仙波氏館

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城名:仙波氏館
別名:仙波の城?
城主:仙波氏
住所:埼玉県川越市仙波町3丁目1番地~31番地・長徳寺
遺構:武蔵野台地土塁・仙波湧水の堀

概要:
川越駅からそれほど遠くない市街地に、のどかな風景が見られるとは驚きです。長徳寺近辺には、住宅地が増えてきたとはいえ、畑地も多く残っています。
平成16年に川越船運の遺構である仙波河岸公園が開園される等、水の手に不便しなかったことが分かります。

館跡は、仙波堀の内の地にあったとのことですが、現在の仙波町3丁目31番地、長徳寺から西に向って3丁目1番地になるまでが館跡推定地のようです。
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なお、長徳寺は、この館主である仙波氏の持仏堂が発展したものと推定する説があります。
広さは、約3600坪の広さといわれています。武蔵野台地の東端にあり、長徳寺の周辺が半島状に突出していることが地図から分かります。
東方面は、現在も急な坂を下る形となります。台地の下は、桜並木と菜の花が美しい新河岸川が流れていますが、これは昭和初期に新たに掘削された河川です。外堀と勘違いしないように注意したいところです。当時は、一面の湿地帯、または水田だったと思われます。
大地上の西の守りが気になるところですが、攻められたらまったく無防備です。おそらく堀で仕切っていたと思うのですが不明です。現在、堀跡らしきものは確認できません。

歴史:
館主である仙波氏の起源ですが、武蔵七党の1つ、村山党の出自です。桓武天皇の曾孫で、初めて平氏を称した高望王は上総介となり、坂東(関東地方)に下り、嫡子の国香は常陸大掾に、良兼は下総介に、良将は鎮守府将軍に、良孫は上総介に、良持は下総介に、良文は武蔵守に、良持は常陸少掾に任じられ、坂東八平氏の基礎が築かれます。
高望王の子、良文から5代目が村山頼任であり、東京都東村山付近に在住しました。その子、頼家の子息は入間郡内各地に分散し、大井、宮寺、金子を称し、そのうちの1人は、村山家継、または、村山小七郎、山口七郎と称し、所沢市山口に山口城を構えました。この地には、今でも城跡が残ります。この家継の子、家信が仙波七郎と称し、1150年頃、仙波に館を構えたのです。以来、代々在地領主として活躍しました。
その他の村山党は、難波田、久米、荒幡、須黒、横山、広屋氏と分かれ、鎌倉時代初期に入間郡南部は村山党で独占されました。

長徳寺の案内板と新編武蔵風土記稿によれば、保元物語では仙波七郎高家、また、鎌倉幕府の公式文書である吾妻鏡では、仙波平太、太郎、次郎、弥三郎、佐衛門尉などの名前が見受けられるとのことです。1156年の保元の乱では河越氏と共に源義朝に従い、崇徳上皇の白河殿を襲撃しました。また、1221年の承久の乱では、河越重員、越生氏らと鎌倉幕府執権の北条泰時の軍に加わり、京都宇治山田で朝廷軍を破ったそうです。

武蔵武士によれば、1156年の保元の乱では村山党の金子十郎家忠、山口六郎家俊、仙波七郎家信が参加して、家信は、敵の大矢新三郎の左肩を斬る武勲をあらわしたとのことです。
1185年に源頼朝が相模の勝長寿院へ落慶供養のための参詣した際と、1190年の頼朝上洛の際に、仙波二郎安家が随兵に選ばれました。
1195年に頼朝が東大寺の供養のため鎌倉を出発した際は、仙波太郎信恒が随兵となっています。
また、1221年の承久の乱では宇治の合戦時に、仙波太郎信恒、仙波佐衛門尉家行、仙波弥二郎が戦死しました。
1272年、六波羅南方の北条時輔(北条時宗の兄)が鎌倉幕府に反抗したとき、仙波盛直は、反乱軍に参加したので成敗されています。
以上のように仙波氏は、かなり勢力があったものと思われます。仙波庄の村は、川越市高階、上福岡市、大井町、富士見市、三芳町に渡ったとのことで広大な荘園を持っていました。

なお、仙波氏は、1368年の武蔵平一揆により河越氏と共に衰退したか、1545年の川越夜戦後に上杉氏と共に衰退したと思われます。
しかし、家名は存続したようです。
永禄年間の北条氏所領役帳にも仙波氏の名があります。仙波七郎は相模高座郡打戻に30貫の知行、仙波藤七郎は伊豆に135貫の知行、先祖は武蔵仙波の出自であろうとのことです。また、徳川幕府に仕えた旗本仙波氏の先祖、肥前守久種は、仙波家信の後裔で、小田原北条氏に仕え、その子、兵部少輔次種は北条氏政に仕え、相模高座郡遠藤村に居住したと伝えられています。その子孫は数家に分かれて幕末まで継続したとのことです。

永享記等では太田道真が河越築城時に仙波の城を引き移したとありますが、新編武蔵風土記稿では疑問があるとして、河越館から移したのであろうとしています。仙波の城が、この仙波氏館であるかどうかは不明です。現在の喜多院説もあるためです。

また、新編武蔵風土記稿の大仙波村、長徳寺の項によれば、
「天台宗、仙波喜多院末、冷水山淸淨土院と号す。開山は、慈覚大師という。当寺に伝わる古い過去帳に、永正甲戌(1514年)涅槃天台沙門實海と記されているので、この人は、中興開山の僧ではなかろうか。本尊は、阿弥陀を安置する」
と記されているのみです。史料では、長徳寺が仙波氏館跡である証拠は残念ながらありません。
確かに川越市の指定史跡ですが、長徳寺の案内板にも仙波氏館跡だと推定されているという微妙な表現が使われています。

遺構:
長徳寺の近辺から察するしかないが何も見当たりません。
長徳寺の案内板によれば、境内には少しばかりの堀や土塁が残っていたそうです。現在、その遺構を確認することはできませんでした。
寺の北から東に長徳寺を取り囲むように、武蔵野台地(川越台地)を利用した崖状の地形が確認できます。

特に北側からの眺めは当時を彷彿させます。
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北側崖下には水堀もあります。
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by ckk12850 | 2005-03-06 10:41 | 川越市【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助