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西尾氏陣屋

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城名:西尾氏陣屋
別名:―
城主:西尾隠岐守吉次・西尾丹後守忠永
住所:埼玉県上尾市上尾下906番地近辺
遺構:台地

上尾環状線(323号線)の南、上尾下という地の微高台地が陣屋跡らしいので訪問。

自分でも呆れるほどマニュアルどおりの訪問です。ここまで徹底すると訪問の喜びも半減するかも。マニュアルとは「歴史ロマン 続・埼玉の古城址30選」です。

最初に原市975番地の妙厳寺へ。
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ここに西尾氏一族累代の墓があるから。訪問したのは水曜日でしたが、事務ならぬ寺務は休みだそうです(苦笑)
立派な寺院です。
寺院が立派だと思ったら、墓石も立派でした。
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案内板が設置されていました。
「上尾市指定有形文化財(史跡)
西尾隠岐守一族累代の墓
上尾市大字原市975番
昭和34年1月1日指定
西尾隠岐守吉次は、家譜によれば三河国東条(愛知県一宮町)の生まれで、後に織田信長の側近くに仕え、天正2年(1574)には美濃国(岐阜県)で3,000千石の地を給された。天正10年(1582)の「本能寺の変」の際には、家康を案内して堺におり、いわゆる「神君伊賀越」に同行し、その後、天正11年(1583)に家康の家臣となり、小牧・長久手の合戦や北条攻めなどに従軍し、天正18年(1590)家康の関東入国に際して、足立郡で5,000石の地を給され、上尾下村から原市にまたがる地に陣屋を設けたという。
この知行地は、現上尾市・桶川市の東部の地域と見られる。慶長7年(1602)には美濃国で7,000石を加増され、都合1万2,000石を支配する大名となった。慶長11年(1606)8月26日77歳で京都伏見に没し、吉次が菩提寺として再興した原市村妙厳寺へ葬られた。
所領は2代目忠永が継ぐが、元和2年(1616)に上野国群馬郡白井(群馬県北群馬郡子持村)で8,000石を加増され、さらに同4年に常陸国土浦(茨城県土浦市)へ転封となり、西尾家の28年にわたる足立郡の支配が終わった。
指定の「西尾隠岐守一族累代の墓」は五輪塔など全部で12基、初代吉次から11代忠篤(明治43年没)までの当主の墓が11基、3代忠昭(照)の室の墓1基である。大名の墓所がそろっているのは、市内で唯一である。
平成16年12月1日
上尾市教育委員会」
と記されています。
歴代の墓所の配置図もあるので誰がどの墓なのか分かります。
注目すべきは、西尾氏は2代で上尾以外の知行地になったのですが、以降明治に至るまで菩提寺としたことでしょう。

マニュアルどおり陣屋跡推定地付近の「陣屋公民館」へ。公民館は民有地のようで、公民館の写真を撮っている自分が怪しい人物に。その都度事情を説明するのは面倒。陣屋跡を調べているという話に乗ってくれる方がいらっしゃらなかったのは残念です。
陣屋跡推定地付近は、住宅の建設ラッシュでした。
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救いは帰宅後、地図上で「榎戸」という地名が発見できたことでしょうか。
公民館北側に空堀状の溝があるとマニュアルに書いてありましたが、路上駐車のため早々に断念。実は帰宅後に知ったためでもあり(苦笑)

最後に県民スポーツ研修センターから、芝川を挟んで陣屋跡付近を撮影。
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お、高台だと確認できるな!
これもマニュアルどおり(笑)
by ckk12850 | 2008-10-23 06:00 | 上尾市【城跡】

主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪


by 左馬助