人気ブログランキング |

川越城

昭和初期の本丸御殿
c0051112_23575171.jpg

現在の本丸御殿
c0051112_21131828.jpg

城名:川越城
別名:河越城・初雁城・霧隠城
城主:扇谷上杉持朝、政真、定正、朝良、朝興、朝定・小田原北条氏(福島綱成・大道寺政繁、直繁)・酒井重忠・酒井忠利、忠勝・堀田正盛・松平信綱、輝綱、信輝・柳沢吉保・秋元喬知、喬房、喬求、凉朝・松平朝矩、直恒、直温、斉典、典則、直侯、直克・松平(松井)康英、康載
住所:埼玉県川越市郭町全域・元町の東一部・大手町の東一部・宮下町の南一部
遺構:本丸御殿・富士見櫓跡・土塁・堀

概要:
城跡は本丸跡を中心に高台であり武蔵野台地(川越台地)の北東端に構え、比高5~6mの平山城に分類されます。平城に分類される場合もありますが、いずれの方面からも坂を登らなければ本丸に行けません。要害であることを窺わせます。
城跡は、大部分が公共の施設と住宅地であり、本丸の近辺がわずかに往時を偲ばせます。
春が近づくと三芳野神社境内は梅の花、そして春本番には本丸御殿周辺は桜の花が咲き、格好の被写体となります。富士見櫓跡の御岳神社は、夏の木々、秋の銀杏の黄葉と季節を問わず憩いの場となっています。
川越城築城の理由は、古河城、関宿城、羽生城、野田城、菖蒲城等による防衛線でした。そのため川越城の守りは北東方面といえましょう。現在でも本丸、二の丸跡からは一面の水田地帯が見渡せます。また、赤間川、伊佐沼による湿地帯で、天然の外堀が構えられていました。
併せて城と城下町を西~北~東へ入間川が取り囲むように流れ、最も外側の堀として考えることができます。
南大手門から南東の一帯は、遊女川の泥湿帯であり、昭和60年頃までいくつか湿地帯の名残の蓮池などが見られました。また、真南は、大寺院の喜多院があります。江戸時代には深い堀に囲まれた出城の役割を果たしました。
西方面は築城当初から大手方向とされていたようです。また、現市街地を南西から北西に流れる赤間川(現新河岸川)を天然の外堀と考えるならば、城下町が発展するのは自然と平地で広大である南西から北西方面を中心に発展していったのでしょう。城の唯一の弱点はこの方面であり、城下町、寺町によって城を防備する必要があったと思われます。
城の北西に太田道灌屋敷、西に太田道真屋敷大道寺權内長喜屋敷等、城主の重臣が屋敷を構えた伝承が残ることから推察することができます。
天文6年(1537)、南西から北条氏康に、そして天正18年(1590)、北西から豊臣秀吉軍に攻められ落城したことは皮肉な話です。

歴史:
・川越城築城までの経緯
建武5年(1338)、足利尊氏は京都に幕府を開きましたが関東地方を重視、長男義詮を鎌倉に置き関東10か国を管轄します。その弟、基氏が世襲。本来これを関東管領といいます。
しかし基氏の子孫は独立傾向を強め、鎌倉公方または関東公方と称しました。その執事である上杉氏が関東管領を称しました。
永享11年(1439)の永享の乱で基氏の子孫の足利持氏は成敗されますが、文安6年(1449)上杉氏ら関東の諸将は、持氏の子、足利成氏を下総の古河を本拠とする古河公方としました。一方、京都から派遣された8代将軍足利義政の弟政知を伊豆の堀越を本拠とする堀越公方とし、関東の混乱は深まりました。
享徳3年(1454)に足利成氏は、執事の山内上杉憲忠を誘殺したため、上杉一族と争いが始まります。

・川越城築城
そのような状況下、長禄元年(1457)、関東管領の扇谷上杉氏の当主上杉持朝が、古河公方に対する防衛線として太田道真と道灌の父子に命じ、江戸城、岩槻城と共に築城されたことに始まります。
一般的に太田道灌が築城者として伝えられることが多いようですが、道灌は江戸城築城で忙しかったようです。実際の築城は、北条五代記、永享記、河越記、修河越城之記、寛政重修諸家譜、三芳野名勝図会、新編武蔵風土記稿による太田道真説と太田家記、霊岩夜話による太田道灌説に分かれます。現在では太田道真主導、太田道灌補佐説が有力です。

