そこに城があるから
2024-03-01T07:00:56+09:00
ckk12850
主に埼玉県【入間郡&比企郡】の城館跡探訪記です♪
Excite Blog
別所神社
http://ckk12850.exblog.jp/33129690/
2024-03-01T07:00:00+09:00
2024-03-01T07:00:56+09:00
2023-10-21T14:50:04+09:00
ckk12850
全国神社仏閣【歴史観光】
名称:別所神社住所:長野県上田市別所温泉2338
駐車場は常楽寺へ。駐車場から徒歩100mです。
建物は天明8年(1788)と考えられ、安楽寺の山門等、多くの塩田平の寺社建築に携わった上田房山の末野一族によるものです。境内の神楽殿、本殿背に祀られる「本朝縁結大神」が有名です。
眺めも最高。限定御朱印を集めて、塩田平がコンプリートする直前でしたが、まさかの在庫なし状態。
誰に連絡すれば良いのかも不明で、仕方なくノーマルタイプの御朱印を入手しました。
管理人は常楽寺なのか、確認したかったのですが大雨で諦めました。
地図はこちら
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前山塩野神社
http://ckk12850.exblog.jp/32979063/
2024-02-01T07:00:00+09:00
2024-02-01T07:01:18+09:00
2023-05-20T18:31:59+09:00
ckk12850
全国神社仏閣【歴史観光】
名称:前山塩野神社住所:長野県上田市前山1681
駐車場のようなスペースがありますが、駐車可能か不明です。徒歩数分の中禅寺から訪問することをオススメします。御朱印も中禅寺で記帳です。
武田信玄がこの神社に朱印状を奉じ、戦場での幸運を祈ったと伝えられています。平安時代から続く水の神の神社です。
木造の太鼓橋があります。下を流れる川は、独鈷山の湧き水が流れているそうです。塩野川と呼ばれ、鹿川に合流するそうです。
2階建ての拝殿は、楼閣造りと呼ばれ1743年建造です。
本殿は、上り竜、下り竜の透かし彫りが有名です。
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長福寺
http://ckk12850.exblog.jp/32979061/
2024-01-02T07:00:00+09:00
2024-01-02T07:00:42+09:00
2023-05-20T18:26:10+09:00
ckk12850
全国神社仏閣【歴史観光】
名称:長福寺
住所:長野県上田市下之郷541
無料駐車場があります。清潔なトイレもあります。
隣接する生島足島神社があるためで、長福寺も一緒に訪問した次第。
平安時代の康保2年(965)創建です。
境内にある八角円堂は奈良の法隆寺を2分の1の縮尺で建てられています。
国重要文化財の「長福寺銅造菩薩立像」が安置されています。アルカイックスマイルを特徴とする、高さ36.7㎝の小金銅仏で、7世紀後半の白鳳時代の作品と考えられています。もとは、上高井郡小布施町の旧家に伝わるものでしたが、昭和初期に長福寺に移されました。
長福寺ホームページによれば、正月三が日に御開帳されるとのこと。また、電話予約で拝観可能だそうです。
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信濃国分寺
http://ckk12850.exblog.jp/32979058/
2023-12-01T07:00:00+09:00
2023-12-01T07:01:36+09:00
2023-05-20T18:22:40+09:00
ckk12850
全国神社仏閣【歴史観光】
名称:信濃国分寺住所:長野県上田市国分1049
無料駐車場があります。
訪問の際は、信濃国分寺跡と間違えてしまわないように。南方200mにあり、現在は史跡公園となっています。
まずは、右手に国指定重要文化財の三重塔がお出迎え。建築様式から室町時代の建立と推定されています。寺伝では建久8年(1197)に善光寺詣での帰途、寺の衰退を憂い塔の復興を命じたそうです。
続いて本堂。
薬師堂とも呼ばれ、薬師如来が安置されています。
珍しいのは蘇民将来符。
息災安穏、招福、繁栄を願う護符です。泥柳の木を六角形のこけし型に、大福、長者、蘇民、将来、子孫、人也という文字と文様を墨と朱色で書き入れています。
毎年、1月7日、8日の八日堂縁日に販売されますが、普段の日でも小さなタイプが1,000円で販売されています。角大師のステッカーや紙タイプも授与されています。
