自得軒砦

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城名:自得軒砦
別名:自得軒・太田道真館・太田道真退隠の地
城主:太田道真
住所:埼玉県入間郡越生町小杉641番地・建康寺裏
遺構:山腹平場

越生市街の北、県道飯能寄居線(30号線)を越生梅林方面に入ります。県道越生長沢線(61号線)です。
越生梅林の入口を右方向に折れ、越辺川を左手に見ながら直進。和田川橋を渡り、月ケ瀬橋のところは渡らず右手方向に。
梅林入口から800mのところに小さな寺院があります。建康寺です。

新編武蔵風土記稿、入間郡小杉村の項には次のように記されています。(意訳)
太田道灌邸跡、今は田園となり一段四畝ほどの地にして、建康寺の傍らにあり、小字を陣屋と呼び、道灌の別邸だろうか。ある書物では道真が小杉に隠居し、明応元年2月2日、82歳で死去したといい、道灌ではなく、道真の邸(屋敷)跡ではなかろうか。

建康寺の小さな境内に案内板があります。
建康寺(けんこうじ)
太田道灌の父道真は、龍ケ谷の三枝庵に砦を築き、鉢形城主長尾景春に対抗したが、道灌が勢力を回復するとそこを出て、この地に隠居所自得軒を築き隠棲した。
文明18年(1486)の夏、相國寺の詩僧万里集九は、道灌と共に、この地を川越城から道真を訪ねた。万里はその一夜のようすを著作「梅花無尽蔵」の中で次のような絶句で残している。
稀郭公(ほととぎす稀なり)
縦有千声尚合稀(たとえ千声ありと云えども尚合ふは稀なり)
況今一度隔枝飛(いわんや今一度枝を隔てて飛ぶをや)
誰知残夏似初夏(誰か知らん残夏初夏に似たるを)
細雨山中聴末帰(細雨山中にきいて未だ帰らず)
翌朝、万里は道灌父子と別れ、故郷岐阜へ去った。その年の秋、道灌は相模国糟谷で暗殺され、これが道灌父子最後の対面になった。
道灌の死を悼んだ父道真が道灌の菩提をとむらうために、この地に建康寺を建立したもので、龍穏寺三世泰叟和尚が開山した。
そして、今でもこの辺には、越辺川に架かる道灌橋を始め、陣屋、馬場跡、砦などの地名が残されている。
昭和58年3月 埼玉県

既に太田道真館(自得軒)として紹介済みですが、案内板の「砦」の地名が気になっていました。

「陣屋」、「馬場」は確認できたので、「砦」は山の中、または高台かと思いました。
そこで建康寺の西側にある標高285.8mの登山を計画していました(苦笑)
ここに砦を築いたのではないかと思い、登山道を探すために訪問しました。

ところが、建康寺本堂裏の木々が伐採されて、見事な自得軒砦が出現したのです!
冗談のようなコンクリート補強の石垣遺構なので判断は別にします。砦跡があっても良いのではないかと思った場所に石垣が現れたことがラッキーなのです。
本堂裏、石垣の左手前から墓地前を通って登れます。
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石垣上の平場は、聖徳太子、正一位稲荷、愛宕山将軍大菩薩が祭られていました。
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高台から見える景色は無駄がありません。実に効率的な立地条件なのです。
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これ以上高台を探しても意味があるのかどうか考えること数分。当初予定していた標高285.8mの登山は後日訪問。遺構は不明でした(苦笑)
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>道灌状より
文明12年(1480年)正月4日、長尾景春は児玉で蜂起。道灌は江戸城から出兵、6日に塚田へ到着。上杉定正は川越城から大谷に出兵、13日に沓掛へ進軍、ここで両軍合流し、児玉を攻撃する準備を整えました。
しかし景春は秩父に逃げ込み、正月20日、太田道真のいる越生を奇襲しましたが、道真はこれを撃退しています。

越生の地において、どのような戦いがあったのでしょうか。道真は龍穏寺に参詣中でしたが、この自得軒砦や三枝庵はどのように機能したのでしょうか。
太田道真の底力を改めて思い知らされたのでした。長尾景春もお手上げです。
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by ckk12850 | 2008-03-17 07:00 | 入間郡越生町【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助