・築城当時の川越城の様子
城の規模ですが、本丸と二の丸、そして、本丸東に三芳野天神社が祭られた天神郭、別名初音郭という3つの郭が設けられていたようです。童謡「通りゃんせ」発祥の地として知られています。
本丸南西の富士見櫓跡の比高20mの高台は、築城の頃から存在したようです。新編武蔵風土記稿では、志義町の項、烏山稲荷の記述に、
「享徳15年(1466)、太田道真が矢倉(櫓)を造ろうとして足場をかけ四方を見渡したところ、一面原野であったが、一つだけ森があり富士山の遠望を妨げたことを嫌い、その森の樹木を剪定させた」
という伝説から察することができます。
その頃、深谷城、松山城も補修されました。
一方、古河公方は、忍城、菖蒲城、野田城、関宿城、羽生城を最前線の城としていました。

・上杉氏の混乱と太田道灌の活躍
上杉一族は当初、扇谷、詫間、犬懸、山内の4家に分かれましたが、詫間、犬懸は滅び、扇谷、山内の両上杉氏は1400年代後半に関東各地で内紛を繰り返すことになります。
城主扇谷上杉持朝は、応仁元年(1467)、川越城で没し、政真が継ぎます。しかし、24歳で足利成氏と武蔵五十子(埼玉県本庄市)で戦い討死、その後、持朝の三男、定正が継ぎます。この頃まで、山内、扇谷の両上杉氏は協力して足利成氏と戦いました。この間、関東各地に出撃、転戦をすることが多いため、川越城は安全な場所でした。城主不在時は、曾我兵庫助、太田資忠が城を守っていました。
実権は、山内上杉氏は長尾昌賢、扇谷上杉氏は太田道灌の両家宰(家老)によって握られていたといってもよいでしょう。長尾昌賢没後、主君の山内上杉顕定は、昌賢の弟、忠景に家督を継がせたので、昌賢の子、景春は不満でした。
文明8年(1476)、ついに武蔵鉢形城から長尾景春は軍を起こし、武蔵五十子(埼玉県本庄市)に滞陣中の、主家である上杉顕定を襲撃しました。すると武蔵石神井城、練馬城の豊島泰経、泰明兄弟、相模小磯城の越後五郎四郎、相模小沢城の金子掃部助、相模溝呂木城の溝呂木氏、さらに足利成氏が景春の味方となりました。
このとき道灌は、武蔵や相模の兵を率いて相模溝呂木城、小磯城、武蔵石神井城、練馬城、小沢城を落としました。さらに武蔵小机城、相模二宮城、下総臼井城を落としました。道灌の活躍により、主家の扇谷上杉氏は武名を高め、山内上杉氏は衰退するかにみえました。
ところが影の薄くなった山内上杉顕定は、扇谷上杉定正へ、「道灌に謀反の疑いあり」と讒言したのです。こうして太田道灌は、文明18年(1486)、相模糟屋の扇谷上杉定正の館で曾我兵庫助に謀殺されたのです。55歳でした。その際「当方滅亡(扇谷上杉氏は滅亡するぞ)」と絶叫し、後の川越夜戦において、その通りとなったことは有名な逸話です。
太田道灌没後、扇谷上杉氏、山内上杉氏は対立するようになり、長享2年(1488)、ついに両者は相模実薪原(神奈川県伊勢原市西富岡、神奈川県厚木市七沢)で衝突します。扇谷上杉定正は、川越から兵を出して勝利しました。ついで、武蔵須賀谷原(埼玉県比企郡嵐山町菅谷)、高見原(埼玉県比企郡小川町高見)で戦い、同じく勝利しました。
明応3年(1494)、扇谷上杉定正が没し、その子、朝良が家督を継ぎましたが、微妙に力関係が変化し、山内上杉顕定は、川越城を攻め、朝良は一時的に江戸城に退くこともありました。
永正7年(1510)、山内上杉顕定は、越後の長尾為景が謀反を起こしたので長森原(新潟県南魚沼郡六日町長森)で合戦となりますが、討死してしまいます。ここに至り、扇谷上杉氏、山内上杉氏は和解します。しかし、同族間の戦いの間に上杉氏は、小田原北条氏(後北条氏)の武蔵国進出を許す結果となるのです。