角大師(つのだいし)は、元三大師(がんさんだいし)で、家の玄関等に貼ると厄病災難除けになるそうです。
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真田徳川会見之地
http://ckk12850.exblog.jp/32979048/
2023-11-01T07:00:00+09:00
2023-11-05T15:21:40+09:00
2023-05-20T18:18:34+09:00
ckk12850
全国その他【歴史観光】
名称:真田 徳川 会見之地住所:長野県上田市国分1049
信濃国分寺境内にあります。無料駐車場があります。
訪問の際は、信濃国分寺跡と間違えてしまわないように。南方200mにあり、現在は史跡公園となっています。
本堂に向かう参道に石碑があります。
真田 徳川 会見之地戦国時代に上田城を構えた真田昌幸が、徳川の大軍を前後2度にわたり打ち破った「上田合戦」は郷土の語り草のみならず、講談や歴史小説でも有名です。国分寺が登場する合戦は「第二次上田合戦」で、当地で真田と徳川のいわゆる「国分寺の会見」(慶長5年:1600年9月)が行われたとされます。この会見で、真田方が計略をもって徳川秀忠の3万8千の軍を足止めしたことにより、秀忠は関ヶ原の戦、に間に合いませでした。このことが後の家康と秀忠の関係に微妙な影を落とし、創設期の江戸幕府の体制にも影響したといわれます。寺に訪れる参拝者からも「どこで会見が行われたのか」等の質問が、ときどき寄せられます。
28年度のNHK大河ドラマ「真田丸」放送を機として、「真田 徳川 会見之地」の石碑を建立し、地域の歴史を顕彰することにいたしました。「国分寺の会見」がどこまで史実であるかについては、江戸中期編纂とされる「上田軍記」が初出であり、疑問も残りますが、当時の状況を鑑みれば「国分寺の会見」当時、三重塔以外に粗末なお堂しかなかったようです。「永禄天正の頃、兵火の災にかかりて、本堂坊舎残らず焼亡し畢ぬ。奇なるかな霊仏の尊像ならびに三重の塔のみ火煙の中に残れり。時の住僧、悲嘆のあまり僅かに草堂を営み安置し奉る。」会見は、境内地に陣幕を張るなどして行われたのではないでしょうか。
八日堂 信濃国分寺
真田軍記に記されている点が有力地としての根拠でしょうが、建物がほとんど残っていない場所での会見があったかについては、寺としても確証が得られないのでしょう。しかし、他の候補地もある訳でもなく、もう少し有名になってほしい場所です。
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出流山満願寺
http://ckk12850.exblog.jp/32868907/
2023-10-01T07:00:00+09:00
2023-10-02T21:17:26+09:00
2023-01-14T15:03:09+09:00
ckk12850
全国神社仏閣【歴史観光】
名称:出流山満願寺住所:栃木県栃木市出流288番地
真言宗智山派出流山満願寺は、弘法大師御作の千手観音菩薩をご本尊とする坂東三十三観音第17番札所です。
今から1,200余年前に修験の行者、役の小角によって「観音の霊窟」(鍾乳洞)が見つけられ、天平神護元年(765年)日光山繁栄の源を作られた勝道上人によって開山されました。この「観音の霊窟」には鍾乳石によって自然にできた十一面観音像があります。
下野の国司の高藤介の妻が子宝に恵まれず、この「観音の霊窟」で子宝を得ることができるということを聞いて21日間「観音の霊窟」に籠り、翌天平7年に男の子を授かりました。この子がのちの勝道上人です。以来、当山の奥之院にお祀りされている鍾乳洞で自然にできた「十一面観音菩薩」は子授け、安産、子育てのご利益があると信仰されています。(満願寺ホームページより)
さて、事前に予習したので訪問。
ラスト500m、道が狭い、寺の駐車場が狭いため大渋滞。
蕎麦街道ともいうほど、蕎麦屋が多いので岩本屋で昼食。
ここに駐車して徒歩数分で山門です。
蕎麦は美味。妻沼のネギ天も美味。4~5人ならば一升蕎麦がオススメです。
途中、信徒会館の前を通りますが、千と千尋の神隠しの舞台を彷彿させる建物です。
すぐに本堂です。
ここで悩んだのが奥の院約1㎞の山道で、健脚でも20分かかるとのこと。
1㎞の山道を歩き、大悲の滝から石段を登ること百余段で奥之院の拝殿に入ります。この拝殿が鍾乳洞の入口になっており、中に鍾乳石で自然に出来た十一面観世音菩薩の後ろ姿のご尊像が拝されています。
奥の院は、次回の楽しみにしておきました。
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広拯山長岳寺
