに新編武蔵風土記稿の将軍塚図まで掲載されていて分かりやすい!
遺構ですが、野本将軍塚古墳が櫓台という説がありますが・・・
判断は、実際に見た方にお任せします。
物見として扱ったか、神域として扱ったか・・・館と関連があるとは思うのですが。
間違いないところで、本堂裏の土塁をチェック。はっきり残っています。
さらに竹藪に突入しますと、50cmくらいの高低差が至るところにあるので、土塁や空堀の名残かと思うのですが、ラインが追えません。
ちょっと残念。
一族の押垂氏館推定地も参考にどうぞ。
by ckk12850
| 2007-02-08 07:44
| 東松山市【城跡】