・小田原北条氏の武蔵進出
関東公方、関東管領の内紛の最中、戦国大名の雄である北条早雲(伊勢新九郎長氏)は、明応7年(1498)に大森藤頼を討ち、小田原城を手中にしていました。そして関東平定の夢を抱いていました。2代目の北条氏綱は大永4年(1524)、扇谷上杉朝良の子、朝興の江戸城を攻略、天文6年(1537)、上杉朝興が50歳で川越城に没すると、同年7月11日、北条氏綱は7000名の軍を率いて三ツ木原(狭山市新狭山3丁目・三ツ木公園)の合戦に勝利します。川越城を支えることができなくなった扇谷上杉朝興の子、朝定は同年7月15日、難波田弾正憲重の守る松山城に逃げ込みました。
このとき、攻める北条方の山中主膳が、
「あしからじ よかれとてこそ戦はめ 何か難波の浦くずれゆく」
と詠むと、すかさず難波田弾正は、
「君をおきて 仇し心を我もたば 末の松山波もこえなん」
と古今集の歌を詠んで返しました。有名な松山城風流歌合戦です。
川越城を奪った北条氏康は、通称「黄八幡」と恐れられた福島綱成を川越城将としました。今川家家臣、遠州土方城主福島正成の子であり、正成は武田家に討たれ、北条氏綱に仕えました。綱成は猛将で、北条氏五備(五家老)の黄備を担当、真っ先に敵陣に突入し、黄色の練貫に八幡と墨書した旗を指物としていました。

川越夜戦
小田原北条氏の脅威を感じた扇谷上杉朝定、山内上杉憲政、古河公方(関東公方)である足利晴氏は、天文14年(1545)、80000名の連合軍を結成、小田原北条氏からの川越城奪還を試み、十重二十重に包囲しました。守将は、城代の福島(北条)綱成、以下わずか3000名。連合軍はなかなか城を落とせませんでした。
3代目北条氏康は、8000名の軍勢を従えて三ツ木原(狭山市新狭山3丁目・三ツ木公園)へ着陣。陣を出しては府中(東京都府中市)へ引くこと4回、連合軍は、北条軍が弱いと思うようになってきました。そして油断も生じました。
天文15年(1546)4月20日、頃合いよしと判断した氏康は山内上杉憲政の本陣である川越市砂窪(川越市砂久保65番地・稲荷神社)に夜襲を決行、憲政軍を破り、上州平井城へ敗走させました。氏康は、扇谷上杉朝定の陣である東明寺(川越市志多町13番地1)に夜襲を続け、朝定を討ち取りました。夜も明ける頃、古河公方足利晴氏は、敵が少数であるから一気に攻め込もうと準備を始めました。
川越城の福島綱成は、夜戦の始まる頃から大手の櫓に登り監視していましたが、古河公方足利晴氏軍が動く様子を見て、頃合いよしと判断して城門を開き、晴氏軍に襲い掛かりました。そして古河へ敗走させました。北条氏康は川越城に入城、士卒を休息させました。
このことにより、10倍もの敵を打ち破った小田原北条氏の武蔵国の覇権が成立しました。これが川越夜戦(東明寺合戦)です。織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦い、毛利元就が陶晴賢を破った厳島の戦いと共に日本三大夜戦、または日本三大奇襲戦とよばれています。
諸説ありますが、上記の川越夜戦の流れは「新編武蔵風土記稿」から引用しました。「管領記」、「関東古戦録」、「小田原記」の古文書を参考にしたと記しています。夜戦であったかどうかは、今なお議論が尽きませんが、4月20日に大きな合戦があったことだけは事実のようです。
さて、天文20年(1551)、北条氏康は山内上杉憲政の上州平井城に出兵、翌年には越後の上杉家の守護代である長尾景虎(上杉謙信)のもとに敗走させました。おおむね関八州から上杉氏の勢力を一掃させたのです。北条氏康は、川越城の重要性を考慮して、重臣の大道寺駿河守政繁を城代としました。
この頃、税制改革、伝馬制度の整備、城下町の整備を実施し、市も開かれるようになりました。

・小田原北条氏の滅亡
しかし、天下の統一は豊臣秀吉によって着実に行なわれていました。四国、九州の征伐を成し遂げた後、豊臣秀吉は天正18年(1590)、小田原北条氏の征伐を始めたのです。主戦派であった大道寺駿河守政繁は上州松井田城に籠城、)かしあっさり降伏し、前田利家、上杉景勝の先導役となってしまうのです。
川越城の守将は政繁の子、大道寺直繁であり無血開城したといわれています。大道寺政繁の心中は、川越城の我が子を思ったのか、自領の安泰を思ったのか謎のままです。しかし、結果から考えると、先導役と引き換えに川越城は攻撃しないという密約があったのではないかと思わざるを得ません。
川越城落城は、市内蓮馨寺に残る秀吉禁制から天正18年(1590)5月頃といわれています。同年7月、小田原落城後、豊臣秀吉により4代北条氏政と共に大道寺政繁は切腹させられました。