http://ckk12850.exblog.jp/32868900/
2023-09-01T07:00:00+09:00
2023-11-05T15:19:12+09:00
2023-01-14T14:56:06+09:00
ckk12850
全国神社仏閣【歴史観光】
名称:広拯山長岳寺住所:長野県下伊那郡阿智村569
弘仁年間に伝教大使により創建された古刹です。本堂には、木拯山観照寺(現薬師堂)の本尊薬師如来(おそそ薬師)が祀られ、縁結び、子宝の仏様とされています。
武田信玄を火葬した由緒ある寺です。野田城攻めの際、病が重くなり三河から信州伊那を経ての帰途、天正元年4月12日、駒場の山中で落命されたとのこと。
終焉地については、一ノ瀬義法著「武田信玄終焉地考」により根羽説が強いと思われます。根羽で死去して駒場で火葬されたと考えるのが妥当でしょう。
信玄火葬塚は、阿智PA近くの山の中にあるそうです。阿智第一小学校の隣に安布知神社があり、その入口に火葬塚への道標が出ています。高速下を潜って山へ登っていくと貯水池や畑が見えます。ここで雪のため戻りました。本来なら、畑の間の山道を登れば「武田信玄公火葬塚」と書かれた看板があり、その背後に塚が残るそうです。
さて、寺の境内には1972年の400年忌にあたり建立された十三重塔があります。
また、小説武田信玄を執筆した新田次郎の句碑があります。「木枯しやいまはた遠き信玄公火葬塚」と刻まれています。
残留孤児の父と呼ばれた、第27世住職、山本慈昭法師は中国残留孤児の日本帰国に尽力しています。
2014年「望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」で映画化されています。興味がある方は満蒙開拓平和記念館の訪問もオススメです。
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高遠城
http://ckk12850.exblog.jp/32868850/
2023-08-01T07:00:00+09:00
2023-11-05T22:34:31+09:00
2023-01-14T13:36:57+09:00
ckk12850
日本全国【城跡】
城名:高遠城
別名:兜山城
城主:高遠氏・武田氏(秋山虎繁、諏訪勝頼、武田信廉、仁科五郎盛信)・保科氏、鳥居氏・内藤氏他
住所:長野県伊那市遺構:大手門・問屋門・桜雲橋・太鼓櫓・進徳館・石垣・堀
高遠城は、天竜川支流の三峰川と藤澤川の合流点に形成された河岸段丘上にあります。本丸の標高は約800m、西側の城下から見ると小高い山のようになっていますが、上部は平地になっており、一般的に平山城と呼ばれる城です。三峰川に面する南側は切り立った崖になっており、三峰川から本丸までの比高は約80mあります。ここは諏訪盆地と伊那谷を結ぶ杖突街道に面する交通の要衝であり、伊那市街地まで一望できる高台にあることから、軍事上重要な城です。
高遠は古くから諏訪氏の勢力圏にあり、14世紀頃(南北朝の時代)に諏訪氏から分かれた高遠氏が治めていました。
戦国時代になると、信濃へ侵攻した武田信玄が、伊那谷攻略の足がかりとして高遠を押さえ、高遠氏から城も奪い取りました。天文16年(1547)に信玄は高遠城の改修を行い、城主には秋山虎繁や信玄四男の諏訪勝頼が就きましたが、勝頼が武田家の後継者として甲府に呼び戻された後は、信玄弟の信廉や信玄五男の仁科盛信が城主となっています。信玄の近親者ばかりが高遠城主になったのは、ここが南信濃支配の拠点であり、遠江、信濃、甲斐を繋ぐ交通の要所として重要視されたからだと考えられます。
江戸時代の高遠城は、高遠藩(石高3万3千石)の政庁となり、保科氏、鳥居氏、内藤氏という三家の大名が入れ替わりで城主に就きました。(以上、パンフレットから一部抜粋)
さて、殿坂口から登城です。
早速、大手門跡と大手門です。
廃城の際に取り壊されましたが、太平洋戦争後に城内へ戻されました。高さや間口を縮めるなど、江戸時代と比べて規模は小さくなっています。
大手門の場所は当時と少し異なります。
駐車場から登城します。深い堀に驚きました。さすが、日本100名城です。
赤い桜雲橋を渡って本丸に向かいます。
城門かと思っていましたが、高遠城下の本町の問屋役所にあった門だそうです。昭和20年代、問屋役所の建物を取り壊す際、歴史ある門が高遠から失われることを惜しんだ町の有志が買い戻し、募金を集めて城跡に移築したそうです。
桜雲橋とセットで撮影された写真が高遠城の代名詞になっている感があります。
桜の咲く頃や紅葉の頃に訪問してみたくなります。
