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山吹の里(山吹氏館)

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城名:山吹の里
別名:山吹氏館
城主:山吹氏(越生氏一族)?
住所:埼玉県比企郡越生町西和田24番地・山吹の里歴史公園
遺構:?

県道30号線、越生バイパス沿いにあります。越生駅の東500mにあり、山吹橋の目の前です。越辺川が流れ、越生の町を東から見下ろす要害のイメージもあります。
ここを太田道真、道灌父子が陣城、屋敷として使ったのではないかと思ってしまうのです。

ここを城館跡としてカウントするなって話もあるでしょうが、紹介してしまいます(苦笑)

「史跡山吹の里」という巨大標柱がお迎えしてくれます。水車小屋もあって風情あり~。
で、ここは何???と思う方がいると思いますが、まずは案内板で予習を。すぐに理由が分かります。
「伝山吹の里
所在地 越生町西和田
室町時代、太田道灌が川越の領主だった頃の話である。道灌が父の道真を訪ねた折、このあたりでにわか雨にあったので、近くの農家に立寄り蓑を借りようとした。
すると一人の少女が出てきて、だまって山吹きの花をさし出した。
道灌は、山吹きの花にちなんだ古歌、「七重八重 花は咲けども山吹の 実(蓑)の一つだに なきぞ悲しき」が考えつかず、少女の思いが分からずに恥をかき、のち大いに学問にも励み、文武両道を兼ねた名将といわれるようになったのだという。この話は広く知られており、山吹の里と称するゆえんである。
昭和37年に県指定旧跡となっている。
昭和59年3月 
埼玉県」
と記されています。

少女は「後拾遺集」にある兼明親王の古歌を引用したのですね。
七重八重に花は咲いているが、山吹は、実の(蓑)ひとつないのが悲しい・・・
つまり、その女性は蓑も持てない貧しさを言葉に出せず、古歌に託したのです。
ということは・・・ここは「和歌を詠んだ少女の屋敷跡」か!?

水車小屋にはなぜか「太田道灌略系図」が貼り付けられています。センスないな~(苦笑)
でも清和源氏、源経基の末裔だったのですね!

極めつけが「太田道灌時代の関東情勢図」。これは役に立つ!

最後に気になる文が書かれた石碑がありましたので紹介しておきます。
「越生は太田道灌ゆかりの地である。龍ヶ谷の戸神には道灌誕生の地と伝えられる山芝庵跡がある。道灌の父道真が退隠後、居館自得軒を構えた小杉の建康寺周辺には、陣屋、馬場、砦、道灌橋なとの名が遺されている。そして、文明年間に道真と道灌が中興した古刹龍穏寺には、父子の墓がある。
当地山吹の里は、古くから山吹の自生地であり、かつては山吹の古名で呼ばれていた。また報恩寺年譜文明18年の条や、熊野那智大社米良文書に、山吹の姓が見られることから、中世越生郷に武士団児玉党越生氏一族の山吹氏が居たことも知れる。
この史跡が郷土の誇りとして、永く後世に受け継がれることを願い、ここに歌碑を建立する。
越生町教育委員会
越生町観光協会」
越生氏一族の山吹氏とは初耳!
古名から察すると、山吹氏一族の館跡!?!?

実は石碑の裏面が正面です。
「七重八重 花は咲けども山吹の みの一つだに なきぞ悲しき」
の歌が刻まれています。
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昭和57年川越市発行の「川越の歴史」に山吹氏の話がありました。
「越生の地は早くより父の道真と関係があったことが分かります。ということは、
太田氏がつかえていた扇谷上杉氏の領地がこの辺にもあったために、隠居とはいえ越生の辺に館をきすいて、いざという時、上杉氏の出城とすることを考えたにちがいありません。(略)
道真は越生の辺がだいぶ気にいっており、またこの近くに上州をへて奥州に通じる古道がありましたので、備えの意味もあったに違いありません。(略)
道灌も家督をゆずられる前に、越生辺にいざという時の地理を頭に入れがてらに、狩りにきたと考えることもできるでしょう。今の越生駅のすぐ東の小高い丘を「山吹山」といい、道灌の狩りの日のはなしにゆかりの地として、県の旧跡に指定されています。さらに山吹山の麓に、その昔山吹氏という修験(山伏)の住んでいたこともわかっていますので、あるいは山吹氏の娘と道灌とのロマンスも、生まれる可能性がないとはいいきれないでしょう」
と記されています。
by ckk12850 | 2007-05-30 14:32 | 入間郡越生町【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助