・藩政時代の幕開け
天正18年(1590)、豊臣秀吉の転封命令により関東に入国(移封)した徳川家康は、譜代の家臣、雅楽助家の酒井重忠を川越城に1万石をもって封じました。ここに徳川幕府(江戸時代)の藩政の基礎が誕生しました。
江戸城の北の守り、すなわち北の出城として重要な城となります。
その後、左衛門尉家の酒井忠利、忠勝(老中後大老)、堀田正盛(老中)、大河内松平家の松平信綱(老中)、輝綱、信輝、柳沢吉保(大老格)、秋元喬知(老中)、喬房(奏者番)、喬求、凉朝(老中)、越前松平家の松平朝矩、直恒、直温、斉典、典則、直侯、直克(政治総裁職)、松井松平家の松平康英(老中)、康載(川越藩知事)と譜代の家臣、または一族を配し、いかに重要視されていたか分かります。

・近世城郭の川越城完成
さて歴代藩主の中で、城に関して特筆すべきは、松平信綱(通称松平伊豆守)と、松平斉典(通称松平大和守)でしょう。
寛永16年(1639)、川越城主となった松平信綱は、中郭、追手郭(あわせて外郭ともいう)、北東に新郭、東に帯郭、南に田郭の付加、西大手門、南大手門の二門に丸馬出しを設けて川越城は近世城郭として完成しました。これにより、櫓3基(本丸に富士見、虎、二の丸に菱)、城門13(西大手、南大手、一、二、三、天神、蓮池、中、清水、田郭、帯郭、新郭、埋)の広大な城となりました。その広さは土塁と堀を除き、4万6千坪におよびます。
松平斉典は、越前松平家、すなわち徳川家康の子、結城秀康の家系です。御三家(尾張、紀伊、水戸)に次ぐ格式の家柄です。石高も17万石で川越藩の最盛期の城主です。この斉典が、全16棟、1025坪の広大な本丸御殿を造営したのです。川越城が観光地として高い評価を受けていることは、この本丸御殿に依存する面が大きいのです。

・城内の様子
天守閣の代用となった富士見櫓は、基壇の高さ51尺(15.45m)で、櫓の高さ51尺(15.45m)の三層三重でしたが、外観等の詳細は不明です。
櫓の規模は、幕末の慶応2年(1866)の川越城中野張分間之写によりますと、富士見櫓は長さ八間三尺(15.38m)、横八間(14.48m)。虎櫓は長さ四間五尺(8.75m)、横四間(7.24m)。菱櫓は長さ四間(7.24m)、横四間(7.24m)です。
なお、菱櫓と虎櫓の場所について、絵地図を見ると、当初は本丸の櫓を菱、二の丸の櫓を虎とよんでいます。ところが、元禄時代以降、絵地図が逆転し、本丸の櫓を虎、二の丸の櫓を菱とよぶようになっています。ひとまず、新編武蔵風土記稿、武蔵三芳野名勝図絵を含む史料や伝承から、本丸の櫓を虎、二の丸の櫓を菱の名称で統一すべきかと思います。
本丸には、嘉永元年(1848)、御殿が建築されましたが、それまで住居はありませんでした。櫓2基、南西隅を富士見櫓、北西隅を虎櫓といいました。この本丸は、高所の要害であり、ここが詰めの城であったといいます。また、巴堀があり、その外に三芳野天神社がありました。現在、巴堀は埋められて跡形もありません。
二の丸には、城主の住居がありましたが、弘化3年(1846)の二の丸火災時に焼失し、本丸に住居が新築されました。後、武具方役所があり、錬兵場も兼ねていました。火災を免れた二重櫓があり菱櫓といいますが、その名称の由来が分からないようです。
三の丸には北に隠居屋敷があり、南に馬場と馬見所がありました。
外郭の大部分は家老屋敷でした。また、三の丸出入口付近を三角芝地とよび、そこに城中に時を知らせる太鼓櫓がありました。
田郭には天神社があり、庶民の参詣は、この天神社だったようですが、夢のない話です。粋な城主によっては、本丸の天神社に参詣を許したのではないでしょうか。他に神楽堂、楼門、高松院、八幡社がありました。
新郭には20あまりの郷村米蔵がありました。また、火薬庫もありました。
徳川氏の幕藩体制が終わりを告げ、1870年頃(明治3年頃)には城の破却が始まったようです。そして城跡は、学校、住宅、田畑に使用されるようになっていったのです。

遺構:
1 松平斉典による嘉永元年(1848)建築の全16棟、1025坪の広大な「本丸御殿」の一部である「本丸玄関」が有名です。
江戸時代末期の建築ですが、川越藩17万石の威容が窺えます。また、家老詰所も上福岡の民家から移築復元されています。二の丸御殿が焼失したため新築したといわれますが、なぜそれまで本丸に御殿が無かったのか当時でも謎だったようです。
内部は一般公開されておりますので、ぜひ見学してください。(郭町2丁目13番地)
c0051112_2172390.jpg