太鼓櫓です。これも高遠城のシンボルです。
明治時代に建てられた櫓で、時を告げる太鼓がおかれたそうです。江戸時代、時の太鼓は城内の搦手門の中にありましたが、明治に入り搦手門が取り壊されると、太鼓を置くための櫓が城の対岸の白山に建てられました。この太鼓櫓は明治10年(1877)頃に現在の位置に移されたそうです。
本丸内から見る高遠の町並みは素晴らしいです。
本丸内の神社は、新城神社と藤原神社です。新城神社の祭神は仁科五郎盛信で、藤原神社の祭神は高遠藩主内藤家の祖先にあたる藤原鎌足や代々の内藤家当主です。どちらも江戸時代から城内にあった神社です。
珍しい洋館風の建物があります。昭和11年(1936)建築、木造総2階建、入母屋造、2階には200畳敷の大広間があります。国の登録有形文化財になっています。
三ノ丸には、藩校「進徳館」も開かれ、城内に唯一残された江戸時代の建物です。
城下町も散策しましたが、高遠蕎麦が有名だそうです。からし大根に味噌を混ぜたつけ汁ですが美味。一度は食べておきたい蕎麦です。
地図はこちら
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春日岡山転法輪院惣宗官寺(佐野厄除け大師)
http://ckk12850.exblog.jp/32778882/
2023-07-01T07:00:00+09:00
2023-08-06T15:36:45+09:00
2022-10-09T10:08:09+09:00
ckk12850
全国神社仏閣【歴史観光】
名称:春日岡山転法輪院惣宗官寺(佐野厄除け大師)住所:栃木県佐野市金井上町2233
無料駐車場があります。境内はもちろん、周辺にも多数あります。
パンフレットの「春日岡山の歴史」に記されています。
春日岡とよばれ、多くの人から親しまれている寺である。朱雀(すじゃく)天皇の944(天慶七)年3月、奈良の僧 宥尊(ゆうそん)上人が開いた寺で、最初は日本の仏教で最も古い南都六宗の法相宗に属し、正しくは春日岡山転法輪院惣宗官寺 (かすがおかやまてんぼうりんいんそうしゅうかんじ)という。藤原秀郷公が平将門降伏の誓願により、佐野の春日岡 (現在の城山公園)の地に、春日明神の社殿とともにお寺を建て 朱雀天皇に申し上げたところ、天皇は大変喜ばれ「春日岡山惣宗官寺」の勅額を賜ったといわれている。それ以来、藤原一門の信仰あつく栄えたが、平安時代の末期の保元・平治のころには衰えた。その後比叡山の僧で俊海という人が、父の藤原光憲から「春日岡は、わが祖父である秀郷公の創立した氏寺である。昔、保元・平治の乱に殿堂が焼けて灰になったが、父の志を継ぎ修行の後にこの山を復興せよ。」このことを深く 心にとどめ、この寺の荒れ果てたことを憂い、正応年間(鎌倉時代)に信徒を集めて、藤原一族および北条一門の有志とはかり、鎌倉幕府九代執権北条貞時をさとして、1297(永仁五)年8月に復興完成し、これ以後「法華経」を所依の経典とし、伝教大師を宗祖と仰ぐ天台宗となる。その後十二世の僧豪海のときに1602(慶長七)年、秀郷公から30代の佐野信吉公が、 幕命により唐沢城をこの春日岡(城山公園)に移すにあたり、寺は現在地に移転した。徳川時代には御朱印五十石を拝領し、寺社奉行も置かれ、三代将軍家光公も参拝する等徳川幕府との縁故も深い。また当山は、厄よけ元三慈恵大師(御本地・如意輪観音)を安置し、厄よけ、身体安全の祈願を続けており、年毎に信者が激増し、正月大祭には約百万人以上の参拝客を仰いでいる。
奇跡れいすい観音、水子地蔵尊、子育地蔵尊、金銅大梵鐘、春日稲荷大明神、パゴタ供養塔、義人田中正造翁の墓、石川啄木歌碑、縁結び道祖神、菊慈童、熱海別院、が境内にあります。
佐野東照宮、鐘楼堂、山門、新書院、本堂内の額、金銅大護摩釜もあります。
特に、山門は江戸初期(慶長8年)、現在の城山公園(佐野城)から現在地に移転する際に移築されてもので、約10万石の格式を持つ大名の大門とされ、総けやき造りの立派なものです。
お守りの自動販売機も楽しみ。おみくじを引きました。地図はこちら
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竜王山中禅寺
http://ckk12850.exblog.jp/32730501/
2023-06-01T07:00:00+09:00
2023-08-06T15:37:39+09:00
2022-09-09T14:13:08+09:00
ckk12850
全国神社仏閣【歴史観光】
名称:竜王山中禅寺住所:長野県上田市前山1721
道標が多いので道に迷うことはありません。無料駐車場があります。駐車場前にはトイレもあります。
