石戸城

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城名:石戸城
別名:天神山城
城主:太田道灌?・藤田八右衛門・毛利丹後守・依田大膳亮
住所:埼玉県北本市石戸宿6丁目47番地
遺構:土塁・空堀・沼・一夜堤

ひとまず北本市子供公園、北本自然観察公園、北里研究所を目安に。近づいたら、交通量の多い桜堤通りを走ります。荒川左岸の道ですが、城ヶ谷堤に駐車場がありますので、ここが最も城跡に近いです。桜の花見の季節は混雑するので避けるべきでしょうなぁ。

新編武蔵風土記稿では「扇谷上杉氏家臣八右衛門という人物が居住したところという」と記されています。
太田道灌築城説もあります。

また大永5年(1525年)2月、北条氏綱が岩槻城の上杉朝興の武将、太田道可資頼を攻め、資頼は石戸城に逃れたそうです。

「関東古戦録」によれば、上杉輝虎が松山城の後詰めに失敗し、逆恨みとして騎西城を攻めていますが、降伏した成田長泰に対して、帰参の償いとして小田原北条方の依田大膳亮が守る足戸の砦(石戸城)を落城させています。
しかし永禄5年(1562年)、北条氏政の命により、北条氏邦が武州鉢形の兵を率いて足戸の砦に押し寄せました。守る上杉方の越後の武士である毛利丹後守は手負いが多く退散したと記されています。

城跡は城ケ谷堤の南、約100mの一帯です。荒川左岸の台地上に築かれ、北と東は低湿地と沼地になっています。
本郭に相当すると思われる部分は、道路が貫通していたり、民家の敷地内であったり、想像以上に難攻不落(苦笑)
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どこが土塁でどこが堀なのか・・・
3回以上訪問しましたが、城郭遺構を捉えることが難しい場所でした。
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しかし、北本市自然遊歩道沿いに沼があり、城の東側の堀であったことが容易に判断できます。
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有名な一夜堤は、北本自然観察公園内の北本市自然遊歩道の一部となっています。
そう、城跡から沼地を渡って東側の台地に至る道が堤だったのですね。これは便利。つまり・・・北条氏邦は東側の台地から一気に攻め入る道を普請してしまったということになります。氏邦は治水土木工事に精通していたそうですが、現代の遊歩道になるとは夢にも思わなかったことでしょう(苦笑)
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また沼の南側の遊歩道(一夜堤)沿いに案内板が設置されています。
「石戸城と一夜堤
石戸城は、室町時代長禄年間(1457~60)ころ、岩付松山河越の各城との連絡のために築かれたものと伝えられている。扇谷上杉氏の家臣藤田八右衛門の居城にはじまり、永禄6年(1563)松山攻めの時には、上杉謙信が石戸まで進入してくるなど、いくたびかの変遷をみたという。
謙信の松山攻めに先立つ永禄5年(1562)北条氏邦は、北条氏政の命により秩父・鉢形勢を率いて上杉方のこの城を攻め、時の城主毛利丹後守とのあいだに激しい攻防戦を演じたことが「関八州古戦録」にみえている。毛利氏の守りは固く、北条勢は多くの死傷者を出したが、この時氏邦は、暗夜に乗じて城の東側の谷地に一夜にして土橋を築き、一気に城へ攻め上って勝利したという伝承がある。この土橋が現在「一夜堤」とよばれている。
「一夜堤」は、石戸城跡と谷をへだてた東側の台地とを結ぶ長さ45メートル、幅5メートルほどの堤で、自然散策の遊歩道として市民に親しまれている。
平成元年3月1日
北本市」
と記されています。

ちなみに「歴史ロマン 埼玉の城址30選」では「一夜堤」として、「東側には狭い湿地を隔てて、一夜堤と呼ばれている城跡の台地とほぼ同じ高さの高地が、城跡の台地の北端部と同じ位のところまで連なっている」と記されています。
そして城域東側の土塁を一夜堤として写真紹介しています。
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「高地」ではなく、「城跡と東側の台地を結ぶ低地の遊歩道」(案内板があるところ)が堤です。恐らく担当者が見誤ったものと思われます。

遊歩道から城跡を見ると、私有地なので立入禁止の看板が多いです。マムシ注意、スズメバチ注意の看板も多いです。数mおきに注意の看板があります(汗)
埼玉県の低湿地においてマムシはレッドデータであり、さいたま市秋ヶ瀬、及び北本市石戸宿でわずかに確認できるそうです。
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by ckk12850 | 2007-09-15 19:35 | 北本市【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助