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飯能戦争

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名称:飯能戦争
住所:埼玉県飯能市飯能1329番地・能仁寺

「埼玉の館城跡」を参考に羅漢山砦を城館跡として紹介していましたが、今回は古戦場として紹介します。古戦場じゃないでしょ、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、戊辰戦争の際、江戸を戦場として戦おうとする上野の彰義隊と、江戸の町を戦火から守りたい振武軍に分かれ、結果として飯能が戦場となりました。

能仁寺本堂の西に案内板があります。
飯能戦争
徳川15代将軍慶喜は、慶応3年大政を奉還し、翌4年江戸城<を明け渡したが、家臣の中には江戸に残留して抵抗を続ける者も多かった。渋沢成一郎、尾高惇忠らと旗本天野八郎らは同志を集めて彰義隊を結成し、上野寛永寺にこもり官軍との対決を叫んでいた。
しかし内部では江戸市外で戦おうとする渋沢派と、江戸市内で決戦を主張する天野派との対立が生じ、渋沢派は彰義隊と別れて振武軍を結成した。振武軍は江戸を離れ上野の彰義隊の動静をうかがっていたが、慶應4年5月15日、官軍の総攻撃を受け彰義隊壊滅の報を受けた。
そこで飯能に退き、本営を能仁寺に置き、近くの6か寺に兵を配置し官軍との決戦に備えた。そのため飯能周辺の村々から軍用金や馬、兵糧などの調達を行った。
上野の戦いが終わると官軍は振武軍の追討に向かい、戦いは5月23日払暁、笹井河原での衝突をきっかけに両軍の決戦が開始され、夜明けとともに官軍の大砲が振武軍の立てこもった寺を次々と攻撃した。
ついに砲弾が本営能仁寺本堂の屋根に命中して火災を起こし、振武軍は圧倒的な勢いの官軍の攻撃にあい、決死の奮戦もむなしく惨敗した。
渋沢平九郎は顔振峠から黒山に逃れ、そこで官軍に包囲され自刃した。
この戦闘は2日で終わったが、古刹能仁寺をはじめ4か寺が焼失、民家200戸以上を焼失した。
地元では飯能戦争と呼んでいる。
昭和55年3月 埼玉県
と書いてあります。

新政府軍として参加した川越藩の藩士、下山忠行が慶應4年(1868)5月に16歳で出陣しています。子息下山懋氏が「父の若き日」という本を書きましたが、父忠行の手記をまとめたものです。その内容が「川越の歴史」に記載されていますので紹介しましょう。
慶應4年5月のことだったが、江戸の上野寛永寺にこもった彰義隊の残徒が、高麗郡飯能町の能仁寺にたてこもり、討手として川越藩も兵を出すことになった。私は谷口門人の平沼氏の隊に従い、川越宮下町の学問所に集合一泊して、未明に川越を出立した。
その日はひどい雨降りだったが、やはり出陣だから、なかなか意気が盛んで、勇壮といおうか悲壮といおうか、とにかく豪勢なものだった。
余は友だちの小原氏と、ジャンジャン、ジャカジャカ、ジャンジャカとフランス式に、ドラムを叩いていたが、他の部隊は、まるっきり昔風の甲州軍学の山県流で、ほら貝と鐘と太鼓で、ゴブンゴブンゴブン、ドンドン、ジャンジャンジャンと三拍子で出発したのである。
(中略)
そこへいっしょにいった官軍というのが、九州の柳川藩で、つつ袖にダン袋は余らと同じだが、ミネヘル銃をかついで、縄の鉢巻きをしている。勇壮といおうか野蛮といおうか、物すごい姿である。その上にこの一隊が、川越にのりこむと、すぐに罪人をひっぱり出して、北町の光西寺の門前で斬りすてたので、川越中の人が、みなふるえ上った。
雨は一向に止まない。道はぬかるみで歩くのも容易でない。小坂と広谷の間は川が溢れて腰までぬれる場所が7、8町もあった。小坂と平塚の間が、とりわけひどかった。
それに鹿山地方は、旗本領が多かったから、公方さまの肩を持たない者はない。道はわるいし、まわりはおだやかでない。おまけに道のりは50町1里なので、半道というのに1里近くもある。へとへとに疲れた。
とにかく戦争というのだから、髪を切って家に残してきた人もいる。水盃をかわして、生還を期せずと覚悟した人もいる。いずれにしても大変な進撃だった。
明くる日の午前3時ごろだった。暗い中で盛んに銃声がする。余と小原君は驚いて目をさましたところ、隊の者はみな出かけたあとである。大急ぎで追いかけると、砲声がいんいんとして、小銃の音も豆をいるようだ。ようやく鹿山で追いつくと、飯能口には、官軍が畳を積みあげて防塁とし、左右の山に散兵して、十分な構えをとっていた。
(中略)
三宅なにがしという人は、草やぶの中にかくれて、敵を待っていたところ、5、6間先きにやって来た。銃の引き金をひいたが玉が出ない。敵はどんどん行ってしまった。あとで見たら撃鉄が挙げてなかったのだ。
無残だったのは、官軍の兵が、幕府の旗本の用人を、鹿山で斬ったことだ。60歳ばかりの老人だったが、手を斬り鼻をけずり、目もあてられない殺しようだった。
なお、川越藩の砲術者が、能仁寺の焼打ちを買って出て、ごうぜんと一発砲弾をはなつと、後ろ大杉にあたって打ちくだいたので、賊兵はくもの子をちらすように山伝いに逃げた・・・

ということが記されています。
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川越藩主松井周防守から新政府の弁事あてに提出された届書に、能仁寺に立てこもった700余人に対して、筑前の兵隊と川越藩兵が合流して鹿山村から進撃して5月23日未明から大小砲をもって攻撃したので、飯能から秩父方面に落ち延びたと報告しています。
また、忍藩からの加勢や芸州(広島県)、備前(岡山県)等の諸隊も加わったそうです。
地図はこちら
by ckk12850 | 2007-03-22 07:00 | 古戦場【歴史観光】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助