入山料は200円。無人の場合は、箱に入れます。
すぐに、薬師堂が見えます。
案内板があります。長野県宝中禅寺木造金剛力士立像種別 有形文化財・彫刻指定年月日 平成13年3月29日
中禅寺木造金剛力士立像は、阿形(右)と吽形(左)の二体があり、それぞれ高さが約207㎝で、金剛力士像としては小振りですが、全体のバランスが良く、怒りの表情も誇張を抑えた、都風の典雅な感覚が表現されています。こうした作風は、平安時代後期の醍醐寺像や峯定寺像(いずれも重文・京都府)と共通しています。細部では腰帯やポーズの取り方、指の開き方などに平安後期様式の金剛力士像の特徴があり、12世紀末頃の制作と考えられています。
平安後期の金剛力士像は長野県内はもとより全国的にも数が少なく、当寺院及び当地方の繁栄を具体的に伝える資料として、薬師堂及び薬師如来像(いずれも重文)とともに貴重な作例です。
国指定重要文化財 中禅寺薬師堂種別 有形文化財・建造物指定年月日 昭和11年9月18日
中禅寺薬師堂は「方三間の阿弥陀堂」という形式で建てられています。方三間とは東西南北のどの方向から見ても柱が4本立っていて、間が三つあることをいいます(柱と柱の間を間(けん)と呼びます)。
茅葺屋根のてっぺんに、少し先の尖った丸い玉(宝珠)や、その下に四角な台(露盤)をのせて、真上から見ると、真四角な屋根に見えます。これを「宝形造」といいます。扉は正面に3ヶ所、残りの三方に1ヶ所ずつあり、あとはみな板を横に張った板壁になっています。このような建て方は、平安時代の終わりごろに行われた形式で、岩手県平泉町にある国宝の中尊寺・金色堂などが、その代表的な例です。また薬師堂の中ほどに、4本の丸い柱(四天柱)を立て、その中に本尊の薬師如来が安置されています。この様式も中尊寺・金色堂と同じです。このような特徴から、薬師堂が建てられたのは、平安時代末から鎌倉時代初期と考えられています。約800年前の長野県最古の建物であるばかりでなく、中部日本最古といわれる貴重な建物です。
国指定重要文化財 木造薬師如来坐像附木造神将立像 種別 有形文化財・彫刻指定年月日 大正12年3月28日
木造薬師如来坐像 桂材 寄木造
像高97.8cm中禅寺薬師堂の本尊である薬師如来坐像は、平安時代後期に隆盛した和様を基本にしたつくりで、顔の表情やからだ全体の表現は、穏やかで丸みを帯びています。しかし、肩や膝の張りが強く、衣の襞の彫りも深く、また、両眼や唇も明快に刻まれているという鎌倉彫刻の特徴もみられます。
これらの特徴から、本像は、13世紀の鎌倉時代初期の制作と考えられています。半眼を開いた穏やかな目、整った鼻筋、語りかけるような口元など、円満でふくよかな顔立ちは、病に悩み一心に拝む人々の心に、安らぎを与えてくれたに違いありません。附木造神将立像(つけたりもくぞうしんしょうりゅうぞう) 檜材 寄木造 像高68.2cmこの神将像は、薬師如来を信仰する人々を守る「十二神将」の一体と考えられますが、その印である頭上の支獣(干支をあらわす獣)を欠いているために尊名ははっきりしません。髪の毛は焔髪(燃え盛る焔のような髪)、目は瞋目(両眼を大きく見開き睨みつける目)で、顔は怒りの表情をあらわにし、鎧をつけた武将の姿をしています。全体の表現から南北朝時代末頃(14世紀末)の制作と考えられています。
本堂の写真は撮り忘れました。それほど魅力的な薬師堂でした。
近所には塩野神社があります。この神社の御朱印は中禅寺で頂戴できます。別所温泉から車で10分程度、前山寺とセットで訪問がオススメです。
地図はこちら
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獨鈷山前山寺
http://ckk12850.exblog.jp/32730493/
2023-05-01T07:00:00+09:00
2023-05-01T07:01:22+09:00
2022-09-09T14:01:23+09:00
ckk12850
全国神社仏閣【歴史観光】
名称:獨鈷山前山寺住所:長野県上田市前山300
無料駐車場があります。清潔なトイレもあります。
塩田平が一望できる場所です。冠木門がお出迎え。案内板があります。
一、当山は、新義真言宗の寺院で、本尊は大日如来、かつては信州四ヶ談林の中に数えられた経学の殿堂であり、塩田城の鬼門に位置してその祈願寺でもあった。
一、往昔、弘仁年中、独股山を護摩修業の霊場として創立、はじめは古義真言にして法相・三論両宗を兼ね、法蔵坊・花蔵坊・地蔵院といっていたが、鎌倉時代に讃岐国善通寺の長秀上人、伽藍建立を発願してこの地に来止し、その規模を拡大して、正法院前山寺としたと伝えられている。