2 富士見櫓跡は圧巻です。高さ15mくらいの山からは、今でも四方が手に取るように見渡せます。本丸の南東に位置しており、他に本丸北西の菱櫓、二の丸北東の虎櫓の3つの櫓の内、天守閣を兼ねていました。わずかな堀跡も確認できます。最近、川越高校東側土塁がコンクリート化されたのは残念ですがコンクリートの高さが堅牢さを物語ります。(郭町2丁目15番地)
c0051112_22131461.jpg

3 現在の養護学校のあたりは三の丸北側であり、グラウンドは堀の底に当たります。
また、学校敷地南側の三の丸土塁も、よく残っています。その土塁上、三の丸は、隠居屋敷、馬場、馬見所がありました。三の丸の一帯は、昭和50年初め頃まで一面の雑草でしたが、近年急速に宅地化されました。
(郭町2丁目9番地)
c0051112_2215856.jpg

4 本丸(天神郭)土塁が初雁公園内にあります。公園として整備されており、高さは5mくらいあります。今後も残されることでしょう。しかし城絵図にはこの土塁の記述が不明瞭であり、何か建築物があったようです。本丸内の三芳野天神社と関連する小山ではないかと思います。
(郭町2丁目25番地)
c0051112_22152211.jpg

5 同じく本丸(天神郭)土塁が初雁公園南口にわずかながら残っています。城絵図では本丸の土塁の一部のようですが、高さは4mくらいありましょうか。子供たちの遊び場となっていて、年々崩れてきています。おまけにまったく手が加えられていません。近い将来消えてしまうかもしれません。
(郭町2丁目20番地)
c0051112_22134416.jpg

6 城の南東端、田郭(杉下橋の近辺)は、今でも折りをつけた水堀(小川)が残ります。国道254線方向から見ますと、郭の形が分かります。江戸時代は三芳野天神社の別当「高松院」がありました。今でこそ水の量は少ないですが貴重な遺構です。ぜひ今後も残ってほしいものです。
(郭町2丁目21番地16近辺)
c0051112_22153672.jpg

7 城内の道は、南大手門(第一小学校西門近辺)の馬出し部分の東側道路が、当時のうねりと幅を残している唯一の場所です。何の変哲もない細道ですが、貴重な道といえましょう。(郭町2丁目1番地と郭町2丁目2番地の間の道)
c0051112_22155436.jpg

8 その他の城内の道は、幅やうねりが現在と多少異なります。具体的には以下の道です。

大手門(市役所前)から中門、三の門を経て本丸(市立博物館近辺)までの道。(元町1丁目4番地から郭町2丁目11番地3近辺)

南大手門(第一小学校東門前)から富士見櫓下の田郭門を通り、清水門(杉下橋近辺)までの道。
(郭町1丁目21番地から郭町2丁目22番地9近辺)

三芳野天神社から南へ、途中の細い道を西に入り、天神門を経て田郭までの道。
(郭町2丁目25番地から郭町2丁目16番地5)

南大手門(第一小学校東門前)から北の三の門(東京新聞販売所近辺までの)までの道。
(郭町1丁目21番地から郭町1丁目12番地9)

参考までに童謡「通りゃんせ」の細道は南大手門から田郭門を経て天神門から三芳野天神社へ至る道と伝わるので、ほぼ残っているといえましょう。
また、現在の三芳野天神社境内の参道は、堀を埋め立てた部分があります。境内参道に小さな案内板がありますので、間違えないように注意したいところです。
c0051112_22162648.jpg

9 赤間川(現新河岸川)の一部は、新郭を取り囲む外堀、すなわち新郭門(宮下橋下流20mくらいの場所)から、現在の城下橋を通過、帯郭(初雁球場の近辺)まで、おおむね当時と同じラインで流れています。ただし、当時は川でなく堀でした。
(宮下町1丁目16番地から郭町2丁目28番地近辺)
c0051112_22165550.jpg

10 昭和50年前半頃までは、中郭(川越小学校の近辺)に数か所、土塁や堀が残っていました。
今も川越小学校北東の民家の奥に巨大な空堀が残っています。中郭と追手郭の仕切りのための掘です。一部のガイドブックには紹介されていました。追記:平成22年4月、整備され公開されました。
c0051112_22171131.jpg

11 その他、作事遺構である伝移築城門扉、榮林寺山門も参考にどうぞ。
地図はこちら
by ckk12850 | 2005-02-15 07:00 | 川越市【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助