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羽根倉古戦場

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名称:羽根倉古戦場
住所:埼玉県志木市宗岡

南北朝時代、難波田九郎四郎と高麗彦四郎経澄の戦いがあった場所です。
荒川右岸が古戦場だとは思いませんでした。浦所バイパス(国道463号線)、荒川に架かる羽根倉橋の下は下でも、志木市宗岡にあったとは!
荒川左岸だと、難波田九郎四郎は背水の陣になってしまうのですね。
高麗彦四郎経澄の反転が快進撃だったので、難波田九郎三郎の合戦準備が間に合わなかったのか・・・
それとも遭遇戦だったのか・・・

標柱と案内板が設置されています。
この辺一帯は、南北朝時代の観応2年(1351)12月9日、難波田(富士見市下南畑)城主、難波田九郎三郎と高麗(入間郡日高町)の住人高麗彦四郎経澄とが対戦した場所である。
当時、室町幕府では、将軍足利尊氏と弟直義との間に反目が続き、関東の武士団もそれぞれ両派に分かれて、たがいに争っていた。たまたま高麗経澄は尊氏方に属して、宇都宮氏討伐のため下野(栃木県)に下向中だったが、直義党の根拠地鎌倉の攻略に転じ、同年同月17日、武州鬼窪(南埼玉郡白岡町)に兵を挙げると、鎌倉街道を一路、府中(東京都府中市)へ向かって進撃してきた。それを直義側の難波田九郎三郎が、この羽根倉の地に迎え撃ったのである。
合戦の結果は、難波田勢の敗北に帰し、九郎三郎はじめ多くの部下が討死した。
昭和57年7月1日
志木市教育委員会

と記されています。

古戦場跡から難波田城方面が見えました。難波田九郎四郎は、籠城戦を考えなかったのかと思える近さです。

今まで何十回、いや何百回も通過していたことに(汗)
当時、堤防上や河川敷は一般車両の裏道として黙認されていました。平成10年頃、通行不可になったと記憶しています。
古戦場の碑や、史跡の案内を注視するようになったのは最近のこと。アンテナは常に高くしておかないといけないなぁ。
地図はこちら
by ckk12850 | 2008-01-26 18:30 | 古戦場【歴史観光】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助