一、爾来世代を重ねること三十六世、何れも談林住持としての名にふさわしい名僧智識であったが中でも第二世祐俊上人は事教兼備の学僧で、七堂伽藍整備をすると共に、興教大師の教相を慕って新義を信奉し、二十巻に亘る写経を残している。
一、第十一世真海僧正は、甲州武田家の信頼厚く天正八年には武田勝頼から十貫四百九十文の朱印安堵状を下附された。この朱印状は、上田市の文化財に指定されている。
一、尚又第三十五世中島栄知大僧正は、華厳経を専攻した学僧で、その晩年には新義真言宗の総本山紀州根来寺の座主に就任、本堂前にそのブロンズ座像がある。
一、境内にある三重塔は、室町時代の建立といわれ、国の重要文化財に指定されている。
一、奥の院独股山(弘法山)には、弘法六師を祀った岩屋堂があり、江戸時代にはここに西国三十三所観音を勧請し、近郷の信仰を集めたことのある景勝の地である。
昭和四十七年三月 誌独股山 前山寺
やや上り坂の欅並木を歩けば薬医門。
ここで入山料200円を払います。
正面に三重塔。塔は三間三重で、高さ19.5メートル、屋根は柿葺。「未完成の完成の塔」と言われ、二、三層に扉も窓もなく、廻廊も勾欄もありません。横板壁を張り詰め、各柱の下部からは長い貫が四方に突出しています。鎌倉時代末期に始まった和様と禅宗様との折衷様式で、建立年代は、様式上室町時代と推定されるそうです。
左に本堂。間口十間、奥行八間の木造萱葺。本尊は大日如来です。萱葺きが見事です。地図はこちら
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元善光寺
http://ckk12850.exblog.jp/32577825/
2023-04-01T07:00:00+09:00
2023-04-01T07:03:12+09:00
2022-05-05T18:56:11+09:00
ckk12850
全国神社仏閣【歴史観光】
名称:元善光寺住所:長野県飯田市座光寺2638
一度詣れよ元善光寺善光寺だけでは片詣り
元善光寺の縁起(パンフレット)を読めば、片詣りの意味が理解できます。
お釈迦様のご在世当時、天竺国(現在のインド)の月蓋長者の願いによって此の世に出現された阿弥陀如来像は、今からおよそ1400年前、欽明天皇の御代に百済国から日本へ渡ってこられました。
しかし物部氏と蘇我氏の争いの後、物部氏によって難波の堀に沈められてしまいました。
その後、推古天皇10年に信州麻績の里(現在の飯田市座光寺)の住人本多善光(よしみつ)公が、国司の供をして都に上った時に、難波の堀にて阿弥陀如来像にめぐりあい生まれ故郷へお連れし、お祀りしたのが元善光寺の起源です。
その後阿弥陀如来像のお告げにより芋井の里(現在の長野市)に阿弥陀如来像を御遷しすることになった時、再びお告げがあって「毎月半ば15日間は必ずこの麻績の古里に帰り来て衆生を化益せん」との御請願を残しました。
善光公は山中にて授かった霊木をもとにして自ら一刀三礼の上、御本尊様と同じ大きさの御尊像を彫られたのが元善光寺の御本尊様となりました。
そもそも善光寺の名は善光公の名を以って付けられたのです。
御詠歌「月半ば毎に来まさん弥陀如来、誓いぞ残る麻績の古里」とあるさまに、古来長野の善光寺と、こちら飯田の元善光寺と両方お詣りしなければ片詣りと云われております。
御開帳を控え、屋根の修復が行われていました。
お戒壇巡りは無料です。わずかな照明もなく、暗闇を歩きます。仏様の胎内巡りともいい、御本尊様の真下にある極楽往生、開運の錠前(仏具の独鈷型)に触れ、仏様と深いご縁を結びます。
境内には顔抜きパネルもありました。
元善光寺数え唄の看板もありました。
元善光寺数え唄
一(ひ)さかたの光あふるる信濃路を
二(ふ)しぎなご縁にみちびかれ
三(み)んなそろってお詣りしたら
四(よ)そでは得られぬご利益を
五(い)つもいっぱいいただいて
六(む)かしも今も変わらずに
七(な)むあみだぶつと唱えつつ
八(や)っと詣れた元善光寺
九(こ)こに詣りてありがたや
十(と)わの幸せねがいつつ
地図はこちら
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山王塚古墳
http://ckk12850.exblog.jp/32847399/
2023-03-01T07:00:00+09:00
2022-12-21T17:21:27+09:00
2022-12-21T16:35:13+09:00
ckk12850
古墳・墓【歴史観光】
名称:山王塚古墳住所:埼玉県川越市大塚1丁目21番12ほか
国の文化審議会は、令和4年12月16日開催の同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、川越市に所在する「山王塚古墳」及び鳩山町に所在する「南比企窯跡」を史跡に指定するよう、文部科学大臣に答申する予定とのこと。
武蔵野台地北端部、川越台の西側縁辺に立地する上円部の直径37m、下方部一辺69m、墳丘盛土の高さ5m、周溝を含めた規模一辺約90mの7世紀中葉以降に築造されたと考えられる上円下方墳です。古墳は旧地表面を整地した後に、上円部、下方部・周溝の順で成形されています。また、墳丘は関東ロームを叩き締めて構築されています。墳丘規模が大きいことや石室の構造は武蔵の地域的特徴を示す反面、上円下方墳という形態は畿内との密接な関係を窺わせます。古墳の構築方法や技術が発掘調査によって、明らかにされたことが重要です。また、武蔵における最終段階の大型古墳のひとつであり、大型古墳築造の終焉を考える上でも重要です。(埼玉県ホームページより)
早速、訪問しました。
約50年前の幼少の頃から何度も訪問しているので、今更ながら感ですが。当時、付近は畑ばかりでした。遠くからでも古墳が見えました。
現在は住宅地の一角にあります。道路は当時のままなので曲がりくねっています。また、交互通行もできません。
訪問のための駐車場はありませんので注意です。
上円部は高いと思っていましたが、4.5mです。思ったより低いです。
下方墳部は草が刈られて概要が把握できます。
墳頂部に庚申塔があったのは覚えていますが、メインではなくやや左にありました。
メインは山王社です。
案内板があります。
市指定 史跡山王塚古墳入間川を北西に臨む右側の南大塚の台地上に築造された上円下方墳であろう。南大塚古墳群としてわかっているのは18基を数えるが そのうちで当古墳は最大のもので、入間川左岸の的場古墳群の牛塚(前方後円墳)古墳と対峙する位置にあり、その勢力圏を知るうえでも貴重な古墳である。
その規模は方形部の一部は約63mで、その高さは1mである。円形部の経は約47mを有し全高4.5mで、方形部の外側には一部ではあるが幅約5mの周溝が現存しており、おそらく全体を巡っていたと考えられる。墳頂部は盗掘の痕跡がみとめられる。東日本最大の上円下方墳であろう。
平成6年3月
川越市教育委員会
この案内板も、やがて国指定史跡に基づく見解に書き換えられることでしょう。
地図はこちら
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南比企窯跡
http://ckk12850.exblog.jp/32847393/
2023-02-01T07:00:00+09:00
2022-12-21T17:20:44+09:00
2022-12-21T16:27:03+09:00
ckk12850
埼玉県その他【歴史観光】
名称:南比企窯跡住所:埼玉県比企郡鳩山町大字赤沼字石田1415番1ほか
国の文化審議会は、令和4年12月16日開催の同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、川越市に所在する「山王塚古墳」及び鳩山町に所在する「南比企窯跡」を史跡に指定するよう、文部科学大臣に答申する予定とのこと。
古代武蔵国の四大窯跡の1つです。6世紀前半から10世紀中頃にかけて総数500基超の窯が操業し、その数は東日本最多を誇ります。窯体構造は基本的に地下式窖窯であり、8世紀前半に最大化し、10m以上の規模を有します。南比企窯跡で生産された須恵器や瓦は、7世紀後半から8世紀初頭には武蔵国府(や郡家 、地方寺院等で利用されました。また8世紀中頃の武蔵国分寺創建や補修にあたり瓦が供給され、出土した文字瓦から武蔵国21郡のうち16郡が生産に関わったことが判明しています。このように、古代において関東の窯業生産の中心的役割を果たすとともに、国分寺造営における労働力編成の一端を示す窯跡として重要です。今回、南比企窯跡のうち鳩山町に所在する石田遺跡、新沼窯跡、天沼遺跡が指定されます。(埼玉県ホームページより)
赤沼古代瓦窯跡、石田国分寺瓦窯跡が鳩山町農村公園内にあります。
斜面を利用した瓦窯跡ですが、古代瓦窯跡、国分寺瓦窯跡の場所がほぼ重複しています。
1回の訪問で埼玉県指定史跡を2つ味わえる場所ですが、瓦窯跡に興味がなければどうでもいい場所に。
案内板があります。埼玉県指定史跡昭和25年3月30日指定赤沼古代瓦窯跡(略)武蔵国分寺の瓦を焼いた窯跡と考えられていましたが、近年の調査で、国分寺以前の瓦窯跡であることが明らかになりました。7世紀後半から8世紀初頭頃の窯跡です。窯跡は、瓦専用窯でなく、須恵器窯としても使用された地下式登り窯です。(略)白鳳寺院としては武蔵国最大と言われている勝呂廃寺(坂戸市勝呂)にも供給されており、何れも、勝呂廃寺の創建期の軒先を飾った瓦であることが判明しています。(略)赤沼古代瓦窯跡は、奈良時代以前の地方寺院とその瓦の供給関係がよく分かるきわめて貴重な窯跡です。
平成9年3月18日
埼玉県教育委員会
鳩山町教育委員会
ここは、内部が見学できます。窯跡ですが、瓦が製作された過程がイメージできるでしょう。
さて、100mほど西に離れて石田国分寺瓦窯跡があります。ここにも案内板があります。
県指定史跡
平成8年3月19日指定
(略)この窯で焼かれたのは瓦と塼で、(略)いずれも武蔵国分寺の創建期8世紀中頃に使われたいわゆる「国分寺瓦」です。この中には「郡名瓦」(郡名を押印・ヘラ書きした瓦)も含まれています。「子玉」(児玉郡=現児玉郡)、「那」「中」(那珂郡=現児玉郡)などの県北西部の郡名瓦が多く焼かれていましたが、ほかに「男」(男衾郡=現大里郡)、「荏」(現荏原郡=現東京都世田谷区・大田区)、「高」(高麗郡=現入間郡)などもあります。(略)鳩山町は、武蔵国分寺の屋根瓦を焼いた武蔵国最大の釜場であり、生産方式は、大きく二つの形態からなっていたようです。一つは在来の須恵器工人によるもの、一つは外来の専門の瓦工人によるものです。石田国分寺瓦窯跡は後者を代表する瓦窯跡であり、武蔵国分寺の創建期の瓦生産体制を理解することのできる貴重な瓦窯跡として、平成8年に県指定史跡となりました。
平成10年3月20日
埼玉県教育委員会
鳩山町教育委員会
この案内板も間もなく修正されることでしょう。
新沼窯跡については、大字泉井字新沼にあり、検出遺構は奈良時代(窯跡26基、溝4条)、出土遺物は奈良時代(須恵器、瓦、瓦塔)及び平安時代(須恵器)。昭和34年に発掘調査され、武蔵国分寺創建期の瓦を生産した窯跡として知られていた。平成22年から実施された発掘調査により、26基もの窯跡の存在が明らかとなった。大半は8世紀中頃から後半の武蔵国分寺創建期のものであるが、一部で9世紀中頃の須恵器が出土していることから当該期の窯跡も存在すると考えられる。出土瓦の中には、古代の郡名を記した瓦「郡名瓦」が多く含まれている。(鳩山町ホームページより)
天沼遺跡については、大字泉井字新沼にあり、平成7年に鳩山町教育委員会の発掘調査が行われ、2基の須恵器窯跡、竪穴建物2棟、灰原1か所が発見されているそうです。
新沼窯跡、天沼遺跡は探しましたが、場所が不明でした。特に、新沼窯跡はピンポイントで訪問しましたが墓地でした。
なお、鳩山町多世代活動交流センター内に発掘物の展示があります。
地図はこちら
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生島足島神社
http://ckk12850.exblog.jp/32577508/
2023-01-01T07:00:00+09:00
2022-05-05T14:02:07+09:00
2022-05-05T14:01:33+09:00
ckk12850
全国神社仏閣【歴史観光】
名称:生島足島神社住所:長野県上田市下之郷中池西701
駐車場は広く、蕎麦屋も併設されトイレも綺麗です。上田市街、別所温泉への交通の便も良く、機会があれば立ち寄りたい神社の一つです。
平安初期にまとめられた「延喜式」に載る古社で、国の真ん中あたりにお祀りされる生島大神と足島大神を祭神としています。神体は「大地」であり、日本列島の真ん中に鎮座しています。
この池を巡らせて神域とされる島をつくる様子は「池心の宮園池(いけこころのみやえんち)」と称され、本殿内殿には床板が無く、大地そのものの土間が御神体とされています。
中世以降には「下之郷大明神」、「諏訪法性大明神」と呼ばれ、北条氏、武田氏、真田氏、歴代上田藩主の手厚い加護を受けています。
参道は、夏至に東鳥居、東御門から朝日の太陽が昇り、冬至には西鳥井、西御門に夕日の太陽が輝くという東西に延びる線上に配置されて、「太陽」と「大地」を結ぶ神社といわれています。
摂社諏訪社は、北向きの本殿に対して南向きに鎮座し、下宮、下社、北宮とも称され、諏訪大神が祀られています。
建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)が諏訪の地に向かわれる途中、この地に立ち寄り、生島足島二柱の大神に米粥を煮て献ぜられる奉仕をされ、その故事は御籠祭、御遷り神事の恒例祭、式年御柱大祭という神事として続いています。現在の社殿は、慶長15年(1610)、真田信之によって再建されています。
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